日本のベンチャーキャピタルによる投資規模は、米国のわずか1.5%にとどまっています。
その背景には、ベンチャーキャピタル自身の資金力の不足があります。
日本には優れた技術を持つスタートアップが存在していますが、数十億円から数百億円規模の資金を供給できる国内ファンドは限られています。
一方、日本には年金基金や生命保険会社などが運用する巨額の金融資産があります。
これらの機関投資家は、長期的な資金運用を行う主体です。
米国では、年金基金や大学基金などがベンチャーキャピタルファンドへの重要な資金供給者となっています。
日本でも、こうした長期運用資金の一部をベンチャー投資に振り向けることができれば、スタートアップの成長資金を拡大できる可能性があります。
しかし、年金基金や生命保険会社には、将来の給付や保険金の支払いを確実に行う責任があります。
リスクの高い投資を無制限に増やすことはできません。
今回は、年金基金と生命保険会社の資金が日本のベンチャーキャピタル市場を育てる可能性と、その実現に必要な条件を考えます。
日本には巨額の長期運用資金が存在している
日本の金融市場には、家計、企業、金融機関などが保有する巨額の金融資産があります。
その中でも、年金基金や生命保険会社は長期的な資金運用を行う代表的な機関投資家です。
年金基金は、将来の年金給付に備えて資産を運用します。
生命保険会社は、契約者から受け取った保険料などを運用し、将来の保険金や給付金の支払いに備えます。
いずれも、短期的な資金需要だけでなく、長期的な負債や給付義務を考慮して資産を運用する必要があります。
この長期的な運用期間は、ベンチャー投資との親和性があります。
スタートアップは、研究開発から事業化、株式上場や企業売却まで長期間を要する場合があります。
特に核融合や創薬、宇宙開発などのディープテック企業では、投資資金の回収まで10年以上かかることもあります。
短期間で資金を回収する必要がある投資家には、こうした企業への投資は難しくなります。
一方、長期的な資産運用を行う機関投資家であれば、資金の一部を長期間運用することが可能な場合があります。
ただし、長期資金であることだけを理由に、ベンチャー投資が適していると判断することはできません。
資産と負債の期間構造、必要な流動性、運用リスクなどを総合的に考える必要があります。
米国では年金基金や大学基金がVC市場を支えている
米国のベンチャーキャピタル市場が大きい理由の一つは、機関投資家による資金供給です。
年金基金や大学基金、財団などが、ベンチャーキャピタルファンドに資金を提供しています。
これらの投資家は、上場株式や債券だけでなく、不動産、プライベートエクイティ、ベンチャーキャピタルなどにも資産を配分しています。
こうした投資は、一般にオルタナティブ投資と呼ばれます。
ベンチャーキャピタルは、上場株式や債券と比較して流動性が低く、企業価値の評価にも不確実性があります。
一方、投資先企業が大きく成長した場合には、高い投資収益を得られる可能性があります。
米国の機関投資家は、こうした特徴を理解したうえで、運用資産の一部をベンチャーキャピタルに配分しています。
また、長期間にわたってファンドへの出資を続けることで、運用会社との関係を構築し、投資実績を評価しています。
この仕組みによって、ベンチャーキャピタルは大型ファンドを組成しやすくなります。
大型ファンドが増えれば、スタートアップへの投資金額も拡大します。
そして、投資先企業が成長し、投資収益が得られれば、次のファンドへの資金供給につながります。
この資金循環が、米国のベンチャー投資市場を支える重要な要素になっています。
日本では年金基金からの資金供給が限定的だった
日本のベンチャーキャピタル市場では、銀行や事業会社などが主要な資金供給者となってきました。
経済産業省が公表した資料によると、2022年の日本のベンチャーキャピタルファンドへの出資者構成では、事業法人が31.7%、銀行や信用金庫などが16.9%でした。
これに対して、年金基金は6.6%にとどまっていました。
この数値は、当該調査におけるファンドへの出資者構成を示すものであり、日本の年金資産全体のうち6.6%がベンチャー投資に配分されているという意味ではありません。
それでも、日本のベンチャーキャピタル市場において、年金基金の存在感が限定的だったことを示しています。
背景には、複数の理由があります。
第一に、ベンチャー投資は流動性が低いことです。
第二に、投資先企業の価値を客観的に評価することが難しいことです。
第三に、ファンドの運用成績やリスクを分析するための専門人材が必要になることです。
