日本のベンチャーキャピタルによる投資規模は、米国のわずか1.5%にとどまっています。
過去15年間の投資額の伸びも、米国の約6倍に対して、日本は約2.5倍にとどまりました。
この格差は、単に日本のスタートアップの数が少ないことや、起業家の能力が不足していることだけで説明できるものではありません。
日本には、核融合や人工知能、半導体、宇宙、創薬などの分野で、世界に通用する技術や研究成果があります。
しかし、その技術を世界的な事業へ成長させるための資金供給には課題が残されています。
特に問題となるのが、投資家が損失を過度に恐れ、起業家にリスクを負担させる契約慣行です。
株式買い取り請求権によって、通常の事業上の失敗まで創業者個人の責任となるのであれば、起業家は大胆な挑戦をためらう可能性があります。
一方、投資家が損失を避けることだけを優先すれば、大きな成長可能性を持つ企業への投資機会を失うことになります。
日本が新しい産業を育てるためには、資金供給量を増やすだけでなく、失敗とリスクに対する金融市場の考え方を変える必要があります。
本シリーズの最終回では、これまでの議論を踏まえ、日本のスタートアップ金融に必要な改革と、挑戦する社会を実現するための条件を考えます。
日本の課題は起業家不足だけではない
日本のスタートアップ政策では、起業家の育成や創業支援が重要な課題とされています。
大学発スタートアップの創出や起業家教育、研究成果の事業化など、さまざまな取り組みが進められています。
しかし、起業する人が増えるだけでは、世界的な企業が育つとは限りません。
創業後の企業が成長するためには、継続的な資金供給が必要です。
例えば、創業初期には数億円の資金で事業を開始できても、研究開発や海外展開の段階では数十億円から数百億円の資金が必要になる場合があります。
日本のベンチャーキャピタル市場では、こうした大型投資を実行できる国内ファンドが限られています。
その結果、有望企業が海外投資家や大企業から資金を調達する事例が生じています。
海外資本や大企業との連携自体は問題ではありません。
むしろ、国際的な資金調達や事業提携は、企業の成長を後押しする重要な手段です。
しかし、国内に十分な資金供給者が存在しなければ、起業家の選択肢が限られます。
日本の成長戦略では、起業家を増やす政策とともに、創業後の企業を大きく育てる金融市場の整備が必要です。
株式投資のリスクは投資家が負担することが基本
ベンチャー投資の本質は、将来の成長可能性を評価し、事業リスクを引き受けることです。
投資先企業が成功すれば、投資家は大きな利益を得る可能性があります。
一方、事業が失敗すれば、投資額の一部または全部を失う可能性があります。
この利益と損失の両方を引き受けることが、株式投資の基本的な仕組みです。
ところが、日本のベンチャー投資では、創業者個人に株式買い取り義務を負わせる契約慣行が問題視されています。
例えば、一定期限までに株式上場できなかった場合、投資家が保有株式の買い取りを求める契約です。
請求の相手方が創業者個人となっていれば、多額の資金負担が生じる可能性があります。
もちろん、創業者による不正行為や重大な契約違反については、適切な責任追及が必要です。
しかし、通常の事業上の失敗まで創業者個人に負担させることは、株式投資の本来のリスク分担とは異なります。
日本のベンチャー投資市場を発展させるためには、投資家保護と起業家の挑戦を両立させる契約慣行が必要です。
損失を恐れる投資は高い収益を保証しない
日本のベンチャーキャピタル市場では、損失回避を重視する投資姿勢が指摘されています。
しかし、損失を避けることが、必ずしも高い運用成果につながるわけではありません。
日本経済新聞が紹介した日英の共同調査によると、約10年前に組成された国内ベンチャーキャピタルファンドの投資回収倍率は0.99倍でした。
世界全体の1.1倍を下回っています。
ただし、ファンドの運用成績は調査対象や評価方法によって変わるため、この数値だけで日本のすべてのベンチャーキャピタルの収益力を判断することはできません。
それでも、損失回避を重視する投資姿勢が、高い収益を保証するものではないことは重要です。
ベンチャー投資では、多数の投資先のうち、一部の企業が大きく成長することで、ファンド全体の収益を確保する構造が一般的です。
個々の投資先で損失を避けることだけを優先すれば、大きな成長可能性を持つ企業への投資機会を失う可能性があります。
必要なのは、失敗を完全に防ぐことではありません。
