在宅勤務から出社勤務へ回帰する企業が増えています。対面でのコミュニケーションを活性化し、人材育成や意思決定の迅速化につなげることが主な目的です。
しかし、企業が出社回帰を進めることで、優秀な従業員が離職する可能性もあります。
在宅勤務を前提に生活設計を行ってきた従業員にとって、出社日数の増加は通勤時間や生活費の増加だけでなく、働き方そのものの変更を意味します。
特に、IT技術者や専門職など、勤務場所の柔軟性を重視する人材にとっては、出社回帰が転職を考えるきっかけとなる場合があります。
企業が人材を失えば、採用費や教育費が発生するだけでなく、長年蓄積された専門知識や顧客との信頼関係も失われる可能性があります。
出社回帰によって得られる効果と、人材流出によって失われる価値を比較することが重要です。
今回は、出社回帰が人材確保や従業員の定着に与える影響を整理し、企業が見落としがちな人材流出のコストについて考えます。
出社回帰が従業員の転職動機になる
従業員が転職を考える理由には、賃金や仕事内容、人間関係、将来のキャリアなどがあります。
近年は、勤務場所や勤務時間の柔軟性も重要な判断材料となっています。
在宅勤務が普及したことで、従業員は通勤時間を削減し、仕事と家庭生活を両立しやすくなりました。
そのため、出社回帰によって従来の働き方が維持できなくなれば、仕事内容や待遇に不満がなくても転職を検討する可能性があります。
例えば、地方に居住しながら東京都内の企業で働く従業員が、週3回の出社を求められた場合を考えます。
転居や単身赴任が必要になれば、住宅費や交通費などの負担が増加します。
また、家族と離れて暮らすことによる心理的な負担も生じます。
こうした従業員にとって、在宅勤務を継続できる企業への転職は、生活を維持するための選択肢となります。
企業が出社回帰を進める際には、従業員がどのような理由で働き方を選択しているのかを理解する必要があります。
人材流出によって発生する採用コスト
従業員が離職した場合、企業は新たな人材を採用する必要があります。
採用にはさまざまな費用が発生します。
求人広告費、人材紹介会社への手数料、採用担当者の人件費、面接にかかる時間などです。
特に、専門性の高い人材を採用する場合には、人材紹介会社への手数料が大きな負担となることがあります。
例えば、年収800万円の専門職を採用する際に、人材紹介手数料が理論年収の35%だったと仮定します。
この場合、紹介手数料だけで280万円になります。
さらに、採用担当者や現場管理職の面接時間、採用後の研修費用なども必要です。
これはあくまで仮定による計算ですが、専門人材の採用には相応の費用が発生することが分かります。
出社回帰によって複数の従業員が離職すれば、採用費用が企業の収益を圧迫する可能性があります。
企業は、出社回帰によって期待する生産性向上と、追加的な採用コストを比較する必要があります。
教育費と育成期間も大きな負担になる
人材流出による損失は、採用費だけではありません。
新たに採用した従業員が十分な能力を発揮するまでには、一定の教育期間が必要です。
企業独自の業務手順や情報システム、顧客対応、社内の意思決定方法などを理解するには時間がかかります。
特に、専門性の高い業務では、知識だけでなく経験の蓄積が重要になります。
例えば、経理や税務、法務、システム開発などの分野では、制度や技術に関する専門知識に加え、企業固有の事情を理解する必要があります。
新たな従業員が採用直後から前任者と同じ水準で業務を遂行できるとは限りません。
また、教育を担当する既存従業員の時間も必要になります。
その結果、組織全体の生産性が一時的に低下する可能性があります。
企業は、人材を採用するための費用だけでなく、戦力化するまでの時間と教育負担も考慮する必要があります。
専門知識の流出は金額で測りにくい
人材流出による損失のなかでも、特に評価が難しいのが専門知識の流出です。
企業には、業務マニュアルやシステムに記録された知識だけでなく、従業員個人が経験を通じて蓄積した知識があります。
例えば、長年にわたり企業の税務相談を担当してきた従業員は、過去の取引や税務調査、社内の意思決定の経緯などを理解している場合があります。
