2026年10月22日
東京証券取引所が、上場企業の適時開示業務に人工知能(AI)を導入する方針を打ち出しました。2027年夏にも適時開示情報閲覧サービスであるTDnetを刷新し、開示の必要性の判断や資料のひな型作成をAIが支援する仕組みを導入する予定です。
上場企業の情報開示件数は、この10年間で約7割増加しました。企業のIR担当者や経理・財務部門、法務部門では、開示資料の作成と確認に多くの時間を費やしており、その負担は「開示地獄」と呼ばれるほど深刻になっています。
今回の改革は、単なる事務作業の効率化ではありません。企業の情報開示のあり方や投資家との対話、さらには企業統治の質を変える可能性があります。
適時開示とは何か
適時開示とは、上場企業が投資家の投資判断に重要な影響を与える情報を、適切な時期に公表する制度です。
例えば、企業が大型の設備投資を決定した場合、他社を買収する場合、業績予想を修正する場合などには、一定の要件に該当すれば適時開示が必要になります。
適時開示の対象となる情報には、主に次のようなものがあります。
・合併や会社分割などの組織再編
・重要な事業の譲渡や取得
・新株発行や自己株式取得
・業績予想や配当予想の修正
・重要な訴訟の発生
・子会社に関する重要事項
これらの情報は、投資家が企業価値を判断するうえで重要な材料になります。
一方、企業の担当者にとっては、開示基準への該当性を確認し、必要な情報を収集し、資料を作成したうえで、社内承認を得る必要があります。
開示内容によっては、経理、財務、法務、経営企画、IRなど複数部門の連携が不可欠です。
適時開示件数は10年間で約7割増加
東証の適時開示件数は、2015年の10万5,000件から2025年には17万4,000件へ増加しました。
増加率は約66%です。
背景には、企業活動の複雑化と情報開示の充実があります。
M&Aや自己株式取得の増加に加え、コーポレートガバナンス改革の進展によって、企業には従来以上に詳細な説明が求められるようになりました。
また、海外投資家の存在感が高まるなかで、英文開示への対応も重要になっています。
企業の情報開示は、かつての法令や規則に対応するための業務から、投資家との信頼関係を構築するための経営活動へと変化しています。
しかし、開示件数が増加しても、担当者を同じ割合で増員できるとは限りません。
その結果、担当者の業務負担が増大し、開示資料の作成や確認が経営管理上の課題となっているのです。
AIが開示の必要性を判断する時代へ
今回のTDnet刷新で注目されるのは、AIが開示資料の作成だけでなく、開示の必要性の判断まで支援する点です。
例えば、企業の担当者が「海外スタートアップに10億円出資する」と入力したとします。
AIは企業規模や取引内容などを踏まえ、適時開示が必要となる可能性を判断します。
さらに、過去の類似事例を提示し、東証が用意したテンプレートを利用して開示資料の見本を作成します。
従来は数時間かかっていた資料作成作業が、数十分で完了する見通しです。
仮に3時間かかっていた作業が30分に短縮されれば、作業時間は約83%削減されます。
もちろん、すべての開示業務が同じ割合で効率化されるわけではありません。
それでも、定型的な文章作成や過去事例の検索をAIに任せることで、担当者は重要な判断業務に集中できるようになります。
東証自身の業務効率化にもつながる
AI導入の恩恵を受けるのは上場企業だけではありません。
東証には約3,700社の上場企業があり、40人弱の企業担当者が開示資料などの確認業務を担っています。
単純計算すると、担当者1人あたり約100社を受け持つことになります。
企業側から提出された資料について、開示内容や形式などを確認し、必要に応じて修正を求める業務は大きな負担です。
新しい仕組みでは、東証の担当者と企業のIR担当者が利用できるチャット機能も導入される予定です。
これまでのメールや電話による確認作業を効率化し、情報のやり取りを迅速にすることが期待されます。
企業と取引所の双方で業務負担を軽減できることが、今回の改革の大きな特徴です。
AIの判断を過信してはいけない
一方で、AIの導入によって新たな課題も生じます。
最も重要なのは、AIによる判断が必ずしも正しいとは限らないことです。
適時開示の必要性は、単純に取引金額だけで決まるものではありません。
企業規模、取引の性質、業績への影響、上場規則上の基準などを総合的に検討する必要があります。
例えば、10億円の投資であっても、売上高1兆円の企業と売上高50億円の企業では、経営に与える影響が異なります。
また、定量的な開示基準に該当しない場合でも、投資判断上重要な情報については開示が求められることがあります。
AIが「開示不要」と判断した場合でも、その結論を無条件に採用することは危険です。
最終的な開示判断と公表内容の正確性については、引き続き企業自身が責任を負う必要があります。
