日本の働き方と報酬制度が、大きな転換点を迎えています。
これまで多くの会社員にとって、働くことによって得られる報酬の中心は給与と賞与でした。企業の業績が向上すれば、昇給や賞与の増額によって成果が還元される仕組みです。
しかし、スタートアップ企業を中心に、給与だけではなく、企業価値の上昇による利益を従業員と分かち合う報酬制度が広がっています。
その代表的な仕組みがストックオプションです。
2025年に東京証券取引所へ新規上場した60社のうち、53社がストックオプションを導入していました。約88%という高い割合です。
ストックオプションは、あらかじめ決められた価格で自社の株式を取得できる権利です。企業が成長して株価が上昇すれば、従業員が大きな経済的利益を得られる可能性があります。
一方、企業が成長しなければ利益が生じない場合があり、株式を売却できないリスクもあります。
つまり、ストックオプションは単なる追加報酬ではなく、従業員が企業の成長に伴う利益とリスクの一部を共有する仕組みです。
人生100年時代には、60歳や65歳で仕事を終えるのではなく、70歳以降も専門知識や経験を生かして働く人が増える可能性があります。
こうした社会では、給与だけでなく、企業価値の成長を通じて資産形成を行う働き方も重要な選択肢になるでしょう。
今回は、ストックオプションを巡る10回シリーズの最終回として、給与中心の報酬制度から企業価値を分かち合う報酬制度への変化と、人生100年時代の働き方を考えてみます。
給与中心の報酬制度が抱える限界
日本企業では、長年にわたって給与と賞与が報酬制度の中心となってきました。
従業員は企業に労働力や専門知識を提供し、その対価として給与を受け取ります。
企業の業績が向上すれば、昇給や賞与によって成果が還元されることがあります。
しかし、給与中心の報酬制度では、企業価値の大幅な上昇による利益が従業員に十分に還元されない場合があります。
例えば、ある企業の企業価値が10億円から100億円に上昇した場合を考えます。
企業価値は10倍になっています。
しかし、従業員の給与が同じ割合で増加するとは限りません。
企業価値の上昇による利益は、主として株式を保有する株主に帰属します。
一方、従業員は企業価値の向上に貢献していても、給与や賞与の増加という形でしか成果を受け取れない場合があります。
こうした構造を補完する仕組みが株式報酬です。
ストックオプションによって従業員が株式を取得する機会を得れば、企業価値の上昇による利益を共有できる可能性があります。
ただし、給与は原則として労働の対価として支払われるのに対し、ストックオプションによる利益は企業の成長や株価の変動に左右されます。
両者は性質が異なるため、単純に置き換えることはできません。
ストックオプションが企業と従業員の関係を変える
ストックオプションの特徴は、企業の成長と従業員の経済的利益を結び付けることです。
例えば、1株100円で購入できるストックオプションを1万株分付与された従業員を考えます。
企業が成長し、株価が1株1,100円になった場合、権利行使価額との差額は1株当たり1,000円です。
1万株分では、1,000万円の利益を得られる可能性があります。
さらに企業価値が上昇すれば、利益が拡大する可能性があります。
この仕組みでは、従業員は給与を受け取るだけでなく、企業価値の向上による利益を得る機会を持つことになります。
そのため、企業の成長を自分自身の経済的な成果として意識しやすくなると考えられます。
一方、企業にとっても、従業員の長期的な勤務や企業価値向上への貢献を促す効果が期待できます。
ただし、ストックオプションを付与しただけで、従業員の意欲が必ず向上するわけではありません。
企業の将来性、権利確定条件、権利行使価額、株式の換金可能性などが重要になります。
また、従業員が企業の成長に貢献しても、金融市場の環境によって株価が下落する場合があります。
そのため、ストックオプションは成果を確実に分配する制度ではなく、企業価値の変動による利益とリスクを共有する制度として理解する必要があります。
スタートアップ企業の成長を支える報酬制度
ストックオプションが特に重要な役割を果たすのは、スタートアップ企業です。
創業間もない企業では、事業拡大や研究開発に多額の資金が必要です。
そのため、大企業と同水準の給与を提示することが難しい場合があります。
