老後資金を準備するための企業年金制度が、中小企業を中心に広がっています。
その中でも注目されているのが、毎月の給与の一部を企業年金の掛け金に振り替える「選択制企業年金」です。
この制度では、従業員が将来の退職給付を積み立てながら、現在の社会保険料や税金の負担を軽減できる場合があります。
企業側も社会保険料の負担を抑えられる可能性があるため、労使双方にメリットのある制度として紹介されることがあります。
しかし、社会保険料が減るということは、その計算の基礎となる給与が低くなることを意味する場合があります。
その結果、将来受け取る厚生年金や、病気・出産時の社会保険給付が減少する可能性があります。
厚生労働省は、選択制の確定給付企業年金について、事業主に対して従業員への説明を求める方針を示しています。
制度の有利不利を判断するには、現在の負担軽減額だけでなく、生涯にわたる所得保障への影響を確認することが必要です。
選択制企業年金の基本的な仕組み
選択制企業年金とは、従業員が給与として受け取るか、企業年金の掛け金として積み立てるかを選択できる仕組みです。
例えば、毎月の給与が40万円の従業員について、3万円を企業年金の掛け金に振り替えるケースを考えます。
制度導入前は、毎月40万円が給与として支給されます。
制度導入後は、37万円が給与として支給され、3万円が企業年金の掛け金として拠出される形になります。
給与と掛け金の合計は40万円ですが、従業員が自由に使える給与は3万円減少します。
一方、毎月3万円が老後資金として積み立てられます。
年間の積立額は36万円です。
20年間継続すれば、掛け金の累計は720万円になります。
ただし、これは掛け金の単純合計であり、将来受け取る給付額を保証するものではありません。
実際の給付額は、企業年金の規約や給付設計などによって異なります。
社会保険料が減る理由
会社員が加入する厚生年金保険や健康保険では、原則として標準報酬月額を基準に保険料を計算します。
標準報酬月額とは、毎月の給与などを一定の幅で区分した金額です。
選択制企業年金では、企業が拠出する掛け金が社会保険上の報酬に該当しない場合があります。
そのため、給与の一部を掛け金に振り替えると、標準報酬月額が下がる可能性があります。
厚生年金保険料率は18.3%で、原則として労使折半です。
従業員本人の負担割合は9.15%となります。
標準報酬月額が低くなれば、本人負担の保険料だけでなく、企業負担の保険料も減少します。
ただし、標準報酬月額は実際の給与額そのものではありません。
給与が3万円減少しても、標準報酬月額が必ず3万円下がるわけではない点に注意が必要です。
給与40万円・掛け金3万円の具体例
実際の数字で確認します。
毎月の報酬が40万円の場合、厚生年金の標準報酬月額は通常41万円の等級に該当します。
給与を37万円に減らすと、標準報酬月額は通常38万円の等級に該当します。
他の報酬に変動がなく、標準報酬月額の変更が適切に反映された場合を想定します。
制度導入前の本人負担の厚生年金保険料は、41万円×9.15%で月額3万7,515円です。
制度導入後は、38万円×9.15%で月額3万4,770円となります。
差額は月額2,745円です。
年間では3万2,940円の負担軽減になります。
20年間、同じ差額が続いたと仮定すると、累計65万8,800円です。
企業側も厚生年金保険料について同額の負担軽減となります。
さらに健康保険料についても、標準報酬月額が下がれば負担が減少する可能性があります。
ただし、健康保険料率は加入する保険者や地域などによって異なります。
また、年齢によっては介護保険料も関係します。
これらの数字は、標準報酬月額が41万円から38万円に変更され、その状態が継続することを前提とした試算です。
実際には給与の改定時期や標準報酬月額の決定方法などによって、軽減額が異なります。
将来の厚生年金はいくら減るのか
社会保険料の軽減と同時に確認したいのが、将来の老齢厚生年金への影響です。
老齢厚生年金の報酬比例部分は、加入期間中の標準報酬月額や標準賞与額などを基礎として計算されます。
2003年4月以降の加入期間について、基本的な計算式を簡略化すると、平均標準報酬額×5.481÷1,000×加入月数となります。
先ほどの例では、標準報酬月額が3万円下がります。
この状態が20年間、240カ月続いた場合、将来の老齢厚生年金への影響は次のようになります。
3万円×5.481÷1,000×240カ月=約3万9,463円
つまり、将来の老齢厚生年金が年額約3万9,000円減少する計算です。
65歳から85歳まで20年間受給した場合、単純計算で約79万円の差になります。
65歳から95歳まで30年間受給した場合には、約118万円の差になります。
ただし、実際の年金額には再評価率や年金額の改定、加入履歴などが影響します。
ここでの計算は、それらを省略した概算です。
重要なのは、社会保険料の軽減効果が現役時代に発生する一方、厚生年金の減額は老後の受給期間全体に影響することです。
20年間の負担軽減と年金減額の比較
先ほどの試算を整理すると、20年間の厚生年金保険料の本人負担軽減額は約66万円です。
一方、将来の老齢厚生年金の減額は、65歳から85歳までの20年間で約79万円となります。
65歳から95歳まで受給すれば、約118万円です。
厚生年金保険料だけを比較すると、長生きするほど将来の年金減額の累計が大きくなることが分かります。
ただし、これだけで選択制企業年金が不利だと結論づけることはできません。
実際には、健康保険料の軽減や税負担の変化、企業年金として積み立てた資金の給付も考慮する必要があります。
また、現役時代に負担が軽減されることと、将来の年金が減ることでは、お金を受け取る時期が異なります。