また、顧客との交渉経験や社内の人間関係など、文書化しにくい知識も存在します。
こうした知識は、一般に暗黙知と呼ばれます。
暗黙知は、従業員が離職したからといって簡単に引き継げるものではありません。
後任者が同じ水準の判断を行えるようになるまでには、長い時間が必要になる場合があります。
特に、経理、財務、税務、法務、研究開発などの専門分野では、個人が蓄積した知識が企業の競争力を支えていることがあります。
企業が出社回帰によってこうした人材を失えば、採用費や教育費を超える損失が発生する可能性があります。
顧客との信頼関係も失われる可能性
人材流出は、社内業務だけでなく、顧客との関係にも影響します。
営業担当者や専門職などは、長年の業務を通じて顧客との信頼関係を築いています。
顧客が企業そのものだけでなく、担当者の専門性や対応力を評価している場合もあります。
その担当者が離職すれば、顧客との関係を再構築する必要が生じます。
場合によっては、取引の縮小や競合企業への乗り換えにつながる可能性もあります。
また、顧客との交渉経緯や過去の問題への対応など、担当者が持つ情報を十分に引き継げない場合には、業務品質が低下するおそれがあります。
出社回帰によって顧客対応の迅速化を目指したとしても、その結果として経験豊富な担当者が離職すれば、期待した効果が得られない可能性があります。
企業は、人材流出が顧客との関係や売上高に与える影響も考慮する必要があります。
人材流出のコストを具体的に試算する
人材流出が企業に与える影響を、仮定を置いて試算してみます。
従業員1,000人、平均年収800万円の企業があるとします。
この企業で出社回帰を実施した結果、通常の離職に加えて20人が追加的に退職したと仮定します。
追加離職者20人の補充採用において、1人当たりの人材紹介手数料が280万円であれば、採用手数料の合計は5,600万円になります。
さらに、採用活動に伴う社内人件費や教育費などが1人当たり50万円発生すると仮定すると、合計1,000万円になります。
また、新たに採用した従業員が業務に習熟するまでの生産性低下などを、1人当たり100万円相当と仮定すれば、合計2,000万円になります。
これらを合計すると8,600万円です。
これは仮定に基づく試算であり、実際の費用は採用方法や職種、育成期間などによって異なります。
また、生産性低下を金額換算する方法にも不確実性があります。
それでも、わずか20人の追加離職によって、企業に相応の経済的負担が発生し得ることが分かります。
さらに、専門知識の流出や顧客との関係悪化など、金額で把握しにくい損失も考えられます。
企業は、出社回帰の効果を評価する際に、こうした追加離職コストも考慮する必要があります。
出社回帰による生産性向上との比較
出社回帰には、企業にとって一定のメリットがあります。
対面でのコミュニケーションが増えることで、部門間の情報共有が進む可能性があります。
若手従業員が上司や先輩社員から直接指導を受けやすくなることも考えられます。
また、研究開発や新規事業の企画などでは、対面での議論が新しいアイデアの創出につながる場合があります。
一方、すべての業務について出社勤務が在宅勤務より生産性を高めるとは限りません。
集中して資料を作成する業務や、個人で分析を進める業務などでは、在宅勤務が適している場合もあります。
企業は、出社日数を増やすこと自体を目的とするのではなく、業務ごとの生産性を検証する必要があります。
例えば、出社回帰の前後で、業務処理時間、顧客満足度、従業員の定着率、採用応募者数などを比較する方法が考えられます。
その際、業績の変化が出社回帰だけによるものとは限らないため、景気や人員構成などの影響も考慮する必要があります。
出社回帰の効果と人材流出のコストを総合的に評価することが重要です。
優秀な人材ほど転職しやすいという問題
企業が注意すべきなのは、出社回帰による離職が従業員全体に均等に発生するとは限らないことです。
専門性が高く、他社でも能力を発揮できる人材ほど、転職先の選択肢が多い場合があります。
そのため、柔軟な働き方を求める人材が、在宅勤務を認める企業へ移る可能性があります。
