家賃高騰と人手不足を背景に、企業の福利厚生制度が大きな転換期を迎えています。
かつて日本企業の象徴だった社宅や社員寮が再び注目される一方、従来型の家族向け社宅を廃止する企業もあります。
一見すると矛盾する動きですが、その背景には共通する変化があります。
それは、企業が従業員の生活を一律に支える時代から、従業員の年齢や家族構成、働き方に応じて支援方法を選択する時代へ移行していることです。
これからの福利厚生制度では、基本給の引き上げだけでなく、住宅支援、資産形成支援、人材育成などを組み合わせ、従業員の実質的な生活水準を高める視点が重要になります。
社宅管理戸数25%増加が示す福利厚生の変化
社宅管理代行を手掛けるリログループ傘下のリロケーション・ジャパンでは、借り上げ社宅の管理戸数が2026年6月末に30万戸を超えました。
3年前と比較して25%増加しています。
さらに、企業からの新規問い合わせ件数は2023年度比で5.6倍に拡大しました。
新規契約の7割超が1LDK以下の住宅であり、単身者向けの需要が中心となっています。
また、相談企業の約7割は従業員500人未満の企業です。
これらの数字は、住宅支援が大企業だけの福利厚生ではなく、中小企業にとっても重要な人材戦略になりつつあることを示しています。
企業が住宅支援を充実させる背景には、都市部の家賃高騰と若手人材の採用競争があります。
住宅費の負担を軽減することが、給与の引き上げと並ぶ重要な待遇改善策になっているのです。
賃上げだけでは生活水準が改善しない場合がある
企業が従業員の待遇を改善する際、最も基本的な方法は賃上げです。
しかし、給与が上昇しても、家賃や食費、光熱費などの生活費が同時に上昇すれば、実質的な生活水準が改善しない場合があります。
例えば、月額給与25万円の従業員が3万円の昇給を受けた場合を考えます。
年間の額面給与は36万円増加します。
一方、家賃が月額8万円から10万円に上昇すると、年間の住宅費負担は24万円増加します。
給与増加額と家賃増加額の差は、税金や社会保険料を考慮する前でも年間12万円です。
実際には、給与増加に伴って所得税や住民税、社会保険料の負担も変化します。
そのため、賃上げによる生活改善効果が想定より小さくなる可能性があります。
これからの企業経営では、額面給与だけでなく、従業員の実質的な可処分所得と生活費負担を考えることが重要になります。
住宅支援と賃上げは対立するものではない
住宅支援制度を検討する際には、賃上げとどちらが有利かという議論になりがちです。
しかし、両者は必ずしも対立するものではありません。
基本給の引き上げは、従業員の所得水準を継続的に改善する手段です。
また、賞与や退職給付などが基本給に連動する制度では、将来の経済的利益にも影響する場合があります。
一方、住宅支援は、特に住宅費の負担が大きい従業員に対して、生活費を直接軽減する効果が期待できます。
例えば、若手単身者には借り上げ社宅を提供し、中堅社員には住宅手当を支給する方法が考えられます。
また、家族構成や勤務地によって支援方法を選択できる制度も考えられます。
ただし、住宅支援には利用条件や期間制限があり、現金給与と同じ価値を持つわけではありません。
企業は、賃上げを基本としながら、住宅支援を組み合わせることで、従業員の生活をより効果的に支えることができます。
社宅制度の税制上の特徴を正しく理解する
住宅支援制度を設計する際には、税務上の取扱いも重要です。
企業が現金で住宅手当を支給する場合、原則として給与所得として課税されます。
一方、企業が住宅を借り上げて従業員に貸与する場合には、一定の要件を満たせば給与課税が生じないことがあります。
一般従業員については、税法上の賃貸料相当額の50%以上を本人から徴収していれば、原則として給与課税は生じません。
ただし、税法上の賃貸料相当額は実際の市場家賃とは異なります。
建物や敷地の固定資産税の課税標準額、建物の床面積などを基に計算する必要があります。
また、所得税で非課税となる場合でも、社会保険では現物給与として評価されることがあります。
税務上のメリットだけを理由に社宅制度を導入すると、想定外の社会保険料負担や管理コストが発生する可能性があります。
制度設計では、所得税、住民税、社会保険料、企業負担額を総合的に検討することが重要です。
社員寮は人材育成の場として再評価される
住宅支援には、生活費の軽減だけでなく、人材育成の効果も期待されています。
伊藤忠商事は2018年に男性向け社員寮を復活させ、2025年には女性向け社員寮を新設しました。
さらに2026年3月には、ビジネスエキスパート職向けの独身寮も開設しています。
同社の社員寮では、水道光熱費込みで月額1万5,000円という低い負担で生活できる仕組みが設けられています。
住宅費を抑えるだけでなく、部署や年代を超えた社員同士の交流を促進することも目的とされています。
若手社員が異なる部署の先輩社員と交流することで、仕事上の悩みを相談したり、企業全体の業務について理解を深めたりする機会が生まれます。
こうした人間関係は、職場での孤立を防ぎ、人材定着につながる可能性があります。
ただし、共同生活にはプライバシーや生活習慣の違いという課題もあります。
社員寮を人材育成の場として活用するには、従業員の自由な意思と私生活を尊重することが欠かせません。
家族向け社宅の縮小が示す住宅需要の多様化
単身者向けの社宅や社員寮が拡充される一方、家族向け社宅を縮小する企業もあります。
JR東日本は単身寮を維持する一方、家族向け社宅を原則廃止する方針です。
家族向け社宅のなかには、入居率が3分の1程度まで低下した物件もあるとされています。
背景には、共働き世帯の増加や住宅に対する価値観の多様化があります。
共働き世帯では、夫婦双方の勤務地へのアクセスを考慮して住居を選ぶ必要があります。
