社会保険料の負担が重くなる中、給与から差し引かれる保険料を少しでも減らしたいと考える人は少なくありません。
企業にとっても、社会保険料は人件費の重要な構成要素です。
こうした中、給与の一部を企業年金の掛け金に振り替える「選択制企業年金」が注目されています。
選択制企業年金では、給与として受け取る金額が減少することで、所得税や住民税、社会保険料の負担が軽減される場合があります。
しかし、社会保険料の軽減には、将来の社会保障給付が減少するという側面があります。
厚生労働省は、選択制の確定給付企業年金について、従業員にこうした不利益を説明するよう事業主に求める方針です。
社会保険料を減らすことは、本当に得なのでしょうか。
この問題を考えるには、現在の手取り給与だけでなく、将来の公的年金、病気や出産時の保障、企業年金の給付などを含めて判断する必要があります。
人生100年時代における社会保険料と老後資金形成の関係を、生涯所得と社会保障の視点から整理します。
社会保険料は単なる負担ではない
社会保険料は、給与から毎月差し引かれるため、家計にとって負担として認識されやすいものです。
しかし、社会保険料は単なる税金や費用ではありません。
健康保険や厚生年金保険などの社会保障制度を支える財源として重要な役割を果たしています。
健康保険には、医療費の自己負担を軽減する仕組みに加え、病気やけがで働けなくなった場合の傷病手当金などがあります。
厚生年金保険には、老後の所得を支える老齢厚生年金だけでなく、障害厚生年金や遺族厚生年金があります。
つまり、社会保険料は現在の医療保障と将来の所得保障を支える仕組みの一部です。
保険料を減らすことだけを目的にすると、こうした保障の価値を見落とす可能性があります。
社会保険料の軽減が生じる仕組み
会社員の健康保険料や厚生年金保険料は、原則として標準報酬月額などを基礎として計算されます。
標準報酬月額とは、毎月の給与などを一定の等級に区分した金額です。
選択制企業年金では、給与の一部を企業年金の掛け金に振り替えることによって、社会保険上の報酬が減少する場合があります。
例えば、毎月の報酬が40万円の従業員が、3万円を企業年金の掛け金に振り替える場合を考えます。
厚生年金の標準報酬月額が41万円から38万円に下がると仮定すると、標準報酬月額の差は3万円です。
厚生年金保険料の本人負担割合は9.15%であるため、月額2,745円の負担軽減となります。
年間では3万2,940円です。
ただし、実際の軽減額は標準報酬月額の等級や給与の状況によって異なります。
また、給与を減額しても標準報酬月額の等級が変わらない場合には、保険料が軽減されないこともあります。
現在の負担軽減と将来の給付減少
社会保険料の軽減を評価する際には、現在の負担軽減と将来の給付減少を比較する必要があります。
例えば、標準報酬月額が3万円低い状態が20年間続いた場合を考えます。
厚生年金保険料の本人負担軽減額は、単純計算で次のようになります。
2,745円×12カ月×20年=65万8,800円
一方、老齢厚生年金の報酬比例部分は、標準報酬月額などを基礎として計算されます。
2003年4月以降の加入期間について、基本的な計算式を簡略化すると、次のようになります。
3万円×5.481÷1,000×240カ月=約3万9,463円
将来の老齢厚生年金が、年額約3万9,000円減少する計算です。
65歳から85歳まで20年間受給すると、減額累計は約79万円になります。
65歳から95歳まで30年間受給すると、約118万円です。
この試算では、年金額の改定や再評価率などを考慮していません。
それでも、社会保険料の軽減効果を考える際には、将来の年金減額を無視できないことが分かります。
長生きするほど年金の価値は高まる
公的年金の大きな特徴は、原則として生涯にわたって支給されることです。
預貯金や投資信託などの金融資産は、取り崩すことで残高が減少します。
一方、公的年金は、受給要件を満たしている限り、生存中は継続して支給されます。
そのため、長生きするほど、公的年金の累計受給額は大きくなります。
例えば、老齢厚生年金が年額4万円減少した場合、20年間では80万円、30年間では120万円の差になります。
