人手不足が深刻化するなか、企業の初任給引き上げ競争が続いています。
優秀な若手人材を確保するため、企業は給与水準の改善や働き方改革、福利厚生制度の充実を進めています。
しかし、都市部を中心に家賃が高騰するなか、初任給を引き上げるだけでは、若手社員の生活水準を十分に改善できない場合があります。
そこで注目されているのが、社宅や社員寮などの住宅支援制度です。
企業が住宅費の一部を負担することで、従業員の実質的な生活負担を軽減し、採用活動での競争力を高めようとする動きが広がっています。
これからの採用競争では、額面の給与だけでなく、住宅費を含めた実質的な待遇が重要な判断材料になると考えられます。
初任給の引き上げ競争が続く背景
企業が初任給を引き上げる背景には、少子化による若年労働人口の減少があります。
新卒採用市場では、企業が必要な人数を確保することが難しくなっています。
特に専門知識やデジタル技術を持つ人材については、企業間の獲得競争が激しくなっています。
こうした状況を受け、企業は初任給を引き上げることで、学生に対して待遇面の魅力を示そうとしています。
例えば、初任給を月額25万円から28万円に引き上げれば、年間の基本給は36万円増加します。
しかし、従業員が自由に使える金額が36万円増えるわけではありません。
給与の増加に伴い、所得税や住民税、社会保険料などの負担も変化するためです。
また、企業側にも給与増加に伴う社会保険料の事業主負担などが発生します。
初任給の引き上げは重要な採用戦略ですが、企業と従業員の双方にとって、額面金額だけでは判断できない側面があります。
家賃高騰が初任給引き上げの効果を弱める
東京都内では、単身者向け賃貸住宅の家賃上昇が続いています。
アットホームの調査によると、東京23区の専有面積30平方メートル以下の賃貸マンションでは、2026年8月の平均募集家賃が最高値を更新しました。
例えば、初任給が月額25万円から28万円に上昇した場合を考えます。
額面給与は毎月3万円増加します。
一方、家賃が月額8万円から10万円に上昇すると、住宅費は毎月2万円増加します。
この場合、給与増加額と家賃増加額の差は、税金や社会保険料を考慮する前でも月額1万円です。
実際には給与増加に伴う税金や社会保険料の負担があるため、自由に使える金額の増加はさらに小さくなる可能性があります。
つまり、初任給が上昇しても、家賃の高騰によって生活水準の改善効果が弱まる場合があるのです。
企業が若手社員の生活を支えるためには、給与だけでなく住宅費にも目を向ける必要があります。
社宅管理戸数の増加が示す採用戦略の変化
企業の住宅支援に対する関心は、具体的な数字にも表れています。
リログループ傘下のリロケーション・ジャパンでは、借り上げ社宅の管理戸数が2026年6月末に30万戸を超えました。
3年前と比較して25%増加しています。
さらに、企業からの新規問い合わせ件数は2023年度比で5.6倍に拡大しました。
相談企業の約7割は従業員500人未満の企業です。
この数字からは、大企業だけでなく、中小企業も住宅支援を採用戦略の一つとして検討していることがうかがえます。
中小企業は、大企業と比較して給与水準や知名度で不利になる場合があります。
しかし、住宅支援を充実させることで、実質的な生活負担の軽減という魅力を示すことができます。
例えば、地方から都市部へ就職する学生にとって、社宅の有無は就職先を選ぶ重要な判断材料になる可能性があります。
初任給3万円増額と住宅支援を比較する
具体的な事例で考えてみましょう。
企業が若手社員1人に対して、毎月3万円の追加的な支援を行う場合を想定します。
第一の方法は、基本給を月額3万円引き上げることです。
年間の基本給増加額は36万円になります。
ただし、従業員には税金や社会保険料の追加負担が生じる可能性があります。
企業にも社会保険料の事業主負担などが発生します。
第二の方法は、企業が借り上げ社宅を提供し、毎月3万円の家賃負担を行うことです。
例えば、家賃10万円の住宅を企業が借り上げ、従業員から7万円を徴収する場合、企業の家賃差額負担は月額3万円です。
年間では36万円になります。
ただし、この社宅使用料が税法上の要件を満たしているかは、別途確認する必要があります。
また、社会保険では現物給与の評価が必要になる場合があります。
このように、企業の直接的な支援額が同じでも、従業員の実質的な経済的利益は異なる可能性があります。
もっとも、基本給の引き上げは賞与や退職給付などに影響する場合があり、社宅支援とは長期的な価値が異なります。
両者を単純に同一視することは適切ではありません。
住宅支援には初期費用を軽減する効果もある
若手社員が都市部で一人暮らしを始める際には、毎月の家賃だけでなく、初期費用も大きな負担になります。
賃貸住宅の契約では、敷金、礼金、仲介手数料、保証料、前払い家賃などが必要になる場合があります。
さらに、引っ越し費用や家具、家電の購入費用も発生します。
例えば、家賃10万円の住宅で契約時の初期費用が家賃5カ月分に相当する場合、50万円の資金が必要になります。
大学卒業直後の新入社員にとって、この金額を準備することは簡単ではありません。
企業が借り上げ社宅を提供し、初期費用の一部を負担すれば、就職に伴う経済的不安を軽減できます。
