社員のためにスポーツイベントを開催する。
スポーツジムの利用料を補助する。
ウォーキングイベントを実施する。
健康ポイントを支給する。
業務時間中に体操やヨガを取り入れる。
こうした企業の取り組みは、これまで福利厚生の一つとして考えられることが多かったのではないでしょうか。
社員に喜んでもらうための費用。
働きやすい職場をつくるための費用。
もちろん、こうした役割はこれからもあります。
しかし、人手不足と高齢化が同時に進む日本では、企業によるスポーツ支援の意味が変わり始めています。
社員が健康になることで病欠や休職が減る。
仕事の生産性が高まる。
離職が減る。
そして健康な状態で働ける期間が延びる。
そこまで考えれば、社員の運動に使うお金は単なる福利厚生費ではなく、将来の収益力を高めるための人的資本投資と考えることができます。
スポーツによる経済効果は年間12兆6000億円に達するとの試算もあります。
社員の運動に使うお金を費用と見るのか、投資と見るのか。
企業経営の考え方が問われる時代になっています。
福利厚生とは何か
企業は社員に給与を支払うだけではありません。
さまざまな福利厚生を提供しています。
健康診断。
住宅関連の支援。
育児や介護への支援。
レクリエーション。
スポーツ施設などの利用支援。
こうした制度には、社員が安心して働ける環境をつくる役割があります。
スポーツ支援も、この延長線上で行われてきました。
そのため企業の会計や予算管理の感覚では、スポーツ関連の支出は費用として認識されやすくなります。
費用であれば、できるだけ抑えようという考え方になりやすいでしょう。
しかし健康経営が広がることで、この見方が変化しています。
費用と投資では考え方が違う
費用と投資では、お金を使う目的が違います。
単純化すれば、費用は現在の事業活動のために必要なお金です。
一方、投資は将来の利益や価値を生み出すことを期待して使うお金です。
社員の運動支援を単なる福利厚生費と考えれば、スポーツイベントにいくらかかったのかが注目されます。
しかし投資と考えれば、その後に何が変わったのかを見ることになります。
社員の運動習慣は改善したのか。
病欠は減ったのか。
休職は減ったのか。
離職率は変化したのか。
生産性は高まったのか。
長く働ける社員が増えたのか。
支出額だけではなく、その支出によって生まれた成果を見るわけです。
人的資本投資として考える
企業にとって人材は事業を動かす重要な経営資源です。
社員が持つ知識。
経験。
技能。
創造力。
人間関係。
こうしたものが企業の競争力をつくります。
しかし、どれほど優秀な人材でも健康を損なえば十分に能力を発揮できません。
長期休職や離職になれば、それまで蓄積してきた経験を企業内で生かせなくなることもあります。
そこで社員の健康を人的資本を維持するための条件として考えます。
教育研修に投資するだけではありません。
健康に働き続けられる環境へ投資する。
これも人的資本投資の一部と考えることができます。
運動による疲労軽減にも経済価値がある
スポーツによる経済効果を考える場合、まず分かりやすいのが体力の維持です。
日本経済新聞の記事によると、筑波大学大学院の久野譜也教授が2025年度に行った試算では、1日8000歩のウォーキングなどのスポーツを実施することで、体力向上による疲労軽減について年間500億円の経済効果が見込まれています。
社員が会社へ出勤していても、強い疲労によって仕事の能率が低下していれば、本来の能力を発揮できません。
企業が見るべきなのは出勤しているかどうかだけではなく、健康な状態で働けているかということです。
体力維持が生産性につながるのであれば、運動支援にも経済的な意味が生まれます。
メンタル不調の改善にも効果が期待される
同じ試算では、メンタル不調改善による経済効果が年間1200億円とされています。
働く人の心の不調は、企業にとって大きな問題です。
仕事への集中力が低下する。
欠勤が増える。
長期休職する。
最終的に離職する。
こうしたことが起きれば、本人だけでなく職場全体にも影響します。
運動だけですべてのメンタルヘルス問題を解決できるわけではありません。
長時間労働やハラスメントなどに原因があれば、企業はその原因自体を改善する必要があります。
それでも、適度に身体を動かせる環境をつくることは、総合的な健康経営の一つとして考えることができます。
最大の効果は長く働けること
スポーツによる経済効果の中で特に注目したいのが、健康寿命の延伸です。
久野教授の試算では、健康寿命の延伸によって就労期間が拡大する効果は年間8兆円を超えるとされています。
体力向上による疲労軽減やメンタル不調改善より、はるかに大きな金額です。
この意味は重要です。
人口が減少する日本では、働く人の数そのものを短期間で大幅に増やすことは困難です。
一方、一人ひとりが健康に働ける期間を延ばすことはできます。
60歳まで働ける人が65歳まで働く。
65歳までだった人が70歳まで働く。
そのためには定年制度を変更するだけでは足りません。
本人が実際に働ける健康状態であることが必要です。
医療費と介護費の削減にもつながる
健康になることの利益は企業だけに帰属するわけではありません。
久野教授の試算では、医療費や介護費について年間3兆5000億円の削減効果が見込まれています。
ここに企業による健康投資の特徴があります。
企業が社員の運動を支援する。
