法律に関するトラブルが発生した場合、弁護士に相談することを考える人は多いでしょう。
しかし、数万円の未払い代金や比較的少額の契約トラブルについて、弁護士費用を負担してまで解決を目指す人は限られています。
一方、離婚協議書の作成や養育費の取り決め、相続に関する書類の整備など、法律専門家の支援を必要とする場面は増えています。
こうした法律サービスの需要と費用負担の間にある問題を改善する可能性を持つのが、オンライン紛争解決手続きであるODRです。
スマートフォンを利用して相談や資料提出、調停などを進められるようになれば、これまで法律サービスを利用しなかった人にも新しい選択肢が生まれます。
その一方で、弁護士、行政書士、司法書士、税理士などの専門家には、従来とは異なる役割が求められる可能性があります。
今回は、ODRの普及によって法律専門家の仕事がどのように変化するのかを考えます。
法律サービスには潜在的な需要がある
日本には、法律上の問題を抱えていても専門家に相談しない人が少なくありません。
その背景には、費用負担や相談先の分かりにくさ、手続きの煩雑さなどがあります。
例えば、個人事業主が取引先から5万円の報酬を受け取れない場合を考えます。
弁護士に依頼すれば、回収できる金額より費用が大きくなる可能性があります。
そのため、請求する権利があっても、回収を諦めてしまうことがあります。
また、離婚後の養育費についても、相手方との話し合いが難しく、法律専門家への相談をためらう人がいます。
このように、法律上の問題が存在していても、必ずしも法律サービスの利用につながるわけではありません。
重要なのは、法律サービスの需要が存在しないのではなく、利用するための負担が大きいことです。
ODRによって相談や調停の費用、時間、心理的な負担が軽減されれば、これまで表面化していなかった需要が顕在化する可能性があります。
ODRが法律サービス市場を変える
従来の法律サービスでは、相談者が法律事務所などに連絡し、予約を取り、必要な資料を持参することが一般的でした。
ODRでは、こうした手続きの全部または一部をオンライン化できます。
例えば、未払い代金の請求について、スマートフォンから必要な情報を入力し、契約書や請求書を提出する仕組みが考えられます。
相手方が支払いに応じれば、早期に解決します。
請求内容に争いがある場合には、弁護士などの調停人がオンラインで話し合いを支援することもできます。
大阪市のAtoJが提供するOneNegotiationでは、こうした仕組みが実用化されています。
報道によれば、累計5万件超、28億円分の申し立てがあり、約2万件、約3億円分が解決したとされています。
また、チャイルドサポートは、LINEなどを利用して離婚の合意形成や合意書作成を支援するサービスを提供しています。
これらの取り組みは、法律専門家のサービス提供方法が変化し始めていることを示しています。
今後は、専門家がすべての事務作業を直接行うのではなく、デジタル技術によって定型的な作業を効率化し、専門的な判断が必要な部分に集中する仕組みが重要になるでしょう。
弁護士の役割はどう変わるか
ODRの普及によって、弁護士の仕事がなくなるわけではありません。
むしろ、法律上の争点を整理し、公正な解決を支援する役割が重要になる可能性があります。
例えば、未払い代金の請求では、単純な支払い忘れであれば、オンライン通知によって解決することがあります。
一方、契約内容や請求金額について争いがある場合には、法律的な判断が必要になります。
弁護士は、契約の有効性や債務の存在、時効、損害賠償などの問題を検討できます。
また、依頼者の代理人として相手方と交渉し、必要に応じて訴訟などの法的手続きを進めることができます。
ODRでは、弁護士が中立的な調停人として関与する場合もあります。
ただし、当事者の代理人と中立的な調停人では、役割が異なります。
代理人は依頼者の利益を守る立場ですが、調停人は当事者双方に対して公正な立場を維持する必要があります。
ODRの普及によって、弁護士にはオンライン環境での紛争解決能力や、合意形成を支援する技術が一層求められるでしょう。
行政書士に広がる可能性
行政書士は、官公署に提出する書類や権利義務、事実証明に関する書類の作成などを専門としています。
離婚協議書や一定の契約書の作成も、法令で認められた業務範囲に含まれます。
