往復10時間の通勤を命じられるのか 遠方居住者と企業の配慮義務

人生100年時代
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在宅勤務の普及によって、働く場所と住む場所の関係は大きく変わりました。東京都内の企業に勤務しながら地方に居住する働き方が広がり、通勤を前提としない生活設計を選択する従業員も増えました。

しかし、企業が在宅勤務から出社勤務へ方針を転換することで、こうした従業員が難しい判断を迫られています。

日本経済新聞では、所属するオフィスまで飛行機などを利用して往復約10時間かかる地域に住む従業員の事例が紹介されています。

現在は月1回の出社で対応できていても、週3回の出社を求められれば、従来の生活を維持することは極めて困難になります。

転居するのか、単身赴任するのか、それとも転職するのかという問題に直面します。

企業には従業員に出社を命じる権限がありますが、その権限はどこまで認められるのでしょうか。

今回は、遠方居住者への出社命令を巡る法的問題、転勤命令との違い、従業員の生活上の不利益、そして企業に求められる配慮について考えます。

在宅勤務が変えた働く場所と住む場所の関係

従来の日本企業では、勤務先への通勤を前提に居住地を選択することが一般的でした。

特に大都市圏では、通勤時間や交通費を考慮しながら住宅を購入したり、賃貸住宅を選んだりするケースが多くみられました。

しかし、2020年以降の在宅勤務の普及によって、この前提が変化しました。

毎日オフィスへ通勤する必要がなくなれば、勤務先から離れた地域に住むことも可能になります。

都市部から地方へ移住し、住宅費を抑えながら自然環境の豊かな地域で暮らすという選択肢も生まれました。

また、配偶者の勤務先や子どもの教育環境、親の介護などを優先して居住地を決めることも容易になりました。

企業側も、居住地にとらわれない採用によって、人材確保の範囲を広げることができました。

在宅勤務は単なる勤務方法の変更ではなく、企業の人材戦略と従業員の人生設計の双方に影響を与えたのです。

ところが、企業が出社回帰を進めることで、こうした働き方の前提が再び変わろうとしています。

往復10時間の通勤は現実的なのか

遠方居住者にとって、出社回帰の影響は深刻です。

例えば、東京の企業に勤務する従業員が地方に住み、オフィスまでの移動に片道5時間かかる場合を考えてみます。

往復では10時間になります。

週1回の出社であれば、前泊や後泊を組み合わせることで対応できる場合があります。

しかし、週3回の出社となれば、毎回往復することは現実的ではありません。

仮に週3回それぞれ往復すると、移動時間だけで週30時間になります。

これは、通常の週40時間勤務に近い時間を移動に費やす計算です。

実際には、連続して出社する日を設けたり、勤務先の近くに宿泊したりすることが考えられます。

その場合でも、宿泊費や交通費、生活費などの負担が発生します。

また、単身赴任を選択すれば、家族と離れて生活することになります。

こうした負担を考えると、遠方居住者への出社命令は、単なる勤務場所の指定にとどまらない問題を含んでいます。

出社命令と転勤命令は何が違うのか

遠方居住者への出社命令を考える際には、出社命令と転勤命令の違いを理解する必要があります。

出社命令は、従業員に対して会社の事業所などで勤務するよう指示するものです。

一方、転勤命令は、従業員の勤務場所を別の事業所などへ変更するものです。

例えば、東京都内の本社を勤務場所とする従業員が、在宅勤務によって地方に居住している場合を考えます。

企業が本社への出社を求めても、契約上の勤務場所が変更されるとは限りません。

この場合、法的には転勤命令ではなく、従来の勤務場所への出社を求める命令として整理される可能性があります。

しかし、従業員にとっては、転居や単身赴任を余儀なくされるという点で、転勤と同様の生活上の影響が生じることがあります。

ここに重要な問題があります。

法的な命令の形式と、従業員が実際に受ける不利益は必ずしも一致しないのです。

企業は、出社命令だから転勤命令とは異なるという形式的な整理だけでなく、従業員の生活に与える実質的な影響を考える必要があります。

東亜ペイント事件が示した企業の裁量と限界

勤務場所に関する業務命令権を考えるうえで参考になるのが、1986年7月14日の東亜ペイント事件に関する最高裁判決です。

この事件では、企業の転勤命令を拒否した従業員に対する懲戒解雇の有効性が争われました。

最高裁は、転勤命令に必要な業務上の必要性について、特定の従業員でなければ対応できないほど高度な必要性までは要求されないとの考え方を示しました。

労働力の適正配置や業務運営の円滑化など、企業の合理的な運営に寄与する場合には、業務上の必要性が認められ得るとしています。

一方、業務上の必要性が存在しない場合や、不当な動機や目的による場合、従業員に通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせる場合などには、転勤命令が権利の濫用となる可能性があります。