適切な分散投資と企業価値評価によってリスクを管理しながら、大きな成功を生み出す企業を育てることです。
大型ファンドと長期資金が成長企業を支える
日本のベンチャーキャピタル市場を拡大するためには、ファンドの大型化が重要です。
例えば、100億円のファンドが1社に30億円を投資すれば、運用資産の30%が集中します。
一方、1,000億円のファンドであれば、30億円の投資は全体の3%です。
大型ファンドほど、投資先を分散しながら大規模な投資を実行しやすくなります。
また、成長企業への追加投資にも対応しやすくなります。
そのためには、年金基金や生命保険会社などの長期運用資金を活用することが重要な選択肢になります。
米国では、年金基金や大学基金などがベンチャーキャピタルファンドへの重要な資金供給者となっています。
一方、日本では銀行や事業会社などが主要な出資者となってきました。
ただし、年金基金や生命保険会社には、将来の給付や保険金の支払いを確実に行う責任があります。
スタートアップ育成という政策目的だけで、高リスクの投資を拡大することは適切ではありません。
重要なのは、ベンチャー投資を機関投資家にとって合理的な運用対象に育てることです。
そのためには、ファンドの収益力向上、透明性の高い情報開示、適切なリスク管理などが必要になります。
株式上場だけに依存しない資金回収市場が必要
ベンチャーキャピタルが投資を拡大するためには、投資資金を回収できる市場が必要です。
代表的な資金回収方法は、株式上場とM&Aです。
日本では、株式上場が重要な資金回収手段となってきました。
しかし、企業が十分に成長する前に上場を急ぐことには問題があります。
例えば、長期的な成長のために研究開発投資を続ける方が合理的な場合でも、投資家が短期間での資金回収を求めれば、上場を優先する経営判断につながる可能性があります。
一方、M&Aによる資金回収が広がれば、企業は株式上場以外の選択肢を持つことができます。
大企業が新しい技術や人材を獲得するためにスタートアップを買収することは、産業全体の技術革新にもつながります。
また、創業者や投資家が株式売却によって得た資金を、次のスタートアップに再投資することも可能になります。
日本の成長戦略では、株式上場市場の整備だけでなく、M&A市場の発展も重要です。
投資家が複数の資金回収手段を持つことは、ベンチャー投資の拡大につながります。
失敗した起業家が再挑戦できる社会をつくる
スタートアップの成長には、失敗を受け入れる社会環境も重要です。
新しい技術や事業に挑戦する以上、すべての企業が成功するわけではありません。
市場環境の変化や技術開発の遅れ、競争の激化などによって、事業が失敗することもあります。
しかし、事業の失敗は、必ずしも経営者の能力不足や不正行為を意味するものではありません。
起業家は、失敗を通じて市場開拓や人材採用、資金調達、組織運営などの経験を得ることがあります。
こうした経験を次の事業に生かすことができれば、社会全体の起業能力の向上につながります。
一方、通常の事業上の失敗によって創業者個人が多額の債務を負えば、再挑戦は難しくなります。
そのため、創業者個人への過度な責任追及を見直すことが重要です。
また、失敗経験のある起業家に対しても、事業内容や経営能力を適切に評価する投資家が必要になります。
重要なのは、失敗した起業家を無条件に支援することではありません。
失敗の原因を分析し、改善された事業計画や経営能力を評価できる環境を整えることです。
再挑戦できる社会は、挑戦する人を増やす社会でもあります。
政府の役割は民間投資を育てること
日本政府は、スタートアップ育成を経済成長戦略の重要な柱に位置づけています。
2022年11月に決定されたスタートアップ育成5か年計画では、2027年度のスタートアップ投資額を10兆円規模とする目標が掲げられました。
政府は研究開発支援や政府系ファンドによる投資、税制優遇などを進めています。
こうした支援は、民間資金だけでは対応しにくい分野で重要な役割を果たします。
特に、核融合や創薬、宇宙開発などの分野では、研究開発期間が長く、民間投資家だけでは十分な資金が集まらない場合があります。
しかし、政府支援を拡大するだけで、持続的なベンチャー投資市場が形成されるわけではありません。
公的資金が民間投資を代替したり、投資判断の非効率化を招いたりする可能性もあります。
重要なのは、政府が民間投資を補完し、民間資金を呼び込むことです。
研究開発の初期段階では公的支援を活用し、事業化が進んだ段階では民間投資を拡大する仕組みが必要です。