第四に、日本のベンチャーキャピタル市場では、十分な長期運用実績を持つファンドが限られてきたことです。
年金基金が資金配分を拡大するためには、これらの課題を解決する必要があります。
年金基金には受託者責任がある
年金基金の資金をベンチャー投資に活用する議論では、受託者責任が重要になります。
年金基金は、加入者や受給者の利益のために資産を管理し、運用する責任を負っています。
したがって、日本のスタートアップを育成することが政策的に重要であっても、それだけを理由に年金資産を高リスクの投資へ振り向けることは適切ではありません。
年金基金の運用では、期待収益とリスクの関係を慎重に評価する必要があります。
例えば、ベンチャーキャピタルファンドへの投資によって高い収益が期待できるとしても、資金を長期間回収できない可能性があります。
また、投資先企業が失敗すれば、投資額の大部分を失うこともあります。
そのため、ベンチャー投資は運用資産全体の中で適切な割合にとどめ、他の資産との分散効果も検討する必要があります。
重要なのは、ベンチャー投資を特別扱いすることではありません。
年金基金の運用目的に照らして、合理的な投資対象として評価できる環境を整えることです。
そのためには、ファンドの運用成績や手数料、リスク管理体制などの透明性を高める必要があります。
生命保険会社には年金基金とは異なる制約がある
生命保険会社も、長期運用資金を持つ代表的な機関投資家です。
しかし、生命保険会社の資金運用には、年金基金とは異なる特徴があります。
生命保険会社は、保険契約者に対して将来の保険金や給付金を支払う義務を負っています。
そのため、資産運用では安全性、収益性、流動性のバランスが重要になります。
特に、長期の保険契約では、将来の支払時期や金額を見据えた資産と負債の総合管理が必要です。
この考え方は、一般に資産負債総合管理と呼ばれます。
生命保険会社が長期国債などを保有するのは、将来の保険金支払いに対応するためでもあります。
一方、ベンチャーキャピタルファンドへの投資では、投資資金の回収時期が不確実です。
また、投資先企業の業績によって資産価値が大きく変動する可能性があります。
したがって、生命保険会社がベンチャー投資を拡大する場合には、保険負債との関係や健全性規制を十分に考慮する必要があります。
ただし、すべての運用資産を国債などの低リスク資産に限定する必要があるわけではありません。
保険会社の財務健全性や負債特性に応じて、運用資産の一部を成長投資に配分することは検討できます。
重要なのは、保険契約者の利益を守ることと、長期的な運用収益を確保することを両立させることです。
ベンチャー投資の収益力が機関投資家の参入を左右する
年金基金や生命保険会社がベンチャー投資を拡大するためには、ファンドの運用収益力が重要です。
日本経済新聞が紹介した日英の共同調査によると、約10年前に組成された国内ベンチャーキャピタルファンドの投資回収倍率は0.99倍でした。
世界全体の1.1倍を下回っています。
ただし、この数値は調査対象や評価時点、未売却資産の取り扱いなどによって変わるため、日本のすべてのファンドの収益力を示すものではありません。
それでも、機関投資家がベンチャー投資を検討する際には、重要な判断材料になります。
ベンチャー投資は、上場株式や債券と比較して流動性が低く、運用管理にも専門性が必要です。
それにもかかわらず、十分な収益が期待できなければ、機関投資家が資金配分を拡大する合理性は低下します。
したがって、日本のベンチャーキャピタル市場を拡大するためには、政策的な資金供給だけでなく、ファンド自身の運用能力を高める必要があります。
投資先企業の発掘、企業価値評価、経営支援、資金回収などの能力が重要です。
機関投資家から資金を集めるためには、長期的な運用実績を積み重ね、信頼を獲得することが不可欠です。
ファンドの大型化が投資機会を広げる
機関投資家からの資金供給が増えれば、ベンチャーキャピタルファンドの大型化が期待できます。
例えば、100億円のファンドと1,000億円のファンドでは、1社に投資できる金額が大きく異なります。
100億円のファンドが1社に30億円を投資すれば、運用資産の30%が集中します。
一方、1,000億円のファンドであれば、30億円の投資は3%です。
大型ファンドほど、成長段階にある企業への大規模投資を実行しやすくなります。
また、ファンドの規模が大きくなれば、投資先企業への追加投資にも対応しやすくなります。
スタートアップは、創業初期だけでなく、事業拡大や海外進出の段階でも資金を必要とします。
