海外子会社で働く社員が、現地法人の責任者から不適切な経費精算を指示された場合、その指示に従った社員にも責任が生じるのでしょうか。
会社組織では、上司の指示に従って業務を遂行することが一般的です。しかし、上司からの指示であれば、どのような行為でも許されるわけではありません。
特に、架空領収書を利用した経費精算や会社資金の私的流用など、法令や社内規程に違反する行為については、指示した上司だけでなく、実行した社員の責任も問題になります。
2026年10月25日の日本経済新聞では、日本企業の中国現地法人で発生した架空領収書による不正経理事件と、その後の懲戒解雇を巡る裁判が報じられました。
大阪市に本社を置く商社の上海現地法人では、責任者が私的な飲食費や住居費などを会社に負担させ、部下の社員が架空領収書の入手に関与していました。
会社は関係者を懲戒解雇しましたが、社員側は解雇の無効などを求めて提訴しました。
社員側は、第三者が発行した領収書を利用することは中国では慣例的に行われていたことや、現地責任者の指示に従ったことなどを主張しました。
しかし、大阪地裁は2026年1月、社員側の主張を退け、懲戒解雇を有効と判断しました。
今回は、この裁判を手掛かりに、上司の指示による不正経理の責任、懲戒解雇の有効性、海外駐在員が注意すべき法的リスクについて考えます。
上司の指示であれば不正経理は許されるのか
企業では、従業員が上司の業務命令に従うことが基本となります。
しかし、業務命令には限界があります。
法令に違反する行為や、会社に損害を与える不正行為についてまで、従業員が無条件に従う義務を負うわけではありません。
例えば、上司から架空の領収書を利用して経費を精算するよう指示された場合を考えます。
その指示が実際には存在しない取引を会社経費として処理するものであれば、不適切な会計処理につながります。
上司が指示したという事情は、従業員の責任を判断する際の一つの要素にはなります。
しかし、その事情だけで不正行為が正当化されるわけではありません。
今回の事件でも、社員側は現地責任者の指示に従ったと主張しました。
これに対して大阪地裁は、違法な業務命令には従うべきではないという趣旨の判断を示しました。
この判断は、企業のコンプライアンスにおける基本原則を示しています。
従業員には、上司の指示であっても、その内容が法令や社内規程に反していないかを判断する姿勢が求められます。
中国の慣例という主張は認められるのか
今回の裁判で特徴的だったのは、社員側が中国の商習慣を理由として、不正経理の正当性を主張したことです。
中国では、発票と呼ばれる税務上の証憑が、企業の経費精算や税務申告において重要な役割を果たしています。
社員側は、第三者から入手した領収書を利用することが中国では慣例的に行われていたと主張しました。
また、ゼロコロナ政策による行動制限などの影響で、適切な領収書を取得しにくい事情があったとも説明しました。
しかし、大阪地裁は、そのような取扱いが一定程度存在していたとしても、中国で正当化されているわけではないと判断しました。
この点は、海外事業を展開する日本企業にとって重要です。
海外では、日本とは異なる商習慣や取引慣行が存在することがあります。
しかし、現地で一般的に行われているという理由だけで、法令違反や不正経理が許されるわけではありません。
特に税務上の証憑については、現地の法令や制度に基づいた適切な処理が必要です。
海外駐在員には、現地の商習慣を理解するとともに、法令遵守を優先する判断が求められます。
懲戒解雇が有効になるための条件
日本の労働契約法では、懲戒について一定の制約が設けられています。
労働契約法第15条は、懲戒が客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合には、権利の濫用として無効になると定めています。
また、同法第16条は、解雇についても客観的に合理的な理由と社会通念上の相当性を求めています。
懲戒解雇は、従業員にとって重大な不利益を伴う処分です。
そのため、不正行為が存在したという事実だけで、常に懲戒解雇が有効になるわけではありません。
不正行為の内容、金額、期間、本人の関与の程度、会社に与えた損害、故意の有無、過去の勤務状況などを総合的に判断する必要があります。
また、就業規則に懲戒事由が定められ、適切な手続きが実施されているかどうかも重要です。
例えば、軽微な手続き違反に対して直ちに懲戒解雇を行えば、処分が重すぎると判断される可能性があります。
一方、長期間にわたって意図的に架空領収書を利用し、会社に多額の損害を与えていた場合には、重大な懲戒処分が認められる可能性があります。
懲戒解雇の有効性は、個別の事実関係に基づいて判断されます。
今回の裁判で重視された事情
今回の事件では、社員が第三者から領収書を購入し、不適切な経費精算に利用していたことが問題となりました。
また、社員自身も領収書の入手に関して約30万円を受け取っていたとされています。
裁判所は、少なくとも440万円の不要な支出が会社に発生したと認定しました。
こうした事情は、社員の関与が単なる事務処理上の誤りにとどまらなかったことを示しています。
また、社員側は現地責任者の指示に従ったと主張しましたが、裁判所はそれだけで責任が免除されるとは判断しませんでした。
大阪地裁は2026年1月、懲戒解雇を有効と判断しました。
その後、控訴審でも地裁の判断が維持され、社員側は最高裁に上告受理を申し立てたと報じられています。
したがって、新聞記事の時点では、最高裁での最終的な判断まで確定していると説明することはできません。
この事件から分かるのは、上司の指示という事情があっても、従業員が積極的に不正に関与し、会社に損害を与えていた場合には、重い懲戒処分が認められる可能性があるということです。
海外駐在員にはどの国の法律が適用されるのか
海外駐在員の労働関係では、日本法と現地法の関係が問題になることがあります。
