スポーツ政策というと、これまでは学校体育や競技スポーツ、地域スポーツなどを思い浮かべる人が多かったのではないでしょうか。
ところが、スポーツ政策の対象が大きく変わろうとしています。
スポーツ庁は2027年度から、従業員の運動習慣づくりに取り組む企業への財政支援を始める方針です。
企業が従業員向けのスポーツイベントや体力測定などを実施した場合、都道府県を通じて補助金を出すことが検討されています。
背景にあるのは、単なる健康増進ではありません。
働く人の健康を維持することで、生産性を高め、離職を防ぎ、さらに健康寿命を延ばして長く働ける社会をつくるという経済政策としての意味があります。
運動による経済効果は年間12兆円を超えるとの試算もあります。
これから企業にとって、社員の運動は福利厚生ではなく、人材への投資という位置付けになっていく可能性があります。
2027年度から企業のスポーツ活動を財政支援
政府が決定した経済財政運営と改革の基本方針、いわゆる骨太の方針には、企業によるスポーツ推進を支援する方向性が盛り込まれています。
これを受けてスポーツ庁は、2027年度から企業への財政支援を始める方針です。
想定されているのは、従業員を対象としたスポーツイベントや体力測定などです。
ポイントは、企業が従業員の健康管理をすることについて、国が経済的な価値を認め始めていることです。
従来、社員の運動は福利厚生の一環として考えられることが少なくありませんでした。
しかし、人手不足が深刻になる日本では、社員が健康で長く働けること自体が企業の競争力になります。
スポーツ政策と雇用政策、健康政策、経済政策が接近していると考えることができます。
なぜ国が会社員の運動を支援するのか
背景には、現役世代の運動不足があります。
スポーツ庁の2025年度調査では、週1回以上運動する人の割合は、30代から50代の男性で約50パーセント、女性では40パーセントから45パーセント程度でした。
ほかの世代より1割から2割ほど低くなっています。
30代から50代といえば、多くの人にとって仕事の中心を担う時期です。
一方で、仕事だけでなく家事や育児なども重なりやすく、運動する時間を確保することが難しい年代でもあります。
そこで国が注目しているのが職場です。
個人に対して休日に運動してくださいと呼びかけるだけでは限界があります。
職場そのものに運動する仕組みをつくれば、これまで運動習慣のなかった人にも働きかけることができます。
勤務先がスポーツ実施に取り組んでいるとの回答は現在2割程度ですが、スポーツ庁は財政支援などを通じて3割以上へ高めたい考えです。
運動による経済効果は年間12兆6000億円
企業へのスポーツ支援で特に興味深いのが、その経済効果です。
筑波大学大学院の久野譜也教授が2025年度に行った試算では、1日8000歩のウオーキングなどの運動を実施することによって、大きな経済効果が期待できるとされています。
体力向上による疲労軽減では年間約500億円。
メンタル不調の改善では年間約1200億円。
さらに医療費や介護費について年間約3兆5000億円の削減効果が期待されています。
しかし、最も大きいのは別の部分です。
健康寿命が延びることで働ける期間が長くなれば、年間8兆円を超える経済効果が期待できるというのです。
これらを合計すると年間約12兆6000億円になります。
スポーツをする人が増えることは、単純に医療費を減らすだけではありません。
健康な人が長く働けることによって、日本経済そのものの供給力を高める可能性があります。
健康寿命の延伸が最大の経済政策になる
日本では今後、生産年齢人口の減少が続きます。
人口そのものを短期間で増やすことはできません。
そのため重要になるのが、一人ひとりが健康に働ける期間を延ばすことです。
たとえば60歳まで健康に働ける人が65歳まで働けるようになれば、労働力は5年間増えます。
さらに70歳まで働ける人が増えれば、その効果は一段と大きくなります。
高齢者の就業を考える場合、定年制度や賃金制度だけを改革しても十分ではありません。
働きたいと思っていても、健康上の理由から働けなければ就業期間を延ばすことはできないからです。
労働政策研究・研修機構の調査では、55歳以上の就業希望者が仕事に就けなかった理由の約4割を、自身または家族の健康問題が占めています。
健康寿命を延ばすことは社会保障政策であると同時に、労働政策でもあるわけです。
社員の運動は福利厚生から人的資本投資へ
企業側の考え方も変わる可能性があります。
これまでもスポーツジムの利用補助や社内運動会などを実施する企業はありました。
ただし、それらは福利厚生費という位置付けで考えられることが一般的でした。
これからは違います。
社員が健康になることで、病欠が減る。
集中力が高まる。