社員本人が健康になる。
企業は生産性向上や病欠減少などの利益を得る。
さらに社会全体では医療や介護に必要な費用が減る可能性がある。
企業による健康投資には、会社の外にも利益が広がる可能性があります。
だからこそ、国が企業のスポーツ推進を政策として支援する意味も出てきます。
年間12兆6000億円という経済効果
体力向上による疲労軽減。
メンタル不調の改善。
健康寿命延伸による就労期間の拡大。
医療費や介護費の削減。
これらを合計すると、年間12兆6000億円の経済効果になると試算されています。
もちろん、これは一定の前提に基づいた試算であり、企業がスポーツイベントを開催すれば自動的に12兆円の利益が生まれるという意味ではありません。
重要なのは、運動による健康改善を単なる個人的なメリットとしてではなく、経済的な価値として捉えている点です。
健康は本人だけの財産ではありません。
企業の生産性や労働供給、社会保障費にも影響する経済資源として考えることができます。
企業が得る利益は何か
企業がスポーツ支援に投資した場合、期待できる効果は一つではありません。
社員の体力が維持される。
病欠が減る。
メンタル不調による休職を防ぐ。
社員同士のコミュニケーションが生まれる。
会社への満足度が高まる。
離職を防ぐ。
採用活動で企業の魅力を伝えられる。
シニア社員に長く働いてもらう。
こうした効果が複数重なる可能性があります。
健康施策の価値を医療費だけで判断すると、こうした効果を見落としてしまいます。
企業は健康投資を人材戦略全体の中で評価する必要があります。
投資なら効果測定が必要になる
ただし、スポーツ支援を投資と呼ぶのであれば、実施するだけでは不十分です。
投資には効果測定が必要だからです。
スポーツイベントの参加者は何人だったのか。
運動習慣のある社員は増えたのか。
歩数は変化したのか。
病欠日数はどうなったのか。
休職や離職に変化はあったのか。
社員満足度はどうなったのか。
こうした指標を継続的に確認する必要があります。
イベントを開催したという事実ではなく、社員の行動や企業経営にどのような変化が生まれたかを見るわけです。
全社員に同じ施策を行う必要はない
健康投資を効率的にするためには、社員の状況に応じた施策も必要です。
デスクワーク中心の社員であれば、長時間座り続けることへの対策が重要かもしれません。
運送業や製造業では、身体への負担や体力維持がより重要になることがあります。
若手社員とシニア社員でも必要な支援は違います。
ウォーキング。
ストレッチ。
ヨガ。
健康ポイント。
体力測定。
ウェアラブル端末。
複数の方法を組み合わせ、社員が参加しやすい制度をつくることが重要です。
健康投資も、使った金額の大きさではなく、必要な人に適切な施策を届けられたかが問われます。
国が補助する理由もここにある
スポーツ庁は2027年度から、従業員の運動習慣づくりに取り組む企業への財政支援を始める方針です。
企業が実施するスポーツイベントや体力測定などに対して、都道府県を通じて補助金を出すことが検討されています。
なぜ民間企業の社員の運動に国がお金を出すのでしょうか。
企業の健康投資による利益が企業だけにとどまらないからだと考えると理解しやすくなります。
健康寿命が延びれば労働力を確保できます。
医療費や介護費が減れば社会保障にも影響します。
企業の健康投資が社会全体に利益をもたらすのであれば、政策として後押しする合理性があります。
福利厚生から経営戦略へ
企業スポーツの位置付けは大きく変わろうとしています。
社員サービスとしてスポーツを提供する。
そこから一歩進み、健康を維持するためにスポーツを利用する。
さらに健康を通じて生産性や人材定着、就業期間の延長につなげる。
この段階まで進めば、スポーツ支援は経営戦略になります。
人材を採用することが難しくなるほど、一人の社員に長く健康に働いてもらう価値は高くなります。
社員の健康への支出を削減対象の費用と見るのか、将来の企業価値をつくる投資と見るのか。
企業経営者の考え方によって差が生まれる可能性があります。
結論
企業によるスポーツ支援は、従来の福利厚生という枠組みだけでは捉えにくくなっています。
社員が運動することで体力が維持され、病欠や休職が減り、生産性が高まり、離職を防ぐことができれば、企業自身に経済的な利益が生まれる可能性があります。
さらに健康寿命が延びて働ける期間が長くなれば、日本全体の労働力確保にもつながります。
医療費や介護費が抑えられれば、社会保障にも利益が及びます。
こうした効果を合計した経済効果は年間12兆6000億円との試算もあります。
もちろん、スポーツへお金を使えば必ず成果が出るわけではありません。
投資として考えるのであれば、社員の行動や病欠、休職、離職、生産性などの変化を検証し、施策を改善していく必要があります。
人口減少社会では、人材を大量に採用して入れ替える経営には限界があります。
今いる社員の能力を高めるだけではなく、その能力を健康な状態でできるだけ長く発揮してもらうことが重要になります。
社員のスポーツに使うお金は福利厚生費なのか、それとも人的資本への投資なのか。
これからの企業経営では、後者として考える企業が増えていくのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年8月13日朝刊 スポーツ推進企業に支援