退職時にまとまった退職金を受け取るのではなく、その原資を現役時代の給与や賞与として受け取る。日本企業で、こうした処遇制度への転換が進み始めています。
王子ホールディングスは、2026年春以降に入社する社員の退職金を廃止し、その原資を給与の引き上げに充てる方針を採用しました。丸紅も、退職給付の一部を賞与に合わせて前払いする仕組みを導入しています。
企業にとっては、若手社員の待遇を改善し、優秀な人材を確保しやすくする狙いがあります。
従業員にとっても、住宅購入や子育てなど、資金需要が大きい現役時代に収入が増えることは魅力です。
しかし、税理士・FPの視点から見逃せない問題があります。
それは、同じ金額でも退職金として受け取る場合と給与として受け取る場合では、税金や社会保険料の負担が大きく異なることです。
退職金の前払いは、本当に従業員にとって有利なのでしょうか。
退職金と給与では税金の計算方法が異なる
退職金と給与は、所得税法上、原則として異なる所得区分に分類されます。
通常の退職一時金は退職所得、毎月の給与や賞与は給与所得です。
給与所得は、年間の給与収入から給与所得控除を差し引き、他の総合課税所得と合算したうえで、所得控除を適用して税額を計算します。
一方、一般的な退職一時金は、退職所得控除を差し引き、原則として残額の2分の1を課税対象とします。
さらに、退職所得は原則として他の所得と分離して課税されます。
この仕組みによって、退職金には給与よりも税負担が軽くなる場合が多いという特徴があります。
ただし、短期退職手当等や特定役員退職手当等には、2分の1課税の制限があります。
退職金として支払われるという名称だけで税制上の優遇が認められるわけではなく、支給の実態や法令上の要件も重要です。
勤続35年で退職金2,000万円を受け取る場合
具体的な金額で考えてみます。
勤続35年の会社員が、定年退職時に2,000万円の退職一時金を受け取るケースです。
退職所得控除は、勤続年数20年以下の部分について1年当たり40万円、20年を超える部分について1年当たり70万円です。
勤続35年の場合、退職所得控除額は次のようになります。
800万円+70万円×15年=1,850万円
退職金2,000万円から退職所得控除1,850万円を差し引くと、150万円が残ります。
一般的な退職手当等では、その2分の1が課税退職所得金額となります。
150万円×1/2=75万円
課税退職所得金額75万円に対する所得税は、復興特別所得税を含めて約3万8,000円です。
住民税の所得割は、概算で7万5,000円となります。
したがって、退職金2,000万円に対する所得税・住民税の合計は約11万3,000円です。
税引後の受取額は約1,989万円となります。
これは、他の退職手当等との重複調整がなく、一般的な退職所得課税が適用される場合の概算です。
退職金2,000万円に対して税負担が約11万円にとどまることから、長期勤続者にとって退職所得控除が大きな効果を持つことが分かります。
同じ2,000万円を給与として受け取る場合
次に、退職金2,000万円に相当する金額を、20年間にわたって給与として前払いする場合を考えます。
2,000万円÷20年=年間100万円
毎月に換算すると約8万3,000円です。
この100万円は、通常の給与所得として課税されます。
例えば、もともとの年間給与が700万円で、前払いによって800万円になる場合を想定します。
この場合、追加の100万円に対して給与所得控除、所得税、住民税、社会保険料などの影響が生じます。
所得税は累進税率であるため、給与水準が高い人ほど追加収入に対する税負担が大きくなる場合があります。
また、給与所得控除は収入に応じて計算されるため、追加の100万円がそのまま課税所得100万円の増加になるとは限りません。
社会保険料についても、標準報酬月額の等級や上限、賞与として支給されるかどうかなどによって負担額が異なります。
したがって、給与前払いによる正確な手取り額は、個人ごとの条件を設定して計算する必要があります。
それでも、退職金として一括受給する場合と比べ、給与前払いでは税金や社会保険料の負担が大きくなる可能性があります。
給与前払いによる手取り額の具体例
ここでは、税金と社会保険料を合わせた追加負担率を仮に30%と設定します。
これは説明のための仮定であり、実際の税率や社会保険料率を示すものではありません。
年間100万円の給与前払いを受ける場合、追加負担が30万円であれば、手取り増加額は70万円です。
20年間では、次のようになります。
70万円×20年=1,400万円
一方、先ほどの勤続35年、退職金2,000万円の例では、税引後の受取額は約1,989万円でした。
両者の差額は約589万円です。
ただし、この比較は単純化したものです。
給与前払いでは、資金を早く受け取って運用できるメリットがあります。
また、社会保険料の増加が将来の厚生年金額に反映される場合もあります。
一方、退職金の支給額や前払い給与の総額が完全に一致するとは限りません。
そのため、約589万円という差額は制度変更による実際の損失額ではなく、受取方法による負担の違いを理解するための試算です。