現在の資金と将来の資金を比較する際には、時間的な価値の違いも考える必要があります。
単純な累計額の比較は、制度を理解するための出発点にすぎません。
企業年金の積立額をどう評価するか
今回の例では、毎月3万円を20年間積み立てるため、掛け金の累計は720万円になります。
この720万円と厚生年金の減額を単純に比較し、企業年金の方が圧倒的に有利だと判断することは適切ではありません。
なぜなら、企業年金に振り替えなければ、その3万円は給与として受け取れた金額だからです。
選択制企業年金の比較では、加入した場合と加入しなかった場合の両方を考える必要があります。
加入しなかった場合には、給与として受け取った資金を生活費に使うことも、自分で貯蓄や投資に回すこともできます。
加入した場合には、企業年金として老後資金を確保できる一方、原則として制度の給付条件に従って受け取ることになります。
したがって、720万円の積立額をすべて追加的な利益と考えることはできません。
本来比較すべきなのは、企業年金として積み立てた場合と、給与として受け取って自分で管理した場合の税引後の経済的価値です。
その上で、公的年金の減少や社会保険給付への影響を加味する必要があります。
所得税と住民税の軽減効果
選択制企業年金では、給与として受け取る金額が減ることによって、所得税や住民税の負担が軽くなる場合があります。
企業年金の事業主掛金は、通常、拠出時に従業員の給与所得として課税されません。
そのため、給与として受け取る場合と比較すると、拠出時点の税負担が軽減される可能性があります。
ただし、給与所得控除や社会保険料控除、各種所得控除との関係によって、実際の税負担の変化は異なります。
さらに、企業年金から給付を受け取る際には、受取方法などに応じて課税関係が生じます。
一時金として受け取る場合には退職所得として扱われることがあり、年金として受け取る場合には公的年金等に係る雑所得となることがあります。
受給時の課税まで含めて考えなければ、税制上の有利不利を正しく判断できません。
社会保険給付への影響も重要
選択制企業年金で標準報酬月額が下がる場合、老齢厚生年金以外の給付にも影響する可能性があります。
代表的なものが、健康保険の傷病手当金と出産手当金です。
これらは、原則として支給開始日以前の一定期間の標準報酬月額を基礎に計算されます。
そのため、標準報酬月額が低くなれば、給付額も減少する可能性があります。
また、障害厚生年金や遺族厚生年金の報酬比例部分にも影響する場合があります。
社会保険は、単に保険料を納める制度ではありません。
老後だけでなく、病気、出産、障害、死亡といった生活上のリスクに備える制度です。
保険料の軽減を検討する場合には、その裏側にある保障の変化も確認する必要があります。
従業員ごとに異なる有利不利
選択制企業年金の評価は、すべての従業員で同じになるわけではありません。
例えば、30代の従業員は積立期間を長く確保できる一方、標準報酬月額が下がる期間も長くなる可能性があります。
50代の従業員は定年までの積立期間が短いため、退職時の給付条件や既存の退職金制度との関係が重要になります。
また、子育て世代では出産手当金などへの影響が、住宅ローンを抱える世帯では毎月の手取り収入の減少が重要になる場合があります。
企業年金への加入を検討する際には、年齢、家族構成、所得水準、退職予定時期、既存の資産などを総合的に考える必要があります。
制度があるから加入するのではなく、自分の生活設計に適しているかを判断することが大切です。
企業に求められる説明責任
選択制企業年金を導入する企業には、制度のメリットとデメリットを従業員に正確に説明する責任があります。
特に、社会保険料の軽減効果だけを強調する説明には注意が必要です。
従業員が確認すべきなのは、現在の手取り給与、社会保険料、税負担、将来の厚生年金、企業年金の給付条件などです。
加入前後の比較資料を用意し、従業員が自分で判断できる環境を整えることが望まれます。
また、給与制度の変更を伴う場合には、労働条件の不利益変更に関する問題にも注意が必要です。
企業年金の導入は、単なる社会保険料削減策ではありません。
従業員の生涯所得と生活保障に関わる重要な人事・労務施策です。
結論
選択制企業年金は、給与の一部を老後資金として積み立てながら、社会保険料や税金の負担を軽減できる可能性がある制度です。
一方で、標準報酬月額が下がる場合には、将来の老齢厚生年金や病気・出産時の社会保険給付が減少する可能性があります。
給与40万円から3万円を企業年金に振り替える例では、厚生年金保険料の本人負担が年間約3万3,000円軽減される一方、同じ状態が20年間続けば、将来の老齢厚生年金は年額約3万9,000円減少するという概算になりました。
ただし、制度の有利不利は、この2つの数字だけでは決まりません。
企業年金の給付内容、健康保険料や税負担の変化、退職時の受取方法、加入しなかった場合の資産形成などを総合的に比較する必要があります。
税理士・FPの視点から特に重要なのは、目先の負担軽減と生涯の所得保障を分けて考えることです。
人生100年時代の老後資金形成では、現在の社会保険料を減らすことだけでなく、将来にわたって安定した所得を確保することが重要です。
選択制企業年金は、制度の仕組みとリスクを十分に理解した上で、自分のライフプランに適しているかを判断する必要があります。
参考
日本経済新聞 2026年11月2日 朝刊
「給与削る確定給付年金、厚労省『社員に説明』要請へ 公的年金減る恐れ」
厚生労働省「確定給付企業年金制度」
厚生労働省「社会保障審議会企業年金・個人年金部会」
日本年金機構「厚生年金保険の保険料」
日本年金機構「報酬比例部分」