キャッシュレス決済が進むほど、現金は必要なくなるのでしょうか。
この問いに対して、世界有数のデジタル先進国であるシンガポールが興味深い答えを示しています。
シンガポールでは2025年時点でデジタル決済の普及率が92%に達しています。それにもかかわらず、大手銀行が現金を引き出せる拠点の拡充に乗り出しました。
背景にあるのは急速な高齢化です。
この動きは、日本の銀行経営や高齢者の金融サービスを考えるうえでも重要な示唆を与えています。
キャッシュレス先進国で起きた変化
シンガポールは、世界でもキャッシュレス化が進んだ国の一つです。
銀行口座と連携した決済サービスが広く普及し、屋台街でもQRコードを利用して代金を支払えます。
代表的なサービスであるPayNowには、成人の約9割が登録しています。
一方、現金を利用する高齢者も少なくありません。
スマートフォンの文字が小さく、金額を入力する際に間違えるのではないかと不安を感じる人がいます。
また、銀行アプリの操作そのものに抵抗を感じる人もいます。
現金であれば、財布の中にある紙幣や硬貨を確認しながら支払えます。
高齢者にとっては、慣れた方法で安心して買い物ができることが大切なのです。
大手銀行が現金拠点の拡充を決定
2026年6月、シンガポール銀行協会は高齢社会への対応を重視した行動指針を公表しました。
注目されるのは、現金へのアクセスを確保する方針です。
DBS銀行、OCBC銀行、UOB銀行の三大銀行は、2027年末までに公団住宅であるHDBの全てについて、500メートル以内に現金を引き出せる拠点を設けることを目指しています。
HDBには国民の約8割が暮らしています。
つまり、国民の生活圏で現金を利用できる環境を整備しようとしているのです。
現金拠点には銀行の支店やATMだけでなく、スーパーやコンビニエンスストアも活用します。
買い物の際に銀行口座から現金を引き出せる仕組みを広げることで、ATMの設置費用を抑えながら利便性を確保する考えです。
急速な高齢化が銀行経営を変える
シンガポールでは、65歳以上の国民の割合が2016年の13%余りから2026年には20%を超えました。
わずか10年間で高齢化が大きく進んだことになります。
日本では65歳以上の人口割合が約3割に達していますが、シンガポールも急速に日本型の高齢社会へ近づいています。
高齢化が進むと、金融サービスに求められる条件も変わります。
若い世代にとって便利なサービスが、必ずしも高齢者にとって使いやすいとは限りません。
銀行は、デジタル化による効率性だけでなく、利用者の年齢や身体的な条件にも配慮する必要があります。
金融サービスを利用できない人が増えれば、社会全体の利便性が低下する可能性があるからです。
ATM削減の流れを見直す
キャッシュレス決済の普及に伴い、シンガポールではATMが減少してきました。
国際通貨基金の調査によると、2024年のATM設置台数は2,506台で、2018年のピークから22%減少しました。
また、2015年から2024年にかけてATMでの現金引き出し件数は30%以上減少しています。
利用者が減れば、銀行がATMを削減することには経営上の合理性があります。
しかし、利用件数が減ったことと、現金を必要とする人がいなくなったことは同じではありません。
利用者全体の多数派がキャッシュレスに移行しても、現金を必要とする少数派は残ります。
特に移動手段が限られる高齢者にとって、近隣のATMがなくなる影響は小さくありません。
銀行経営では、平均的な利用者の利便性だけでなく、サービスを失う人への影響も考慮する必要があります。
システム障害に備える現金の役割
現金を維持する理由は高齢化だけではありません。
キャッシュレス社会には、システム障害というリスクがあります。
2023年には、シンガポールのデータセンターで冷却設備の故障が発生し、DBS銀行などのシステムに影響が及びました。
インターネットバンキングやカード決済を利用できなくなる事態が発生しました。
デジタル決済は便利ですが、通信設備や電力、データセンターなどのインフラに依存しています。
これらに障害が発生すると、日常生活の支払いにも支障が生じます。
現金は通信回線を必要とせず、停電時でも一定の条件のもとで利用できます。
ただし、店舗側に釣り銭がなかったり、営業自体が停止したりすれば、現金でも支払いができない場合があります。
現金は万能ではありませんが、デジタル決済を補完する重要な手段です。
日本にも共通する課題
日本でも銀行店舗やATMの統廃合が進んでいます。
銀行にとっては、店舗維持費や人件費を削減し、経営効率を高めることが重要です。
一方、地方では高齢化や人口減少が進み、金融機関の店舗が地域生活を支える役割も大きくなっています。
特に自家用車を運転できない高齢者にとって、金融機関までの距離は重要です。
シンガポールのように、現金拠点までの距離を具体的な目標として設定する考え方は、日本でも参考になります。
ただし、日本は都市部と地方で人口密度が大きく異なります。
全国一律の距離基準ではなく、地域の人口構成や交通事情に応じた対応が必要でしょう。
銀行だけでなく、信用金庫、信用組合、郵便局、コンビニなどが連携する仕組みも考えられます。
結論
シンガポールの現金回帰は、キャッシュレス化を否定する動きではありません。
デジタル決済を普及させながら、現金を必要とする人の生活も守ろうとする取り組みです。
重要なのは、利用者に複数の選択肢を残すことです。
高齢者が現金を使うことを時代遅れと考えるのではなく、本人が安心して利用できる金融サービスを確保する必要があります。
日本では今後、人口減少と高齢化がさらに進みます。
銀行のデジタル化と店舗削減が進むなかで、誰も金融サービスから取り残されない仕組みを構築することが求められます。
金融の進歩とは、現金をなくすことではありません。
誰もが安心してお金を使い、管理できる社会を実現することではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月17日 デジタル先進国で「現金回帰」 高齢社会のシンガポール
シンガポール銀行協会 2026年6月 高齢社会への対応に関する行動指針
国際通貨基金 金融アクセス調査