もちろん、実際に何歳まで生きるかを事前に予測することはできません。
また、将来の年金額は制度改正や物価、賃金の動向などによって変化します。
それでも、公的年金には長寿リスクに備える重要な役割があります。
社会保険料の軽減によって将来の年金が減少する場合には、この生涯にわたる所得保障の価値を考慮する必要があります。
病気や障害への保障も重要
社会保険料の軽減による影響は、老齢厚生年金だけではありません。
健康保険の傷病手当金は、原則として支給開始日以前の継続した12カ月間の標準報酬月額の平均額を基礎として計算されます。
そのため、標準報酬月額が下がると、傷病手当金も減少する可能性があります。
また、出産手当金についても、標準報酬月額を基礎として計算されます。
さらに、障害厚生年金や遺族厚生年金の報酬比例部分にも影響する場合があります。
病気や障害、死亡といった事態は、発生時期を予測できません。
そのため、社会保険料の軽減を判断する際には、老後の年金だけでなく、現役時代の生活保障も考慮する必要があります。
特に、家族の生活を支える立場にある人にとって、障害年金や遺族年金の価値は重要です。
企業年金の積立額をどう評価するか
選択制企業年金では、給与の一部を掛け金に振り替えるため、企業年金として資金が積み立てられます。
例えば、毎月3万円を20年間積み立てた場合、掛け金累計は720万円です。
ただし、この720万円をすべて追加的な利益と考えることは適切ではありません。
企業年金に加入しなければ、原則として給与として受け取り、自分で貯蓄や投資に回すこともできるためです。
企業年金の有利不利を判断する際には、加入した場合と加入しなかった場合を比較する必要があります。
比較すべきなのは、企業年金の将来給付額、給与として受け取った場合の税引後資金、社会保険料の差、将来の公的年金の差などです。
また、企業年金の給付条件や受給時の税負担も考慮する必要があります。
企業年金の積立額だけを見て、制度が有利であると判断することはできません。
税金の軽減と社会保障の減少を区別する
選択制企業年金では、所得税や住民税の負担が軽減される場合があります。
これは、給与として課税される金額が減少することなどによるものです。
一方、社会保険料の軽減は、標準報酬月額が下がることによって生じる場合があります。
両者は、家計の負担を軽減するという点では共通していますが、仕組みが異なります。
所得税や住民税の軽減は、原則として税負担の減少です。
一方、社会保険料の軽減は、将来の社会保障給付の減少を伴う場合があります。
そのため、税金と社会保険料をまとめて節約額として表示するだけでは、制度の実態を十分に説明したことにはなりません。
企業年金の加入を判断する際には、税負担の軽減と社会保険料の軽減を区別して考えることが重要です。
企業側の負担軽減と従業員の利益
選択制企業年金では、企業側の社会保険料負担も軽減される場合があります。
例えば、厚生年金の標準報酬月額が3万円下がった場合、企業側の厚生年金保険料も月額2,745円軽減されます。
従業員数が多い企業では、年間の負担軽減額が大きくなる可能性があります。
しかし、企業側の負担軽減と従業員の利益は、必ずしも一致しません。
企業が社会保険料を削減できても、従業員の将来の厚生年金や社会保険給付が減少する場合があります。
そのため、企業年金を導入する際には、企業の費用削減だけでなく、従業員の生涯所得と生活保障を考慮する必要があります。
企業年金は、本来、従業員の老後所得を充実させるための制度です。
社会保険料の削減だけを目的として制度を導入することには慎重さが求められます。
生涯所得で比較する重要性
社会保険料の軽減が有利かどうかを判断する際には、生涯所得という視点が重要です。
生涯所得とは、現役時代の給与や退職金、企業年金、公的年金などを含めた長期的な所得のことです。
例えば、現在の手取り給与が増加しても、将来の厚生年金が減少する場合には、生涯全体で見た利益は小さくなる可能性があります。
一方、企業年金として積み立てた資金が将来の生活を支える場合には、その効果も考慮する必要があります。
また、将来の税負担や医療保険料、介護保険料なども重要です。