メンタル不調が減る。
離職率が低下する。
長期間働けるようになる。
採用競争力が高まる。
こうした効果まで考えれば、スポーツ関連費用は人的資本への投資と捉えることができます。
重要なのは、単にスポーツイベントを開催することではありません。
実施した結果として、運動習慣や欠勤率、離職率などがどのように変化したのかを企業が把握することです。
将来的には、スポーツへの支出についても投資対効果を測定する企業が増えるかもしれません。
業務時間内に運動するという発想
特に注目したいのが、運動する時間をどこから生み出すのかという問題です。
現役世代が運動しない理由の一つは、時間がないことです。
仕事を終えてから運動してくださいというだけでは、なかなか定着しません。
そこで考えられるのが、運動を仕事の外側に置くのではなく、働き方そのものに組み込む方法です。
記事で紹介されている運送会社では、月1回、ヨガやダンスなどを業務時間内に実施しています。
トラックの中でも簡単にできる体操を広めた結果、ドライバーの病欠が減ったといいます。
これは興味深い事例です。
30分運動することで、その日の労働時間は30分短くなるかもしれません。
しかし、その結果として病欠や離職が減り、長期的な生産性が高まるのであれば、企業全体ではプラスになる可能性があります。
労働時間の長さだけで生産性を考える時代から、健康な状態でどれだけ質の高い仕事を続けられるかを考える時代への転換ともいえます。
健康経営が採用競争力にもなる
社員の健康への取り組みは、人材採用にも影響し始めています。
人手不足が深刻になるほど、求職者は給与だけで企業を選ばなくなります。
働き方や休暇制度、職場環境、健康への配慮なども企業選びの重要な条件になります。
企業が社員の健康を大切にしていること自体が、一つの採用ブランドになる可能性があります。
特に高齢化が進む業界では重要です。
若い人材を大量に採用することが難しければ、現在働いている社員にできるだけ長く健康に働いてもらう必要があります。
採用して補充する経営から、社員が辞めずに長く働ける経営への転換です。
スポーツ推進は、そのための手段の一つになり得ます。
補助金だけでは運動習慣は定着しない
もっとも、国が補助金を出せば問題が解決するわけではありません。
企業が一度だけスポーツイベントを開催し、それで終わってしまえば運動習慣は定着しません。
重要なのは継続性です。
大規模なイベントよりも、毎日少し歩く、階段を利用する、短時間の体操をする、体力測定によって自分の状態を知るといった小さな行動を続けられる仕組みの方が効果的な場合もあります。
企業側にも工夫が求められます。
また、運動を事実上強制するような制度にならないことも重要でしょう。
年齢や体力、健康状態は人によって異なります。
全員に同じ運動を求めるのではなく、それぞれが無理なく参加できる仕組みにする必要があります。
企業の健康投資が社会保障にもつながる
企業によるスポーツ推進には、もう一つ大きな意味があります。
医療費や介護費の抑制です。
日本では高齢化によって社会保障費の増加が続いています。
病気になってから治療することだけでなく、病気になる前の予防へ資金を振り向けることが重要になります。
企業が現役世代のうちから社員の運動習慣をつくれば、その効果は退職後にも続く可能性があります。
つまり、企業の健康投資によって企業自身が利益を受けるだけではありません。
将来の医療費や介護費が抑制されれば、社会全体にも利益が及びます。
国が企業のスポーツ活動へ補助金を投入しようとしている理由も、こうした外部効果まで考えると理解しやすくなります。
結論
2027年度から検討されているスポーツ推進企業への財政支援は、単なるスポーツ振興策ではありません。
その背景には、人口減少社会において、健康な人ができるだけ長く働ける環境をつくるという大きな政策課題があります。
運動によって期待される経済効果は年間約12兆6000億円と試算され、その中でも特に大きいのが健康寿命の延伸による就労期間の拡大です。
これまで企業にとって社員のスポーツは福利厚生という意味合いが強いものでした。
しかし、人手不足が恒常化する社会では、社員の健康そのものが重要な経営資源になります。
社員の運動にお金と時間を使うことは、コストではなく人的資本への投資である。
今回の政策は、そうした企業経営への転換を国が後押しするものと見ることができます。
企業が人を採用して使うだけではなく、健康を維持しながら長く働いてもらう時代へ。
スポーツ政策はこれから、健康政策だけでなく、日本の労働力と経済成長を支える政策として重要性を増していくのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年8月13日朝刊 スポーツ推進企業に支援