この判決は転勤命令に関するものであり、出社命令について同じ判断基準がそのまま適用されるわけではありません。

しかし、企業の業務命令権には限界があり、従業員の不利益も考慮する必要があるという点で参考になります。

遠方居住者への出社命令についても、業務上の必要性と従業員が受ける負担を総合的に検討することが重要です。

遠方居住を認めた経緯が重要になる

遠方居住者への出社命令では、従業員がどのような経緯で現在の居住地を選択したのかが重要になります。

例えば、企業が在宅勤務を一時的な措置として導入し、将来的には出社勤務に戻す可能性を明確に説明していた場合を考えます。

その説明を受けた従業員が、自らの判断で遠方に転居したのであれば、出社回帰による負担について企業側の責任が限定的に評価される可能性があります。

一方、企業が居住地の制限を撤廃し、全国どこからでも勤務できる制度を恒常的なものとして説明していた場合には、事情が異なります。

従業員が企業の制度を信頼して地方に住宅を購入した場合、制度変更による影響は大きくなります。

さらに、採用時に完全在宅勤務を約束していた場合には、勤務場所に関する個別合意が成立している可能性があります。

このような場合、企業が一方的に出社を命じられるとは限りません。

重要なのは、遠方居住を企業がどの程度認めていたのか、従業員にどのような説明を行っていたのかという点です。

制度の名称だけでなく、実際の運用や労使間の合意内容が判断材料となります。

育児や介護への影響も無視できない

遠方居住者への出社命令では、育児や介護との両立も重要な問題です。

例えば、親の介護のために地方へ移住した従業員が、週3回の出社を求められた場合を考えます。

単身赴任を選択すれば、親の介護を継続することが難しくなる可能性があります。

また、子どもの教育環境や配偶者の勤務先などの事情から、家族全員で転居することが困難な場合もあります。

育児介護休業法第26条は、事業主が労働者の配置の変更で就業場所の変更を伴うものを行おうとする場合、育児や家族の介護が困難になる労働者について、その状況に配慮しなければならないと定めています。