例えば、日本本社との雇用契約を維持したまま海外子会社へ出向している場合と、現地法人に直接雇用されている場合では、法的関係が異なります。
また、労働契約において準拠法が定められているかどうかも重要です。
日本では、法の適用に関する通則法によって、労働契約に適用される法律について一定のルールが設けられています。
ただし、準拠法の指定がある場合でも、労働者保護に関する強行的な規定の適用が問題になることがあります。
さらに、実際に勤務する国の労働法令が適用される場合もあります。
そのため、海外駐在員の懲戒処分については、日本の労働法だけでなく、現地法令や出向契約、雇用契約などを確認する必要があります。
今回の事件では、日本の裁判所で懲戒解雇の有効性が争われました。
しかし、すべての海外駐在員の懲戒問題について、日本法だけで判断できるわけではありません。
企業は海外赴任者の雇用関係を明確にし、問題が発生した場合に適用される法令や手続きを事前に整理しておくことが重要です。
不正を指示された社員はどう対応すべきか
海外子会社で働く社員が上司から不適切な経費処理を指示された場合、どのように対応すればよいのでしょうか。
まず、指示の内容を正確に確認する必要があります。
例えば、第三者が発行した領収書を利用するよう指示された場合には、その領収書が実際の取引を証明するものなのかを確認します。
次に、法令や社内規程に違反する可能性がある場合には、安易に処理を進めないことが重要です。
判断が難しい場合には、現地の経理責任者や日本本社の経理部門、法務部門などに相談することが考えられます。
ただし、現地責任者自身が不正を指示している場合には、その責任者を経由しない相談経路が必要です。
また、不適切な指示を受けた日時や内容について、適法かつ適切な方法で記録を残すことも重要です。
電子メールなどの記録があれば、後日、事実関係を確認する際に役立つ可能性があります。
ただし、記録の保存に際しては、会社の情報管理規程や個人情報保護に関する法令を遵守する必要があります。
最も重要なのは、不正行為に関与する前に相談できる環境を確保することです。
企業には違法な指示を拒否できる環境づくりが必要
今回の事件では、裁判所が違法な業務命令に従うべきではないという判断を示しました。
しかし、企業経営の観点からは、従業員が不適切な指示を拒否できる環境を整備することも重要です。
特に海外子会社では、現地責任者に人事評価や昇進、給与などの権限が集中している場合があります。
そのため、部下が上司の指示に異議を唱えることは容易ではありません。
例えば、経理担当者が不適切な領収書の利用を拒否した結果、人事評価を下げられることを懸念する場合があります。
このような環境では、不正行為が組織内で継続する危険があります。
企業は、従業員が法令違反の疑いを相談できる内部通報制度を整備する必要があります。
また、通報者の秘密を守り、通報を理由とする不利益な取扱いを防止することも重要です。
さらに、現地責任者に対しても、部下に不適切な指示を行わないことや、コンプライアンス違反を見過ごさないことを徹底する必要があります。
不正防止には、従業員個人の責任と企業の管理責任の双方から取り組むことが求められます。
懲戒処分の前に企業が確認すべきこと
海外子会社で不正経理が発覚した場合、企業は関与した従業員に対する懲戒処分を検討することがあります。
しかし、懲戒処分を行う前には、十分な事実調査が必要です。
まず、不正行為の内容と発生期間を確認します。
次に、関与した人物ごとの役割や指示関係を整理します。
例えば、上司が不正を計画し、部下が単に事務処理を行った場合と、部下自身が不正を提案して利益を得ていた場合では、責任の程度が異なる可能性があります。
また、本人が不正行為を認識していたかどうかも重要です。
さらに、会社に与えた損害の内容や金額、過去の勤務状況なども確認する必要があります。
懲戒処分の判断では、就業規則の規定と処分の相当性を検討することが重要です。
また、本人に説明の機会を与えるなど、適切な調査手続きを確保することも望まれます。
海外駐在員の場合には、現地法令や雇用契約との関係についても確認が必要です。
不正行為が重大であっても、事実調査や処分手続きに問題があれば、後に労働紛争へ発展する可能性があります。
企業は、不正に厳正に対応するとともに、公正な手続きを確保する必要があります。
結論
今回の中国現地法人における架空領収書事件は、上司の指示による不正経理であっても、実行した社員の責任が免除されるとは限らないことを示しています。
社員側は、中国の商習慣や現地責任者の指示を理由として懲戒解雇の無効を主張しました。
しかし、大阪地裁は、第三者の領収書を利用する慣行が存在していたとしても、それが正当化されるわけではないと判断しました。
また、違法な業務命令には従うべきではないという考え方を示し、懲戒解雇を有効と判断しました。
この事件から学ぶべきことは、海外駐在員にも法令遵守と適切な判断が求められるという点です。
現地の商習慣や上司の指示が存在していても、不正経理を正当化する理由にはなりません。
一方、企業には、従業員が不適切な指示を拒否し、安心して相談できる環境を整備する責任があります。
特に海外子会社では、現地責任者への権限集中によって、部下が異議を唱えにくい状況が生まれる可能性があります。
そのため、日本本社への直接相談制度や内部通報制度を整備することが重要です。
また、不正発覚後の懲戒処分では、関与者ごとの責任を慎重に判断し、適切な調査手続きを確保する必要があります。
海外事業のコンプライアンスを強化するためには、違法な指示には従わないという原則を徹底するとともに、その原則を実践できる組織環境を構築することが重要だと考えられます。
参考
日本経済新聞 2026年10月25日 朝刊 海外法人で不正経理、使われた架空領収書 解雇の社員は「中国の慣例」
労働契約法 第15条及び第16条
法の適用に関する通則法 第12条