また、投資契約の改善や資金回収市場の整備など、民間投資が成長するための環境づくりも重要になります。
金融改革は大企業と中小企業にも関係する
スタートアップ金融の改革は、新興企業だけの問題ではありません。
日本経済全体の産業構造にも関係しています。
例えば、大企業がスタートアップの技術を活用すれば、新しい製品やサービスの開発につながります。
また、スタートアップとの提携や買収によって、大企業自身の事業構造を変革することも可能になります。
中小企業にとっても、新しい技術やサービスを活用する機会が広がります。
人工知能やロボットなどの技術が普及すれば、人手不足への対応や生産性の向上につながる可能性があります。
さらに、スタートアップが成長することで、新しい取引先や雇用機会が生まれます。
つまり、ベンチャー投資市場の発展は、起業家や投資家だけでなく、既存企業や働く人々にも影響します。
日本の成長戦略では、スタートアップを既存企業と対立する存在として捉えるのではなく、産業全体の変革を促す存在として位置づけることが重要です。
金融市場が新しい企業の成長を支え、その成果が既存企業にも広がる仕組みを整える必要があります。
挑戦する社会に必要な5つの条件
日本がゼロリスク志向から脱却し、挑戦する社会へ転換するためには、複数の改革を同時に進める必要があります。
第一に、投資家と起業家の適切なリスク分担です。
通常の事業上の失敗について、創業者個人に過度な責任を負わせる契約慣行を見直す必要があります。
第二に、ベンチャーキャピタルの運用能力の向上です。
投資先企業の発掘、企業価値評価、経営支援などの能力を高め、長期的な投資収益を確保することが重要です。
第三に、長期資金の供給拡大です。
年金基金や生命保険会社などが、適切なリスク管理のもとでベンチャー投資を検討できる環境を整える必要があります。
第四に、資金回収市場の整備です。
株式上場だけでなく、M&Aなどを通じて投資資金を回収できる仕組みを発展させることが重要です。
第五に、起業家の再挑戦を支える環境です。
通常の事業上の失敗を過度に罰するのではなく、経験を次の事業に生かせる社会をつくる必要があります。
これらの改革は、個別に進めるだけでは十分な効果を得られません。
資金供給、投資契約、企業成長、資金回収、再投資が一体となって機能する金融市場を構築することが重要です。
結論
日本のベンチャーキャピタルによる投資規模が米国の1.5%にとどまっていることは、日本の金融市場が抱える構造的な課題を示しています。
その背景には、ファンドの規模の小ささ、長期資金の不足、投資家の損失回避志向、資金回収市場の制約などがあります。
また、創業者個人に過度な責任を負わせる投資契約は、起業家の挑戦意欲を損なう可能性があります。
日本が世界的なスタートアップを育てるためには、資金供給量を増やすだけでなく、金融市場の仕組みそのものを改革する必要があります。
重要なのは、リスクをなくすことではありません。
適切なリスク管理のもとで、投資家と起業家がそれぞれの役割に応じたリスクを引き受けることです。
ベンチャーキャピタルは、失敗の可能性を評価しながら、大きな成長可能性を持つ企業に資金を提供する必要があります。
起業家は、投資家から提供された資金を活用し、技術開発や市場開拓に挑戦することが求められます。
政府は、民間投資を補完し、挑戦が生まれやすい市場環境を整える役割を担います。
そして、事業が失敗した場合には、その原因を検証し、次の挑戦につなげることが重要です。
失敗を完全に防ぐことを目指す社会では、新しい技術や産業が生まれにくくなります。
一方、合理的な挑戦を支え、成功による利益を次の投資につなげる社会では、技術革新と経済成長の好循環が生まれる可能性があります。
日本の成長戦略に必要なのは、失敗を恐れない無謀な投資ではありません。
失敗の可能性を正しく理解し、適切に管理しながら、将来の成長に向けて資金を供給する金融の仕組みです。
ゼロリスクを求める金融から、適切なリスクを引き受けて挑戦を支える金融へ転換することこそ、日本が次の成長産業を育てるための重要な条件ではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月27日朝刊「起業家が萎縮する『ゼロリスクルール』 日本のVC投資、米国の1.5%」
内閣官房 2022年11月28日「スタートアップ育成5か年計画」
経済産業省 2022年3月「スタートアップの成長に向けたファイナンスに関するガイダンス」
経済産業省 2024年6月24日「機関投資家からVCファンドに対する投資」