長く勤めれば退職金が増える。日本企業で長年にわたり当たり前とされてきた仕組みが、大きな転換点を迎えています。
三井住友信託銀行は、退職金と企業年金について、勤続年数に応じて支給額を増やす年功加算を廃止し、能力や役職を重視する制度へ移行します。
これまで退職金は、長期間勤務した従業員への報償であると同時に、定年まで働き続けることを促す仕組みとして機能してきました。
しかし、転職の一般化、専門人材の獲得競争、人工知能(AI)の普及などを背景に、企業が従業員に求める能力や働き方が変化しています。
今回の改革は、退職金の計算方法を変更するだけではありません。終身雇用と年功序列を前提としてきた日本型雇用のあり方そのものを問い直す動きです。
税理士・FPの視点から、退職金制度の歴史と改革の背景、企業と従業員への影響、今後の働き方について考えます。
三井住友信託銀行が踏み切った年功加算の廃止
三井住友信託銀行の制度改革では、嘱託を除く約1万人の正社員が対象となります。
従来は、能力、役職、勤続年数の3要素を組み合わせて退職金や企業年金の支給額を決めていました。
新制度では勤続年数による加算を廃止し、退職一時金と確定給付企業年金(DB)は能力と役職、確定拠出年金(DC)は能力を反映する仕組みになります。
金利上昇による効果も支給額に反映する方針です。
今回の制度変更によって、従来より退職給付が20%以上増える人がいる一方、昇進しない場合には支給額が減る人も出るとされています。
つまり、同じ会社に長く勤務していても、能力や役割によって退職給付に差が生じることになります。
ただし、年功加算の廃止は、勤続年数が長くなっても退職給付が一切増えないという意味ではありません。
能力評価や役職の変化などによって、将来の支給額が増える可能性はあります。
重要なのは、勤続年数そのものを退職給付の増額要因とする考え方から脱却する点です。
日本型退職金制度が果たしてきた役割
日本の退職金制度は、終身雇用や年功序列型賃金と密接に結びついて発展してきました。
高度経済成長期には、企業が新卒社員を一括採用し、長期間にわたって教育・育成する仕組みが広がりました。
従業員は若い時期に比較的低い賃金で働き、年齢や勤続年数が増えるにつれて給与が上昇します。
退職金も同様に、長期勤務によって支給額が増える制度が一般的でした。
企業にとっては、従業員の定着率を高め、社内に知識や経験を蓄積できるメリットがあります。
従業員にとっても、長く勤務することで安定した収入と退職金を確保できる安心感がありました。
こうした制度は、企業と従業員が長期的な関係を築くための重要な基盤だったのです。
一方、経済環境や産業構造が変化すると、同じ制度が人材の移動を妨げる要因にもなります。
勤続年数によって大きく変わる退職金
中央労働委員会の2025年の調査によると、大卒総合職のモデル退職金額は勤続15年で601万円、勤続30年で2,009万円となっています。
勤続年数が15年増えることで、退職金額は1,408万円増加する計算です。
これは主要企業を対象とした調査であり、すべての企業の平均額を示すものではありません。
それでも、長期勤務が退職給付に与える影響の大きさを理解できます。
特に、勤続年数が一定期間を超えると退職金の増加額が大きくなる制度では、定年前の転職に慎重になりやすくなります。
例えば、勤続25年の会社員が転職を検討する場合、現在の会社で定年まで働けば退職金が大きく増える可能性があります。
一方、転職先では勤続年数が短くなるため、退職金が少なくなることもあります。
転職によって給与が増えても、退職金の減少まで含めると、生涯収入が必ずしも増えるとは限りません。
このように、退職金制度は従業員のキャリア選択にも影響してきました。
年功型退職金が人材流動化を妨げる構造
企業が必要とする人材は、時代とともに変化しています。
従来は、社内業務に精通し、長年の経験によって組織を動かせる人材が高く評価されてきました。
しかし、デジタル化やAIの普及によって、外部で専門能力を身につけた人材の重要性が高まっています。
特に金融機関では、資産運用、デジタル技術、情報セキュリティー、リスク管理などの専門人材が競争力を左右します。
こうした分野では、勤続年数よりも専門性や実績が重視されます。
ところが、退職給付が勤続年数に大きく依存する制度では、中途採用者が不利になる可能性があります。
高い専門能力を持っていても、新卒入社から長期間勤務している従業員より退職給付が少なくなるためです。
年功加算を廃止すれば、勤続年数の違いによる不公平を縮小できる可能性があります。
企業は必要な人材を外部から採用しやすくなり、従業員も退職金の減少を過度に意識せず転職を検討できるようになります。
ただし、人材流動化には賃金水準、採用慣行、職業訓練なども関係するため、退職金制度の変更だけですべてが解決するわけではありません。
AI時代に変化する経験と専門能力の価値
今回の制度改革を考えるうえで、AIの進歩も重要な要素です。
従来、企業では長年の勤務によって蓄積された経験や業務知識が大きな価値を持っていました。
