企業が社員の運動を支援する目的というと、生活習慣病の予防や体力の維持を思い浮かべる人が多いかもしれません。
しかし、スポーツ庁が企業の運動習慣づくりを支援しようとしている背景には、身体の健康だけでなく、働く人のメンタルヘルスという大きな問題があります。
日本生産性本部が2025年に約170社を対象に実施した調査では、社員の心の病が増加傾向にあると回答した企業は39パーセントでした。
2021年の22パーセントから大きく増えています。
社員がメンタル不調になれば、本人が苦しむだけではありません。
仕事の生産性が低下し、欠勤や休職につながり、場合によっては離職することもあります。
人手不足が深刻になる日本企業にとって、社員の心の健康を守ることは経営上の重要な課題になっています。
そこで注目されるのが運動です。
運動だけですべてのメンタルヘルス問題を解決できるわけではありませんが、身体を動かすことを社員の健康づくりの一つとして位置付ける企業は今後さらに増えていく可能性があります。
メンタルヘルスは企業経営の問題でもある
メンタルヘルスというと、個人の問題として考えられることがあります。
しかし、多くの人は一日の長い時間を仕事に使っています。
仕事量。
職場の人間関係。
長時間労働。
仕事へのプレッシャー。
将来への不安。
こうした職場環境は心の状態に影響します。
そのため社員のメンタルヘルスを本人だけの責任にすることはできません。
企業にも、社員が健康に働ける環境を整える役割があります。
特に人材確保が難しくなる社会では、社員が心身の健康を保ちながら働き続けられること自体が企業の競争力になります。
心の不調が増えている企業は少なくない
日本生産性本部の調査結果で注目したいのは、社員の心の病が増加傾向にあると回答した企業が増えていることです。
2021年には22パーセントだったものが、2025年には39パーセントになっています。
企業側がメンタルヘルス問題の拡大を感じていることが分かります。
メンタル不調が深刻になると、仕事を続けること自体が難しくなる場合があります。
長期間休職すれば、職場側にも影響します。
残された社員が仕事を引き継ぐ。
業務負担が増える。
その結果、別の社員の負担が重くなる。
このような連鎖が起こる可能性もあります。
メンタルヘルス対策は、一人の社員だけではなく職場全体を守るためにも重要です。
運動は気分転換にもなる
身体を動かした後に気分がすっきりした経験を持つ人は少なくないでしょう。
ウォーキングをする。
軽く走る。
ヨガをする。
ストレッチをする。
こうした運動は、仕事から一時的に意識を離す機会にもなります。
特にデスクワークでは、長時間同じ場所でパソコンに向かい続けることがあります。
その途中で数分でも身体を動かせば、仕事をいったん区切ることができます。
運動を特別なスポーツとして考える必要はありません。
昼休みに少し歩く。
仕事の合間にストレッチする。
階段を利用する。
こうした小さな身体活動も、日常生活に取り入れやすい方法です。
短時間運動なら職場にも取り入れやすい
社員のメンタルヘルス対策として運動を取り入れる場合、毎日長時間のスポーツを求める必要はありません。
むしろ短時間で参加できることが重要です。
5分程度のストレッチ。
昼休みのウォーキング。
短時間の体操。
業務時間中のヨガ。
この程度であれば、多くの職場で導入を検討できます。
日本経済新聞の記事では、運送業のサイショウ・エクスプレスが月1回、ヨガやダンスなどを業務時間内に行っている事例が紹介されています。
社員に仕事が終わってから運動してくださいと求めるのではなく、仕事の中に身体を動かす機会を組み込む発想です。
忙しい現役世代ほど、このような仕組みが重要になります。
一緒に運動することでコミュニケーションが生まれる
職場での運動には、身体を動かすこと以外の効果も考えられます。
社員同士のコミュニケーションです。
普段は仕事上の会話しかしない社員同士でも、一緒にウォーキングをしたり体操をしたりすれば、仕事とは違う会話が生まれることがあります。
部署を超えた交流につながる可能性もあります。
テレワークの普及などによって、社員同士が直接顔を合わせる機会が少なくなった職場もあります。
スポーツイベントやウォーキングイベントを、健康づくりだけでなく社員同士のつながりをつくる機会として利用することも考えられます。
ただし、参加を強制すれば逆にストレスになる可能性があります。
本人が参加方法を選択できることが大切です。
メンタル不調は生産性にも影響する
社員の心の不調は、休職や離職だけが問題ではありません。
出勤していても十分に能力を発揮できない状態になることがあります。
体調が悪い。
疲労がたまっている。
仕事に集中できない。
強いストレスを抱えている。
こうした状態で勤務を続ければ、仕事の能率が低下する可能性があります。
企業から見ると、社員が会社に来ているかどうかだけを見ていては、実際の生産性を把握できません。
社員が心身ともに健康な状態で仕事ができているかという視点が必要になります。
運動を含む健康施策が企業の生産性向上策として考えられる理由の一つです。