ODRの普及によって、こうした書類作成業務のオンライン化が進む可能性があります。
例えば、離婚について当事者間で合意が成立している場合に、その内容を整理し、離婚協議書の作成を支援することが考えられます。
また、事業者間で合意済みの契約条件について、契約書の作成を支援することもあります。
ただし、行政書士の業務範囲には重要な制約があります。
当事者間で法律上の紛争が発生している場合に、報酬を得て代理交渉を行うことは、弁護士法との関係で問題となる可能性があります。
例えば、養育費の金額について父母が対立している場合に、一方の代理人として相手方と交渉することは、行政書士が当然に行える業務ではありません。
また、ODRという仕組みを利用することによって、専門家の法定業務範囲が拡大するわけでもありません。
重要なのは、合意形成を支援する行為と、合意済みの内容を書面化する行為を区別することです。
行政書士がODR関連サービスに関与する場合には、具体的な業務内容が法令上認められる範囲に収まっているかを確認する必要があります。
司法書士の役割も重要になる
司法書士は、不動産登記や商業登記などの専門家です。
離婚に伴う財産分与では、不動産の所有権移転登記が必要になる場合があります。
例えば、夫名義の自宅を離婚後に妻へ財産分与する場合には、所有権移転登記の手続きを検討することになります。
このような場面では、司法書士の専門性が重要です。
また、法務大臣の認定を受けた司法書士は、一定の範囲で簡易裁判所における訴訟代理などの業務を行うことができます。
認定司法書士が取り扱える簡裁訴訟代理等関係業務には、原則として紛争の目的の価額が140万円を超えない民事事件についての一定の代理業務などが含まれます。
ただし、すべての民事事件について代理人になれるわけではありません。
家庭裁判所の離婚調停や、140万円を超える一般的な民事紛争などについては、認定司法書士の代理権の範囲を確認する必要があります。
ODRの普及によって、司法書士が登記手続きや法令上認められた紛争解決支援に関与する機会が増える可能性があります。
税理士に求められる専門的な役割
ODRによる紛争解決では、税務上の問題が発生する場合があります。
例えば、企業が未払い債権の一部を放棄した場合には、貸倒損失や寄附金の取り扱いが問題になります。
また、離婚に伴う財産分与では、不動産の譲渡所得税や贈与税などの検討が必要になることがあります。
相続に関する紛争でも、遺産分割の内容によって相続税の申告や納税に影響が生じる場合があります。
こうした税務上の問題について、税理士が専門的な助言を行うことは重要です。
ただし、税理士資格があるからといって、一般的な民事紛争について代理交渉を行えるわけではありません。
税務相談や税務書類の作成、税務代理などの業務と、民事紛争の代理業務は区別する必要があります。
例えば、企業が取引先との間で債権放棄の条件を協議する場合には、弁護士が法律面を担当し、税理士が税務上の影響を検討するという役割分担が考えられます。
ODRの普及によって、法律と税務の専門家が連携する機会は増える可能性があります。
専門家の役割分担が重要になる
ODRを活用した法律サービスでは、複数の専門家が連携する仕組みが重要になります。
例えば、離婚に伴う財産分与を考えてみましょう。
夫婦が財産分与の条件について対立している場合には、弁護士による法的な支援が必要になることがあります。
不動産の所有権移転登記が必要になれば、司法書士が対応します。
不動産の譲渡所得税などの問題については、税理士が検討します。
また、当事者間で合意が成立した後、行政書士が法令上認められた範囲で書類作成を支援することも考えられます。
このように、専門家がそれぞれの業務範囲を守りながら連携することで、利用者にとって分かりやすいサービスを提供できる可能性があります。
ただし、専門家同士の紹介や業務提携では、各資格法や職業倫理、報酬に関する規律などにも注意が必要です。
単にオンライン上で専門家をつなげればよいというものではありません。
利用者の利益を最優先にした適切な役割分担が求められます。
オンライン専門家ビジネスの可能性
ODRの普及は、法律専門家の事業モデルにも影響を与える可能性があります。
従来の法律サービスでは、対面相談や個別案件ごとの報酬が中心でした。