ただし、この規定は就業場所の変更を伴う配置変更を対象としており、すべての出社命令に当然に適用されるわけではありません。

それでも、育児や介護を巡る事情は、企業が勤務制度を設計する際に重要な検討事項となります。

企業は、従業員の家庭事情を把握し、可能な範囲で柔軟な対応を検討することが望まれます。

企業にはどこまで配慮義務があるのか

企業が遠方居住者に出社を求める場合、どこまで配慮しなければならないのでしょうか。

まず、企業には労働契約法第5条に基づく安全配慮義務があります。

これは、労働者が生命や身体などの安全を確保しながら働けるよう、必要な配慮を行う義務です。

ただし、安全配慮義務があるからといって、長時間通勤を伴う出社命令が直ちに違法になるわけではありません。

具体的な勤務実態や健康への影響などに応じた判断が必要です。

また、労働契約法第3条第5項は、労働契約に基づく権利の濫用を禁止しています。

企業の出社命令についても、不当な目的による場合や、従業員に著しい不利益を与える場合には、権利濫用が問題となる可能性があります。

さらに、勤務場所に関する個別合意がある場合には、その合意内容も尊重する必要があります。

つまり、企業に求められる配慮の内容は、すべての従業員について一律に決まるものではありません。

労働契約の内容、出社の必要性、従業員の事情などによって異なります。

交通費や単身赴任費用は誰が負担するのか

出社回帰に伴う経済的負担も重要な問題です。

例えば、遠方居住者が週3回出社するために、勤務先の近くに住居を借りる場合を考えます。

家賃が月10万円であれば、年間120万円の住宅費が発生します。

さらに、帰省のための交通費や二重生活による光熱費、生活用品の購入費なども必要になります。

企業がこうした費用をどこまで負担するかは、労働契約や就業規則、旅費規程、転勤規程などによって異なります。

法律上、出社回帰によって発生する住宅費や交通費のすべてを企業が負担しなければならないという一般的な規定があるわけではありません。

しかし、企業が遠方居住を積極的に認めていた場合には、出社回帰によって発生する負担について一定の支援を検討することが望まれます。

例えば、交通費の特別補助、宿泊費の支給、単身赴任手当、転居費用の補助などが考えられます。

こうした支援措置は、従業員の経済的負担を軽減するだけでなく、制度変更に対する納得を得るうえでも重要になります。

一律の出社命令が公平とは限らない

企業が出社回帰を進める際、すべての従業員に同じ出社日数を求めることがあります。

一律のルールは分かりやすく、管理しやすいという利点があります。

しかし、同じ週3回の出社であっても、従業員が受ける負担は大きく異なります。

勤務先から30分の場所に住む従業員と、飛行機を利用して往復10時間かかる場所に住む従業員では、出社の負担が同じではありません。

また、育児や介護、健康上の事情などによっても影響は異なります。

形式的に同じルールを適用することが、必ずしも実質的な公平につながるわけではありません。

企業は、全従業員に共通する基本的な勤務ルールを設けながら、個別事情に応じた例外措置を組み合わせることが考えられます。

例えば、遠方居住者については一定期間の経過措置を設ける方法があります。

また、業務の性質によっては、出社日数を柔軟に設定することも可能です。

ただし、例外措置を設ける場合には、対象者の選定基準を明確にし、従業員間の不公平感を抑えることも重要です。

出社回帰を円滑に進めるための実務対応

企業が遠方居住者への出社回帰を進める場合、まず居住状況と労働契約の内容を確認する必要があります。

特に、遠方居住を認めた経緯や、在宅勤務に関する個別合意の有無を整理することが重要です。

次に、出社を求める業務上の必要性を明確にします。

対面での人材育成、部門間の連携、顧客対応など、出社によって達成したい目的を具体的に示す必要があります。

そのうえで、従業員が受ける負担を把握します。

通勤時間、交通費、住宅費、家族との生活、育児や介護への影響などを確認することが考えられます。

さらに、経過措置や費用補助、出社日数の調整など、負担を軽減する方法を検討します。

制度変更を通知するだけでなく、従業員との面談や相談窓口を通じて個別事情を把握することも重要です。

出社回帰の目的は、従業員をオフィスに集めること自体ではありません。

企業の生産性を高め、組織としての競争力を強化することにあるはずです。

その目的を達成するためには、従業員の生活環境や働く意欲にも目を向ける必要があります。

結論

在宅勤務の普及によって、働く場所と住む場所の関係は大きく変化しました。

企業が出社回帰を進めることは、経営上の合理的な判断となる場合があります。

しかし、遠方居住者にとっては、出社命令が転居や単身赴任、家族との別居など、人生設計に重大な影響を与える可能性があります。

企業には労働契約に基づく業務命令権がありますが、その権限は無制限ではありません。

勤務場所に関する個別合意、業務上の必要性、従業員が受ける不利益などを踏まえ、出社命令の有効性を判断する必要があります。

特に、企業が遠方居住を積極的に認めていた場合には、制度変更による影響を慎重に検討することが求められます。

また、法的に出社命令が認められる場合でも、従業員が納得できなければ、離職や仕事への意欲低下につながる可能性があります。

企業が目指すべきなのは、すべての従業員を同じ日数だけ出社させることではありません。

業務上の必要性を明確にし、従業員の事情に応じた合理的な勤務制度を構築することです。

出社回帰を巡る問題は、企業の権限と従業員の生活のどちらを優先するかという単純な対立ではありません。

企業の生産性向上と従業員の生活の安定を、どのように両立させるかという経営課題なのです。

往復10時間の通勤を求めることが法的に可能かという問題だけでなく、そのような働き方を求めることが企業にとって本当に合理的なのかを考える必要があるのではないでしょうか。

参考

日本経済新聞 2026年10月26日朝刊 出社回帰トラブル回避には従業員の納得重要 往復10時間で悩む人も

最高裁判所 1986年7月14日 東亜ペイント事件判決

労働契約法 第3条 第5条

育児介護休業法 第26条

厚生労働省 テレワークの適切な導入及び実施の推進のためのガイドライン

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