相続税には、配偶者の税額軽減という重要な制度があります。
配偶者が相続した財産については、原則として1億6,000万円または法定相続分に相当する金額のいずれか大きい金額まで、相続税がかからない仕組みです。
ただし、この制度でいう法定相続分の意味を誤ると、相続税額が大きく変わってしまいます。
特に注意したいのが、子どもが相続放棄をした場合です。
今回は、子ども2人が相続放棄をした結果、配偶者の相続税をゼロと申告してしまった失敗事例を解説します。
子ども2人が相続放棄した事例
父親は会社経営者であり、会社の株式を100%保有していました。
相続人となる予定だったのは、配偶者である母親と、長女、次女の3人でした。
父親の相続財産の大部分は自社株であり、その相続税評価額は4億円でした。
一方、会社には多額の銀行借入があり、父親は経営者保証をしていました。
長女と次女は会社を承継する意思がなく、保証債務の相続を避けるため、家庭裁判所で適法に相続放棄をしました。
その結果、民法上は母親だけが相続人となり、母親が全財産を取得しました。
申告を担当した税理士は、母親の法定相続分が100%になったと判断しました。
そして、配偶者の税額軽減によって相続税はゼロになると申告したのです。
しかし、この判断には重大な誤りがありました。
民法と相続税法では相続放棄の取扱いが異なる
民法第939条では、相続放棄をした人は、その相続について初めから相続人とならなかったものとみなされます。
今回の事例では、長女と次女が相続放棄をしたため、母親がすべての財産を相続することになりました。
しかし、相続税法では、相続放棄がなかったものとして計算する場面があります。
その一つが、相続税の基礎控除です。
相続税の基礎控除は、3,000万円に法定相続人1人当たり600万円を加算して計算します。
今回の事例では、相続放棄がなかったものとして、母親と子ども2人の合計3人で計算します。
したがって、基礎控除は4,800万円となります。
子ども2人が相続放棄をしたからといって、法定相続人を1人として3,600万円の基礎控除を計算するわけではありません。
配偶者の税額軽減でも放棄がなかったものとする
今回の最大のポイントは、相続税法第19条の2です。
配偶者の税額軽減では、法定相続分に相当する金額を計算する際、相続放棄があった場合には、その放棄がなかったものとした場合の相続分を用います。
つまり、子ども2人が相続放棄をしていても、配偶者の税額軽減における母親の法定相続分は2分の1のままです。
実際に母親が財産の100%を取得したことと、税額軽減で用いる法定相続分が100%になることは別の問題です。
この違いを理解していないと、配偶者の税額軽減を過大に適用してしまいます。
実際の税額計算
研修資料では、自社株の相続税評価額4億円を前提に、具体的な税額計算が示されています。
相続財産は4億円です。
法定相続人は、相続放棄がなかったものとして3人とします。
基礎控除は4,800万円となります。
その結果、課税遺産総額は3億5,200万円です。
これを法定相続分に応じて取得したものとして計算します。
配偶者の取得額は1億7,600万円、長女と次女の取得額はそれぞれ8,800万円です。
相続税の速算表を適用すると、配偶者の仮の税額は5,340万円、長女と次女はそれぞれ1,940万円となります。
相続税の総額は9,220万円です。
実際には母親が全財産を取得しているため、母親に対応する相続税額は9,220万円となります。
しかし、配偶者の税額軽減で控除できるのは、今回の事例では4,610万円です。
したがって、最終的な相続税額は4,610万円となります。
ゼロ申告と正しい申告との差額
今回の失敗事例では、税理士が相続放棄後の母親の相続分を100%と判断したことにより、相続税額をゼロとして申告しました。
しかし、正しい計算では4,610万円の納税が必要でした。
つまり、申告時点で4,610万円の税額不足が生じています。
このような誤りが税務調査で発見されれば、本来の相続税に加え、加算税や延滞税などが生じる可能性があります。
配偶者の税額軽減は大きな節税効果がある制度ですが、その分、適用要件の誤りによる影響も大きくなります。
経営者保証と相続放棄の関係
今回の事例では、子ども2人が相続放棄をした理由として、父親の経営者保証が挙げられています。
中小企業の経営者が亡くなった場合、自社株だけでなく、会社の借入金に関する個人保証が問題になることがあります。
相続人は、財産だけでなく、被相続人の債務についても確認する必要があります。
そのため、相続放棄を検討すること自体は重要です。
ただし、会社の借入金と被相続人個人の保証債務は区別して考えなければなりません。
また、相続放棄には家庭裁判所での手続きが必要であり、原則として自己のために相続の開始があったことを知った時から3カ月以内という熟慮期間があります。
相続放棄を検討する場合には、保証契約の内容や財産全体の状況を確認し、早期に専門家へ相談することが重要です。
二次相続まで考える必要がある
配偶者の税額軽減を検討する際には、最初の相続だけでなく、配偶者が亡くなった際の二次相続にも注意が必要です。
今回の事例では、母親が4億円の自社株を取得しています。
その後、母親が亡くなった場合には、母親自身の財産として自社株が相続税の課税対象となる可能性があります。
自社株の評価額が変動することも考えられます。
また、会社の経営を誰が承継するかという問題も残ります。
したがって、相続税の負担だけでなく、会社経営の継続、M&Aの可能性、株式の換金性、保証債務への対応などを総合的に検討する必要があります。
結論
相続放棄によって民法上の相続人が減少しても、相続税の計算で用いる法定相続人の数や法定相続分が、そのまま変わるとは限りません。
今回の事例では、子ども2人が相続放棄をしたため、母親が全財産を相続しました。
しかし、配偶者の税額軽減で用いる法定相続分は、相続放棄がなかったものとして2分の1で計算する必要がありました。
その結果、相続税額はゼロではなく4,610万円となりました。
相続税申告では、民法上の財産承継と、相続税法上の計算規定を明確に区別しなければなりません。
相続放棄は、債務対策として重要な制度である一方、税務上の効果についても慎重に確認する必要があります。
参考
東京税理士会 2026年度第15回会員研修会資料 相続税申告における失敗事例から学ぶ対応法 2026年度版 46ページから53ページ
民法第900条
民法第939条
相続税法第15条
相続税法第16条
相続税法第19条の2