休職すると企業にも大きな負担が生じる
社員がメンタル不調によって長期間休職すれば、企業側にもさまざまな負担が発生します。
担当していた仕事をほかの社員へ振り分ける必要があります。
代替人員を採用する場合もあります。
復職するときには職場復帰への支援も必要になります。
さらに休職後に退職することになれば、新しい社員を採用し、教育しなければなりません。
人手不足が進むほど、この負担は大きくなります。
そのため企業にとっては、不調が深刻になってから対応するだけでなく、社員が健康な状態を維持できる環境づくりも重要になります。
運動だけで解決しようとしてはいけない
ここで最も注意したいことがあります。
メンタルヘルス問題を運動だけで解決しようとしてはいけないということです。
長時間労働が続いている。
過大な仕事量を抱えている。
ハラスメントがある。
職場の人間関係に深刻な問題がある。
こうした原因があるにもかかわらず、会社が社員に運動してくださいと言うだけでは本末転倒です。
問題の原因が職場環境にあるのであれば、企業はその環境自体を改善する必要があります。
運動はあくまで社員の健康を支える施策の一つです。
労働時間の管理や相談体制、休職や復職支援などと組み合わせて考える必要があります。
運動を義務にすると逆効果になることもある
健康経営だからといって、社員全員にスポーツイベントへの参加を求めることにも注意が必要です。
運動が好きな人もいれば苦手な人もいます。
一人で歩きたい人もいます。
身体的な事情によって特定の運動が難しい人もいます。
参加しないと職場で肩身が狭くなるような制度では、健康施策そのものが新しいストレスになりかねません。
ウォーキング。
ストレッチ。
ヨガ。
体操。
個人で行う運動。
さまざまな選択肢を用意することが重要です。
健康経営は、健康を強制することではありません。
社員が自分に合った方法で健康的な行動を選べる環境を整えることです。
企業は不調になる前の段階にも目を向ける
従来のメンタルヘルス対策では、不調が起きた後の対応が大きな役割を占めてきました。
もちろん、不調を抱えた社員への適切な支援は欠かせません。
しかし、それと同時に重要なのが、不調になる前の健康づくりです。
十分な休息を取る。
適切な労働時間にする。
身体を動かす。
社員同士が孤立しにくい環境をつくる。
相談しやすい職場にする。
こうした取り組みを重ねることで、心身の健康を支える職場環境をつくります。
運動は、その中の一つとして位置付ける必要があります。
メンタル不調改善の経済効果も試算されている
社員の心の健康は、経済的な面からも注目されています。
日本経済新聞の記事によると、筑波大学大学院の久野譜也教授が2025年度に行った試算では、スポーツの実施によるメンタル不調改善について年間1200億円の経済効果が見込まれています。
さらに体力向上による疲労軽減や、健康寿命の延伸による就労期間の拡大、医療費や介護費の削減などを合わせると、年間12兆6000億円の経済効果が生まれると試算されています。
社員の健康づくりは本人のためだけに行うものではありません。
企業の生産性や就業継続、さらに日本経済全体にも影響する問題として考えられるようになっています。
心身を分けない健康経営へ
身体の健康と心の健康を完全に別のものとして考える必要はありません。
身体を動かす。
適切に休む。
十分な睡眠を取る。
働き過ぎを防ぐ。
人とのつながりを持つ。
こうした日常生活や職場環境は相互に関係しています。
企業の健康経営も、生活習慣病対策だけ、メンタルヘルス対策だけと分けるのではなく、社員が心身ともに健康な状態で働ける環境を総合的につくる方向へ進むことが重要です。
スポーツ推進も、その一部として考える必要があります。
結論
運動とメンタルヘルスの関係が注目される背景には、働く人の心の不調が企業経営にも大きな影響を与えるようになっていることがあります。
運動は身体の健康だけでなく、仕事から一時的に離れて気分転換をしたり、社員同士のコミュニケーションを生み出したりする機会にもなります。
短時間のウォーキングやストレッチなどであれば、日常の仕事にも組み込みやすいでしょう。
一方で、運動を万能なメンタルヘルス対策と考えるべきではありません。
長時間労働や過大な業務負担、ハラスメントなどが原因であれば、その原因そのものを改善する必要があります。
また、運動を社員に強制すれば、新たなストレスを生み出す可能性もあります。
大切なのは、社員が自分に合った方法で身体を動かせる環境を整え、働き方の改善や相談体制などと組み合わせることです。
人手不足が進む日本では、社員が会社に来ているだけでは十分ではありません。
心身ともに健康な状態で能力を発揮し、できるだけ長く働けることが企業の競争力になります。
社員の運動を支援することは、福利厚生の一つから、心の健康と企業の持続的な成長を支える人的資本投資へと変わっていくのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年8月13日朝刊 スポーツ推進企業に支援