経理財務部門と法務部門の役割が変わる
AIによる適時開示支援が普及すれば、経理・財務部門や法務部門の仕事も変化すると考えられます。
従来は、開示基準の確認、過去事例の調査、文章作成、形式確認などに多くの時間を費やしていました。
今後は、これらの作業の一部をAIが担うことになります。
その結果、人間に求められるのは、開示内容の重要性を判断し、企業の実態を正確に説明する能力です。
例えば、業績予想を下方修正する場合、単に修正後の数値を公表するだけでは十分とはいえません。
なぜ業績が悪化したのか、一時的な要因なのか、今後の事業戦略にどのような影響があるのかを説明することが重要です。
AIは資料作成を支援できますが、経営判断の背景や企業固有の事情を理解し、投資家に説明する責任まで代替することはできません。
これからの経理・財務担当者には、数字を処理する能力だけでなく、数字の意味を説明する能力が一段と求められるでしょう。
情報開示の迅速化は企業価値にも影響する
適時開示の迅速化は、投資家にとっても重要です。
投資判断に必要な情報が速やかに公表されれば、企業と投資家の間に存在する情報格差の縮小につながります。
また、開示資料の品質が安定すれば、企業間の比較もしやすくなります。
特に海外投資家にとっては、英文開示の充実や情報提供の迅速化が投資判断を行ううえで重要な要素となります。
ただし、情報開示の件数が増えれば、それだけで企業価値が高まるわけではありません。
重要なのは、投資家にとって必要な情報が、理解しやすい形で提供されることです。
AIによって定型的な作業が効率化されれば、企業は開示資料の内容を充実させることに時間を使えるようになります。
情報開示の量から質への転換が進む可能性があります。
企業統治改革とAI活用は一体で考える必要がある
東証は2025年7月に上場規則を改定し、上場企業にIR担当者の設置を事実上義務付けました。
これは、企業が投資家との対話を継続的に行う体制を整備することを重視したものです。
今回のAI導入も、こうした企業統治改革の延長線上に位置付けられます。
ただし、AIによる業務効率化を進める場合には、内部統制の整備も欠かせません。
例えば、次のような管理体制が重要になります。
・AIが参照する情報の正確性を確認する
・未公表の重要情報を適切に管理する
・AIの判断根拠を記録する
・担当者による確認と承認を徹底する
・誤った開示を防止するチェック体制を整備する
特に未公表の重要情報をAIシステムで取り扱う場合には、情報漏洩を防止する仕組みが必要です。
AIの利用範囲を広げるほど、企業には新しいリスク管理能力が求められることになります。
中小型上場企業ほど導入効果が大きい可能性
今回の改革は、大企業だけでなく、中小型の上場企業にとっても大きな意味があります。
大企業では、経理、財務、法務、IRなどの専門部署が整備されていることが一般的です。
一方、中小型上場企業では、少人数の担当者が複数の業務を兼務している場合があります。
適時開示の必要性を判断する際にも、外部専門家への確認や過去事例の調査に時間を要することがあります。
AIが開示基準や類似事例を提示することで、こうした企業の負担が軽減される可能性があります。
ただし、AIの支援を受けられることと、専門知識が不要になることは別問題です。
むしろ、AIが作成した資料の妥当性を判断するためには、適時開示制度や会計、会社法などに関する基礎知識が重要になります。
AIの普及によって専門人材の役割がなくなるのではなく、その役割が資料作成から判断と検証へ移行すると考えられます。
結論
東証が2027年夏にも導入する適時開示のAI支援は、上場企業の情報開示業務を大きく変える可能性があります。
2015年から2025年までの10年間で約7割増加した開示件数に対し、従来の人手中心の業務体制では限界が生じつつあります。
AIによる開示判断の支援、ひな型作成、過去事例の検索、チャット機能の導入は、企業と東証の双方にとって業務効率化につながるでしょう。
しかし、最も重要なのは、AIによって開示資料を速く作成することではありません。
企業が投資家に対して、重要な情報を正確かつ分かりやすく説明することです。
適時開示は、単なる事務手続きではなく、企業と投資家をつなぐ重要な情報基盤です。
AIによって定型的な作業を減らし、人間が経営判断の説明や情報の正確性の検証に集中できれば、企業統治の質も高まる可能性があります。
これからの上場企業に求められるのは、AIを利用して開示業務を効率化する能力と、AIの判断を適切に検証する能力の両立です。
「開示地獄」からの脱却は、単なる業務負担の軽減ではなく、日本企業の情報開示を量から質へと転換する契機になるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月22日 朝刊 企業の適時開示、東証がAIでひな型作成 負担軽減で「開示地獄」返上へ