社会保険料の負担増加という見落としやすい問題
退職金と給与の違いを考える際には、社会保険料も重要です。
通常の退職一時金は、健康保険や厚生年金保険の保険料算定対象にはなりません。
一方、給与や賞与として支給される金額は、原則として社会保険料の算定対象となります。
そのため、退職金の原資を給与に移すと、従業員と企業の双方に社会保険料の追加負担が生じる可能性があります。
ただし、厚生年金保険や健康保険には標準報酬月額の上限があり、賞与にも保険料算定上の上限があります。
すでに上限に達している場合などには、給与が増えても保険料が比例して増えるとは限りません。
また、厚生年金保険料の負担増加は、将来の老齢厚生年金の受給額に反映される場合があります。
社会保険料を単なる負担増として考えるのではなく、将来の給付への影響も含めて検討する必要があります。
前払い給与を運用することで差額を埋められるか
退職金の前払いには、現役時代から資産形成できるというメリットがあります。
例えば、年間70万円の手取り増加額を20年間、毎年末に積み立てるとします。
運用益がなければ、20年間の積立額は1,400万円です。
仮に年率3%で複利運用できた場合、20年後の資産額は約1,881万円となります。
年率5%で運用できた場合には、約2,315万円です。
この試算では、税金や運用手数料を考慮しておらず、毎年一定の利回りが得られると仮定しています。
実際には、金融市場の変動によって運用成果が変わり、元本割れが生じる可能性もあります。
それでも、前払い給与を計画的に積み立てれば、将来の老後資金を形成できることが分かります。
重要なのは、増えた給与をすべて消費するのではなく、将来のために一定額を確保することです。
NISAとiDeCoの活用による税制上の工夫
退職金の前払いによって給与が増える場合には、NISAやiDeCoを活用した資産形成も検討できます。
NISAでは、対象となる金融商品の運用益が非課税になります。
給与として受け取った後の資金を投資するため、給与そのものに課される所得税や住民税が非課税になるわけではありません。
一方、iDeCoでは、本人が拠出した掛金が原則として全額所得控除の対象となります。
そのため、加入資格や掛金上限の範囲内であれば、所得税・住民税の負担軽減につながる可能性があります。
ただし、iDeCoは原則として60歳まで引き出せず、受取時には退職所得控除や公的年金等控除との関係を確認する必要があります。
また、企業型DCの事業主掛金と本人が給与から拠出する掛金では、税制や社会保険料の取り扱いが異なります。
退職金の前払いを受ける場合には、給与、企業年金、NISA、iDeCoを一体として設計することが重要です。
企業側にも生じる制度改革のコスト
退職金の前払いは、企業にとっても単純な制度変更ではありません。
退職給付の原資を給与や賞与に移す場合、企業負担の社会保険料が増える可能性があります。
また、退職給付制度の廃止や縮小に伴い、既存従業員への経過措置、労使協議、退職給付債務の会計処理なども検討する必要があります。
一方、退職給付債務の将来負担を抑制できることや、若手社員への給与配分を増やせることは、企業にとってメリットとなります。
ただし、将来の退職金負担を減らす代わりに、現在の人件費や社会保険料負担が増える可能性もあります。
企業は、従業員の手取り額だけでなく、総人件費、採用競争力、財務への影響を総合的に判断する必要があります。
結論
退職金の原資を現役時代の給与や賞与として前払いする制度は、企業と従業員の双方に新しい選択肢をもたらします。
若い時期から収入が増えれば、住宅購入、子育て、自己投資、資産形成などに活用できます。
一方、退職金として受け取る場合には、退職所得控除や2分の1課税などの税制上の優遇があります。
勤続35年で退職金2,000万円を受け取る例では、所得税・住民税の合計が約11万円にとどまる場合があります。
同じ金額を給与として前払いする場合には、所得税、住民税、社会保険料の負担が生じるため、額面が同じでも手取り額は異なります。
ただし、前払い給与には早期に資金を受け取り、長期間運用できるメリットもあります。
したがって、退職金の前払いが有利かどうかは、税金や社会保険料だけで判断することはできません。
人生100年時代には、退職時にまとまった資金を受け取ることだけが老後資金形成の方法ではなくなっています。
重要なのは、受取時期、税負担、運用期間、資金需要を総合的に考え、生涯を通じた手取り収入と資産形成のバランスを取ることです。
退職金の前払い制度が広がる時代だからこそ、企業が提示する額面の給与だけでなく、税引後の手取り額と将来の老後資金まで見通した判断が求められます。
参考
日本経済新聞 2026/10/28 朝刊「三井住友信託銀行、退職金・年金の年功廃止 長く勤めても増額なし」
日本経済新聞 2026/10/28 朝刊「退職給付とは 大企業ほど充実、25%は制度なし」
国税庁「退職金を受け取ったとき(退職所得)」
国税庁「給与所得控除」
日本年金機構「厚生年金保険の保険料」
金融庁「NISAを知る」
国民年金基金連合会「iDeCo公式サイト」