生涯所得の比較では、現在の負担軽減額だけでなく、将来の受取額や支出を含めた試算が必要になります。
ただし、将来の運用利回りや年金額、税制などには不確実性があります。
そのため、一つの試算結果だけで判断せず、複数の条件を設定して比較することが望まれます。
制度選択で重視すべき判断基準
選択制企業年金への加入を検討する際には、自分の年齢や家族構成、所得水準、退職時期などを考慮する必要があります。
若い世代では、企業年金の積立期間が長くなる一方、標準報酬月額の低下による公的年金への影響も長期間に及ぶ可能性があります。
50代・60代では、積立期間が短くなるため、退職金との関係や受給時の税負担が重要になります。
また、住宅ローンや教育費などの支出が多い世帯では、現在の生活資金を確保する必要があります。
企業年金に積み立てた資金は、原則として制度の規約に従って給付されるため、必要なときに自由に引き出せるとは限りません。
そのため、企業年金への加入を検討する際には、税制優遇や社会保険料の軽減だけでなく、資金の流動性も確認する必要があります。
公的年金と私的年金の役割分担
人生100年時代の老後資金形成では、公的年金と私的年金の役割を分けて考えることが重要です。
公的年金は、生涯にわたる所得保障の基礎です。
企業年金やiDeCoは、公的年金を補完するための制度です。
NISAや預貯金などは、必要に応じて資金を取り崩すための金融資産として活用できます。
それぞれの制度には異なる特徴があります。
公的年金には長寿リスクへの対応という強みがあります。
企業年金やiDeCoには、老後資金を計画的に積み立てられる特徴があります。
NISAには、運用益の非課税と資金の流動性という特徴があります。
これらを適切に組み合わせることが、老後生活の安定につながります。
税理士・FPの視点から考える最適解
税理士・FPの視点から重要なのは、社会保険料の軽減を単独の目的にしないことです。
社会保険料は、現在の医療保障や将来の所得保障を支える仕組みです。
そのため、保険料の軽減によって将来の給付が減少する場合には、その影響を十分に理解する必要があります。
また、企業年金の税制優遇や積立効果についても、受給時の税負担や資金の引き出し条件まで含めて評価することが重要です。
さらに、企業年金に加入しなかった場合に、給与として受け取った資金をどのように活用できるかも比較する必要があります。
企業年金、iDeCo、NISA、公的年金を組み合わせ、自分の生活設計に合った資産形成を進めることが望まれます。
最適な制度選択は、すべての人に共通するものではありません。
年齢、家族構成、所得水準、退職時期、資産状況などによって異なります。
結論
社会保険料を減らすことは、現在の家計や企業の負担を軽減する効果があります。
しかし、社会保険料の軽減が、必ずしも生涯全体の利益につながるとは限りません。
選択制企業年金では、給与の一部を企業年金の掛け金に振り替えることで、税金や社会保険料の負担が軽減される場合があります。
一方、標準報酬月額が下がる場合には、将来の老齢厚生年金や傷病手当金、障害厚生年金、遺族厚生年金などが減少する可能性があります。
また、企業年金として積み立てた資金についても、給与として受け取った場合との比較が必要です。
税理士・FPの視点から重要なのは、現在の手取り給与だけでなく、生涯所得と社会保障の価値を総合的に評価することです。
公的年金を老後生活の基礎とし、企業年金やiDeCo、NISAなどを適切に組み合わせることが重要です。
人生100年時代の資産形成では、社会保険料をどれだけ減らせるかではなく、生涯にわたってどれだけ安定した生活を確保できるかを判断基準にすることが重要です。
社会保険料の軽減は一つの選択肢ですが、その裏側にある保障の価値を理解した上で判断することが、長期的な生活の安定につながります。
参考
日本経済新聞 2026年11月2日 朝刊
「給与削る確定給付年金、厚労省『社員に説明』要請へ 公的年金減る恐れ」
厚生労働省「確定給付企業年金制度」
厚生労働省「社会保障審議会企業年金・個人年金部会」
日本年金機構「老齢厚生年金の受給要件・支給開始時期・年金額」
日本年金機構「厚生年金保険の保険料」
全国健康保険協会「傷病手当金」
金融庁「NISAを知る」