特に地方出身者にとっては、住宅探しの負担も小さくなります。
ただし、企業が負担する初期費用の内容によっては、税務上の取扱いが異なる場合があります。
制度を設計する際には、家賃だけでなく、契約関連費用の負担方法も明確にする必要があります。
中小企業は住宅支援で採用条件を差別化できる
中小企業が大企業と同じ水準まで初任給を引き上げることは、財務面で難しい場合があります。
特に利益率が低い企業では、基本給の恒常的な引き上げが将来の人件費負担につながります。
そのため、住宅支援を組み合わせることで、採用条件の魅力を高める方法が考えられます。
例えば、入社後5年間に限定して借り上げ社宅を提供する制度です。
若手社員の収入が比較的低い時期に重点的な支援を行い、その後は本人負担を段階的に増やす方法もあります。
また、勤務地から一定距離以上離れた地域から採用した社員を対象にする制度も考えられます。
ただし、制度の対象者や利用期間については、合理的な基準を設ける必要があります。
住宅支援を受けられる社員と受けられない社員の間で、不公平感が生じないよう配慮することも重要です。
中小企業にとっては、限られた経営資源をどのように配分するかが採用戦略の成否を左右します。
住宅支援だけでは人材を確保できない
住宅支援には採用上のメリットが期待できますが、それだけで優秀な人材を確保できるわけではありません。
求職者が就職先を選ぶ際には、仕事内容、給与水準、勤務時間、勤務地、キャリア形成、職場環境など、さまざまな条件を比較します。
例えば、住宅支援が充実していても、長時間労働が常態化している企業では、若手社員が定着しにくい可能性があります。
また、社宅制度によって住宅費が軽減されても、昇給やキャリア形成の機会が限られていれば、将来への不安は解消されません。
住宅支援は、給与制度や人材育成制度を補完するものとして位置付ける必要があります。
企業が目指すべきなのは、住宅支援によって従業員を囲い込むことではありません。
従業員が安心して働き、成長できる環境を整えることです。
採用活動では実質的な待遇を示すことが重要
企業が住宅支援を採用活動に活用する場合には、制度の内容を具体的に説明することが重要です。
例えば、社宅制度があるという説明だけでは、求職者は実際のメリットを判断できません。
本人負担額、利用可能期間、対象地域、入居条件、退職時の取扱いなどを明確にする必要があります。
また、住宅支援によって年間どの程度の生活費負担を軽減できるのかを示すことも有効です。
ただし、住宅支援の経済的価値を給与と同じものとして表示する場合には注意が必要です。
社宅には利用条件や期間制限があり、自由に使える現金とは性質が異なります。
税金や社会保険料の取扱いも、個々の条件によって変わります。
求職者が誤解しないよう、基本給、賞与、住宅支援を区別して説明することが望まれます。
採用活動では、額面年収の大きさだけでなく、実際の生活を具体的にイメージできる情報提供が重要になります。
住宅支援の効果を採用指標で検証する
企業が住宅支援制度を導入した場合には、採用活動への効果を継続的に検証する必要があります。
例えば、応募者数、内定承諾率、採用充足率、入社後の定着率などが指標になります。
また、応募者や内定者に対して、住宅支援制度が就職先の選択にどの程度影響したかを調査する方法もあります。
ただし、制度導入後に応募者数が増加したとしても、そのすべてが住宅支援による効果とは限りません。
給与水準の変更、企業の知名度向上、採用活動の改善など、ほかの要因も影響する可能性があります。
重要なのは、住宅支援にかかる費用と、採用活動への効果を総合的に評価することです。
福利厚生制度も、導入して終わりにするのではなく、経営上の成果を確認しながら改善することが求められます。
結論
初任給の引き上げは、若手人材を確保するための重要な手段です。
しかし、都市部の家賃高騰によって、給与が上昇しても生活水準が十分に改善しない場合があります。
そのため、企業の採用競争では、基本給や賞与だけでなく、住宅費を含めた実質的な待遇が重要になっています。
社宅や社員寮は、若手社員の住宅費負担を軽減し、地方出身者の採用や入社後の生活安定を支える制度として期待されています。
特に中小企業にとっては、給与だけでは難しい採用競争を補完する選択肢になります。
ただし、住宅支援は初任給引き上げの完全な代替手段ではありません。
基本給の上昇には長期的な所得や将来の給付に関わる価値があり、住宅支援には生活費負担の軽減という特徴があります。
企業は両者の違いを理解し、給与制度、住宅支援、人材育成、働き方改革を組み合わせる必要があります。
これからの採用競争では、いくら給与を支払うかだけでなく、従業員がその給与でどのような生活を送れるかが問われます。
住宅支援を含めた総合的な報酬制度を設計できる企業ほど、若手人材の確保と定着において競争力を高められるでしょう。
参考
日本経済新聞 2026年10月21日 家賃高騰で社宅に脚光、若手定着へ企業支援厚く 管理戸数25%増
厚生労働省 賃金構造基本統計調査
厚生労働省 新規学卒就職者の離職状況
国税庁 使用人に社宅や寮などを貸したとき
日本年金機構 現物給与の取扱い