また、子育て世帯では、保育園や学校、医療機関などへのアクセスも重要になります。
企業が用意する住宅が、必ずしも家族全体にとって最適な住環境になるとは限りません。
今後は、単身者向けの住宅支援を充実させる一方、家族世帯には住宅選択の自由度を確保する制度が重要になるでしょう。
企業の資産効率から社宅制度を見直す
社宅制度の見直しは、企業の財務戦略とも関係しています。
企業が社宅を所有する場合、土地や建物の取得に多額の資金が必要になります。
さらに、修繕費、固定資産税、保険料、設備更新費用などが発生します。
入居率が低下すれば、利用者1人当たりの維持管理費用が増加する可能性があります。
一方、借り上げ社宅では、企業が土地や建物を所有する必要がありません。
従業員の勤務地や採用人数の変化に応じて、住宅を確保しやすいという特徴があります。
ただし、借り上げ社宅でも家賃負担や契約関連費用が発生します。
また、適用する会計基準や契約内容によっては、使用権資産やリース負債の計上が必要になる場合があります。
企業は、所有と借り上げの費用だけでなく、資本コスト、キャッシュフロー、会計上の影響などを総合的に比較する必要があります。
社宅制度の目的は不動産を所有することではなく、従業員に必要な住宅支援を提供することです。
住宅支援は若手社員の資産形成にも影響する
住宅支援によって生まれた経済的な余裕は、従業員の将来の資産形成にもつながります。
例えば、社宅制度によって毎月5万円の住宅費負担が軽減された場合を考えます。
年間では60万円です。
5年間では300万円、10年間では600万円になります。
この資金を貯蓄や奨学金返済、住宅購入資金などに活用できます。
また、生活防衛資金を確保したうえで、NISAによる長期投資に振り向けることも考えられます。
ただし、投資には価格変動リスクがあり、将来の運用成果が保証されるわけではありません。
重要なのは、住宅費の軽減によって生まれた資金を、従業員が自分のライフプランに応じて活用できることです。
企業が住宅支援と金融教育を組み合わせれば、従業員の長期的な生活安定を後押しできる可能性があります。
福利厚生制度は費用対効果で評価する時代へ
企業が住宅支援制度を導入する場合には、費用対効果を検証することが重要です。
例えば、借り上げ社宅の年間企業負担が1人当たり60万円で、利用者が20人の場合を考えます。
年間の直接負担額は1,200万円になります。
これに管理費用や契約関連費用などが加わります。
企業にとっては決して小さな金額ではありません。
しかし、住宅支援によって採用活動が円滑になり、早期離職が減少すれば、採用費用や教育費用の削減につながる可能性があります。
ただし、住宅支援が離職率の低下にどの程度寄与するかは、企業の状況によって異なります。
制度導入後には、応募者数、内定承諾率、入社3年以内の離職率、従業員満足度などを継続的に確認することが重要です。
また、住宅支援を利用していない従業員との公平性にも配慮する必要があります。
福利厚生制度は、導入すること自体が目的ではありません。
従業員の生活安定と企業の持続的な成長に、どの程度役立っているかが問われます。
これからの福利厚生は選択できる制度へ
今後の福利厚生制度では、従業員が自分の生活環境に応じて支援を選択できる仕組みが重要になると考えられます。
例えば、若手単身者には借り上げ社宅を提供し、子育て世帯には住宅手当や育児支援を充実させる方法があります。
また、介護を担う従業員には柔軟な勤務制度を提供し、資産形成を重視する従業員には企業年金や金融教育を充実させることも考えられます。
従業員の価値観や生活環境が多様化するなか、すべての社員に同じ福利厚生制度を提供するだけでは、十分な満足を得られない場合があります。
ただし、制度の選択肢を増やすほど、管理業務が複雑になる可能性があります。
また、現金給与と現物給付では税務や社会保険上の取扱いが異なるため、単純に同じ金額として交換できるとは限りません。
企業は、制度の公平性、運営コスト、税務上の取扱いを考慮しながら、柔軟な福利厚生制度を構築する必要があります。
結論
家賃高騰を背景とする社宅や社員寮の復活は、企業の福利厚生制度が変化していることを象徴しています。
これまでの福利厚生は、企業が用意した制度を従業員が利用するという考え方が中心でした。
しかし、共働き世帯の増加、働き方の多様化、住宅費の上昇などによって、従業員が必要とする支援は大きく変化しています。
今後は、基本給の引き上げを土台としながら、住宅支援、人材育成、資産形成支援などを組み合わせることが重要になります。
また、企業には福利厚生費を単なるコストとして捉えるのではなく、人材確保と定着、生産性向上、企業価値向上につながる投資として評価する視点が求められます。
一方、制度を充実させるだけでは十分ではありません。
従業員の生活環境に応じた公平な制度設計、税務と社会保険の適切な取扱い、費用対効果の継続的な検証が欠かせません。
人生100年時代には、従業員が長期にわたって安心して働き、生活基盤を築ける環境が重要になります。
企業の競争力は、給与水準の高さだけで決まるものではありません。
従業員が安心して生活し、能力を発揮し、将来に向けて成長できる環境をどこまで整えられるかが問われます。
住宅支援の再評価は、福利厚生を企業経営の中心的な課題として捉え直す契機になるでしょう。
参考
日本経済新聞 2026年10月21日 家賃高騰で社宅に脚光、若手定着へ企業支援厚く 管理戸数25%増
総務省 令和5年住宅・土地統計調査
厚生労働省 賃金構造基本統計調査
厚生労働省 新規学卒就職者の離職状況
国税庁 使用人に社宅や寮などを貸したとき
日本年金機構 現物給与の取扱い
金融庁 NISA制度の概要