しかし、AIによって定型的な事務処理や情報検索、資料作成などを効率化できるようになっています。
経験年数だけでは、必ずしも高い生産性を保証できない時代になりつつあります。
一方、長年の経験によって培われる判断力、交渉力、問題解決能力、組織運営能力などは、引き続き重要です。
特に、会計、税務、法務、内部統制、リスク管理などの分野では、制度の知識だけでなく、実務経験に基づく判断が求められます。
したがって、AI時代に経験の価値がなくなるわけではありません。
変化するのは、経験年数そのものではなく、経験を通じて身につけた能力を評価する方向に進むことです。
企業には、勤続年数では測れない専門性や貢献を適切に評価する仕組みが求められます。
成果主義への転換がもたらす新たな課題
年功型退職金制度の廃止には、人材の流動化や公平な処遇を促すメリットがあります。
しかし、成果や役職を重視する制度にも課題があります。
例えば、管理職に昇進した従業員と、高度な専門性を持つ非管理職の従業員では、どちらが企業に大きく貢献しているかを単純に比較できません。
また、人材育成、内部統制、コンプライアンス、リスク管理などの業務は、短期的な利益として成果が表れにくい特徴があります。
短期的な業績だけを評価すれば、企業の長期的な競争力を支える業務が軽視される可能性もあります。
さらに、役職による退職給付の差が大きくなると、昇進競争が過度に激しくなる懸念があります。
年功序列を廃止することが、必ずしも公平な制度の実現につながるわけではありません。
企業には、専門職としてのキャリア形成を認めることや、評価基準を明確にすることが必要です。
従業員が納得できる制度を設計できるかどうかが、改革の成否を左右します。
企業と従業員の長期的な関係の変化
年功型退職金制度には、企業と従業員の長期的な信頼関係を支える役割がありました。
企業は長期雇用を通じて人材を育成し、従業員は会社への貢献を積み重ねることで将来の処遇を期待できました。
しかし、能力や役職を重視する制度では、従業員自身が継続的に能力を高める必要があります。
企業も、従業員の成長機会を提供しなければ、優秀な人材を確保できなくなります。
これからは、企業に長く所属することよりも、どのような能力を身につけ、どのような価値を提供できるかが重要になります。
同時に、企業側にも公正な評価、学び直しの支援、柔軟なキャリア形成の仕組みが求められます。
終身雇用が直ちになくなるわけではありませんが、企業と従業員の関係は、所属年数を重視する仕組みから、能力と貢献を重視する仕組みへと変化していく可能性があります。
50代・60代の会社員が考えるべき働き方
退職給付制度の改革は、若い世代だけの問題ではありません。
50代・60代の会社員にとっても、今後の働き方を考える重要なきっかけになります。
従来は、定年まで勤務することが退職金を最大化する合理的な選択となる場合がありました。
しかし、年功加算が縮小されれば、長く勤務することによる経済的なメリットが変化する可能性があります。
その一方、専門性や経験を活用して働き続けることができれば、定年後も収入を得られる可能性があります。
重要なのは、勤務年数だけではなく、自分自身の能力や経験をどのように活用できるかを考えることです。
また、退職給付制度が変更される場合には、現在の退職金見込額、将来の支給条件、経過措置などを確認する必要があります。
退職金は老後資金の重要な一部ですが、勤務先の制度だけに依存することには限界があります。
今後は、退職金、公的年金、金融資産、就労収入などを組み合わせた生活設計が一層重要になります。
結論
三井住友信託銀行による退職金・企業年金の年功加算廃止は、日本型雇用の転換を象徴する改革です。
長く勤めることで退職給付が増える仕組みから、能力や役割を重視する仕組みへの変化が始まっています。
企業にとっては、専門人材の確保や人材流動化を促す可能性があります。
一方、従業員にとっては、勤続年数だけで将来の退職給付を予測することが難しくなる場合があります。
ただし、年功を廃止するだけでは、公平で持続可能な制度にはなりません。経験や専門性を適切に評価し、従業員が納得できる仕組みを整えることが必要です。
人生100年時代には、企業に長く勤めることだけでなく、長く社会で活躍できる能力を維持することが重要になります。
退職金制度の改革は、働き方と老後資金設計を企業任せにする時代から、自分自身でキャリアと生活を設計する時代への転換を示しています。
これからの会社員に求められるのは、勤続年数を積み重ねることだけではなく、経験を価値に変え、変化する環境の中でも働き続けられる力を身につけることです。
参考
日本経済新聞 2026/10/28 朝刊「三井住友信託銀行、退職金・年金の年功廃止 長く勤めても増額なし」
日本経済新聞 2026/10/28 朝刊「退職給付とは 大企業ほど充実、25%は制度なし」
中央労働委員会「令和7年退職金、年金及び定年制事情調査」
内閣府「令和7年度年次経済財政報告」
三井住友トラストグループ「2026年3月期 有価証券報告書」