今後は、オンライン相談、定額制の情報提供、書類作成支援、専門家への紹介など、多様なサービス形態が広がる可能性があります。
例えば、中小企業向けに契約管理や債権管理の一般的な情報を提供し、具体的な紛争が発生した場合には弁護士につなぐ仕組みが考えられます。
また、個人向けには、離婚や相続に関する制度の説明、必要書類の整理、専門家への相談準備などを支援するサービスも考えられます。
ただし、一般的な情報提供と、個別の法律事件についての有償の法律事務は区別する必要があります。
資格を持たない事業者が、報酬を得る目的で法律事件に関する鑑定や代理、和解などの法律事務を取り扱うことは、弁護士法上の問題となる場合があります。
また、行政書士や司法書士などの資格を保有していても、それぞれの法定業務範囲を超えることはできません。
オンライン化によってサービスの提供方法は変わっても、法律上の資格制度や業務規制がなくなるわけではありません。
AIとODRの組み合わせ
今後、ODRの普及とともに注目されるのが、人工知能であるAIの活用です。
AIを利用すれば、契約書の内容整理や資料の分類、相談内容の要約などを効率化できる可能性があります。
例えば、未払い代金の紛争では、契約書、請求書、入金履歴などを整理し、争点を把握するための補助的な活用が考えられます。
離婚協議では、財産一覧表の作成や必要書類の確認などに利用できる可能性があります。
ただし、AIによる回答が常に正しいとは限りません。
法律の解釈や個別事情の判断には、専門的な知識と責任が必要です。
また、AIを利用したサービスであっても、実際に提供される業務の内容によっては、弁護士法などの規制が問題になります。
AIが作成した回答だからといって、法律上の責任がなくなるわけではありません。
AIは専門家を完全に代替するものではなく、専門家が適切な判断を行うための補助的な手段として活用することが重要です。
専門家に求められる新しい能力
ODRが普及する社会では、法律専門家に求められる能力も変化する可能性があります。
従来の専門知識に加え、オンラインでのコミュニケーション能力や、デジタル資料の管理能力が重要になります。
また、当事者間の合意形成を支援する能力も求められます。
特に、オンラインでのやり取りでは、対面の場合よりも相手方の表情や感情を把握しにくいことがあります。
文章による説明が誤解を生み、紛争を深刻化させる可能性もあります。
そのため、分かりやすい文章で説明する能力や、当事者双方の立場を整理する能力が重要になります。
さらに、個人情報や機密情報を取り扱うため、情報セキュリティに関する知識も必要です。
専門家としての法的知識と、デジタル環境での実務能力を組み合わせることが、今後の競争力につながるでしょう。
結論
ODRの普及は、法律専門家の仕事をなくすものではありません。
むしろ、これまで費用や時間の問題から法律サービスを利用できなかった人に、新しい相談や紛争解決の機会を提供する可能性があります。
弁護士には、法律上の争点を整理し、代理交渉や調停、訴訟などを通じて適切な解決を支援する役割が求められます。
行政書士には、法令上認められた範囲での書類作成支援が期待されます。
司法書士は登記や認定業務の範囲内での紛争解決支援を担い、税理士は財産移転や債権放棄などに伴う税務上の問題に対応します。
重要なのは、それぞれの専門家が業務範囲を守りながら連携することです。
また、AIやデジタル技術を活用することで、定型的な作業を効率化し、専門家が高度な判断を必要とする業務に集中できる可能性があります。
今後の法律サービス市場では、専門知識だけでなく、利用者にとって分かりやすく、利用しやすい仕組みを提供できるかどうかが重要になるでしょう。
ODRは、法律専門家の働き方を変えると同時に、司法サービスをより身近なものへと進化させる可能性を持っています。
参考
日本経済新聞 2026年10月 スマホで民事トラブル解決 代金未払いや養育費の泣き寝入り改善期待
法務省 2022年3月 ODRの推進に関する基本方針
法務省 裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律の説明資料
日本弁護士連合会 弁護士法及び弁護士業務に関する資料
日本行政書士会連合会 行政書士の業務に関する説明資料
日本司法書士会連合会 司法書士の業務に関する説明資料
日本税理士会連合会 税理士の業務に関する説明資料