一方、転職が難しい従業員は、出社回帰に不満があっても現在の企業にとどまるかもしれません。
その結果、企業が特に確保したい人材から離職するという問題が生じる可能性があります。
ただし、優秀な人材が必ず在宅勤務を好むわけではありません。
対面での協働や職場での人間関係を重視する従業員もいます。
重要なのは、従業員の希望や業務の特性を把握し、企業としてどのような働き方が適しているのかを検討することです。
一律の出社命令だけでは、多様な人材の価値観に対応することが難しくなる場合があります。
出社回帰は採用競争力にも影響する
出社回帰の影響は、現在働いている従業員だけにとどまりません。
新たな人材を採用する際にも、勤務制度が重要な判断材料となります。
例えば、同じ仕事内容と賃金水準の企業が2社あったとします。
一方は週5回の出社を求め、もう一方は週2回の出社と在宅勤務を組み合わせています。
求職者が勤務場所の柔軟性を重視している場合には、後者を選択する可能性があります。
一方、対面での教育や職場での交流を重視する求職者にとっては、前者が魅力的に映る場合もあります。
企業は、自社が必要とする人材の特性を踏まえ、勤務制度を設計する必要があります。
特に、地方在住の専門人材を採用する場合には、在宅勤務の有無が採用可能な人材の範囲を左右します。
出社回帰によって採用対象地域が狭まれば、人材確保が難しくなる可能性があります。
勤務制度は、福利厚生の一部であるだけでなく、企業の採用戦略そのものに関わる問題なのです。
人材流出を防ぐために企業が取り組むべきこと
企業が出社回帰を進める場合には、まず従業員が勤務制度についてどのような希望を持っているのかを把握する必要があります。
従業員アンケートや面談などを通じて、出社回帰による負担や懸念を確認することが考えられます。
次に、出社を求める業務上の必要性を明確にします。
対面での人材育成や部門間連携など、出社によって期待する効果を具体的に説明することが重要です。
そのうえで、職務内容や従業員の事情に応じた柔軟な制度を検討します。
例えば、顧客対応や共同作業が必要な日は出社し、集中して行う業務については在宅勤務を認める方法があります。
また、遠方居住者や育児、介護を担う従業員については、一定の例外措置を設けることも考えられます。
さらに、出社回帰後の離職率や採用状況を継続的に確認する必要があります。
制度変更によって想定以上の人材流出が発生している場合には、勤務制度を見直すことも重要です。
出社回帰は一度決定したら変更できないものではありません。
企業は、制度の効果を検証しながら、必要に応じて改善する姿勢が求められます。
結論
出社回帰は、企業の生産性向上や人材育成を目的とする重要な経営判断です。
しかし、従業員の働き方を大きく変更することで、人材流出につながる可能性があります。
人材流出による損失は、採用費や教育費だけではありません。
長年蓄積された専門知識、顧客との信頼関係、組織内の経験など、金額で測りにくい価値も失われる可能性があります。
特に、専門性の高い人材や経験豊富な従業員の離職は、企業の競争力に影響する場合があります。
企業は、出社回帰によって期待する効果と、人材流出によって発生するコストを総合的に比較する必要があります。
また、出社日数の増加が必ずしも生産性向上につながるとは限らないことにも注意が必要です。
業務の特性や従業員の事情を踏まえ、出社勤務と在宅勤務を適切に組み合わせることが重要になります。
企業が本当に目指すべきなのは、従業員をオフィスに集めることではありません。
従業員が能力を十分に発揮し、企業全体の生産性と競争力を高めることです。
出社回帰によって得られる利益だけでなく、失う可能性のある人材の価値にも目を向ける必要があります。
優秀な人材が働き続けたいと思える環境を整えることこそ、これからの企業に求められる人材戦略ではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月26日朝刊 出社回帰トラブル回避には従業員の納得重要 往復10時間で悩む人も
厚生労働省 雇用動向調査
総務省統計局 労働力調査
厚生労働省 テレワークの適切な導入及び実施の推進のためのガイドライン