既存の投資家が追加投資できれば、企業の成長を継続的に支援できます。
ただし、ファンドの大型化だけで高い投資収益が保証されるわけではありません。
資金が増えても、優れた投資先を発掘できなければ、運用効率が低下する可能性があります。
大型ファンドの育成と同時に、投資判断や経営支援の能力を高める必要があります。
日本のVC市場には透明性と情報開示が必要になる
機関投資家がベンチャーキャピタルファンドに出資する際には、運用状況を適切に把握できることが重要です。
上場株式であれば、市場価格によって資産価値を確認できます。
しかし、未上場企業の株式には日々の市場価格がありません。
そのため、企業価値の評価には一定の判断が必要になります。
また、投資先企業の業績や資金繰り、将来の成長可能性などについても、継続的な情報収集が必要です。
機関投資家が安心して資金を提供するためには、ファンドの運用会社が適切な情報開示を行う必要があります。
例えば、投資先企業の評価方法、ファンドの運用成績、手数料、利益相反の管理などです。
また、投資回収倍率だけでなく、投資期間を考慮した収益率や実際の資金分配状況なども重要になります。
こうした情報が整備されれば、機関投資家は複数のファンドを比較しやすくなります。
その結果、運用能力の高いベンチャーキャピタルに資金が集まりやすくなる可能性があります。
市場の透明性を高めることは、投資家保護だけでなく、ベンチャーキャピタル市場全体の競争力向上にもつながります。
長期資金の供給が日本の成長産業を変える可能性
年金基金や生命保険会社などからの資金供給が増えれば、日本のスタートアップ市場に大きな変化が生じる可能性があります。
第一に、ベンチャーキャピタルファンドの大型化が進みます。
第二に、核融合や宇宙、創薬など、長期間の研究開発を必要とする企業への投資が拡大する可能性があります。
第三に、成長段階にある企業への追加投資が容易になります。
第四に、海外資本だけに依存しない資金調達の選択肢が増えます。
第五に、投資収益が機関投資家へ還元されれば、次のファンドへの資金供給につながる可能性があります。
ただし、こうした好循環を実現するためには、ベンチャーキャピタル自身が十分な運用成果を生み出す必要があります。
年金基金や生命保険会社の資金を政策目的だけで誘導することは適切ではありません。
機関投資家が合理的な投資判断に基づいて資金を提供し、ベンチャーキャピタルがその期待に応える収益を実現することが重要です。
その結果として、日本の成長企業への資金供給が拡大する仕組みが望まれます。
結論
日本のベンチャーキャピタル市場を拡大するためには、年金基金や生命保険会社などの長期運用資金を活用することが重要な選択肢になります。
米国では、年金基金や大学基金などがベンチャーキャピタルファンドへの資金供給を通じて、スタートアップの成長を支えています。
一方、日本では銀行や事業会社などが主要な資金供給者となってきました。
今後、機関投資家からの資金供給が拡大すれば、ファンドの大型化やディープテック企業への長期投資が進む可能性があります。
しかし、年金基金や生命保険会社には、将来の給付や保険金の支払いを確実に行う責任があります。
そのため、スタートアップ育成という政策目的だけで、高リスクの投資を拡大することは適切ではありません。
重要なのは、ベンチャー投資を機関投資家にとって合理的な運用対象に育てることです。
そのためには、ファンドの収益力向上、透明性の高い情報開示、適切なリスク管理、専門人材の育成などが必要になります。
また、ファンドの大型化だけでなく、投資先企業の成長を支援する能力を高めることも欠かせません。
日本には長期運用が可能な金融資産が存在しています。
その資金をどのように成長企業へ結びつけるかが、今後の重要な課題です。
年金基金や生命保険会社の資金が、受益者や保険契約者の利益を守りながら、日本の成長産業にも資金を供給する仕組みを構築できれば、ベンチャーキャピタル市場の発展につながります。
長期資金を持つ機関投資家と、高い成長可能性を持つスタートアップを結びつける金融市場の整備こそ、日本の技術革新と経済成長を支える重要な条件になるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月27日朝刊「起業家が萎縮する『ゼロリスクルール』 日本のVC投資、米国の1.5%」
経済産業省 2024年6月24日「機関投資家からVCファンドに対する投資」
経済産業省 2022年3月「スタートアップの成長に向けたファイナンスに関するガイダンス」