例えば、大企業で年収1,200万円を得ている専門人材を採用したい場合を考えます。
スタートアップ企業が提示できる給与が年収900万円であれば、年間300万円の差があります。
この差を補完する報酬として、ストックオプションを付与する方法があります。
企業が成長して株式上場やM&Aが実現すれば、従業員が大きな利益を得られる可能性があります。
しかし、企業が成長しなければ、ストックオプションの価値が失われることもあります。
そのため、従業員にとっては、安定した給与収入を減らして将来の不確実な利益を選択することになります。
企業側には、こうしたリスクを十分に説明する責任があります。
また、給与水準が低すぎれば、従業員の生活が不安定になる可能性があります。
ストックオプションは、適切な現金報酬を確保したうえで、企業の成長成果を共有する制度として活用することが望ましいでしょう。
企業価値の成長と株式の希薄化を両立する
ストックオプションを発行する場合、企業は株式の希薄化にも注意する必要があります。
例えば、発行済株式数が100万株の企業が、従業員向けに10万株分のストックオプションを発行した場合を考えます。
すべての権利が行使され、新株が発行されると、株式数は110万株になります。
既存株主の持分割合は、全体として約90.9%に低下します。
これが株式の希薄化です。
しかし、希薄化そのものが必ずしも企業価値の低下を意味するわけではありません。
ストックオプションによって優秀な人材を採用し、企業価値を大きく高めることができれば、既存株主にとっても利益になる可能性があります。
例えば、創業者の持分割合が80%から60%に低下しても、企業価値が10億円から50億円に上昇すれば、創業者の保有株式の価値は8億円から30億円に増加します。
もちろん、実際には株式の種類や資金調達条件などによって評価が異なります。
それでも、重要なのは持分割合だけでなく、企業価値全体の成長を考えることです。
ストックオプション制度は、従業員の利益と既存株主の利益を適切に調整しながら設計する必要があります。
税制がストックオプションの魅力を左右する
ストックオプションを活用する際には、税制上の取り扱いが重要です。
一般的な無償の税制非適格ストックオプションでは、権利行使時の利益が給与所得として課税されます。
所得税と住民税などを合わせた最高税率は約56%です。
一方、一定の要件を満たす税制適格ストックオプションでは、権利行使時の課税が繰り延べられます。
そして、取得した株式を売却した際に、原則として株式の譲渡所得として課税されます。
一般的な株式譲渡益に対する税率は20.315%です。
例えば、税制適格ストックオプションによって税引前利益5,000万円を得た場合を考えます。
売却費用などを考慮せず、20.315%の税率が適用されると仮定すると、税額は約1,016万円です。
税引後の利益は約3,984万円になります。
ただし、税制適格の適用には、付与対象者、権利行使期間、権利行使価額、年間権利行使価額の上限など、複数の要件があります。
また、税制非適格ストックオプションについても、権利行使時の課税関係は付与条件や権利の性質によって異なる場合があります。
そのため、ストックオプションを付与する企業と受け取る従業員の双方が、税制上の取り扱いを正確に理解する必要があります。
未上場株式の換金市場が広がる可能性
ストックオプションの課題の一つが、未上場株式の換金可能性です。
企業が成長して株式の評価額が上昇しても、未上場のままでは、従業員が株式を売却できない場合があります。
そのため、従業員は株式上場やM&Aなどの機会を待つ必要があります。
しかし、企業が必ず株式上場するとは限りません。
また、上場までに長い時間がかかる場合もあります。
こうした課題に対応するため、未上場株式の売買を支援する取り組みが進んでいます。
例えば、未上場株式の取引を仲介する仕組みが整備されれば、従業員が株式上場前に保有株式を現金化できる可能性があります。
ただし、未上場株式には譲渡制限が設けられていることが多く、自由に売却できるわけではありません。
また、取引価格の算定や情報開示、投資家保護などの課題もあります。
それでも、未上場株式の流動性が高まれば、ストックオプションの魅力が増す可能性があります。
企業の成長成果を、株式上場だけに依存せず受け取れる仕組みが広がることは、従業員にとって重要な変化になるでしょう。
転職や独立を支える報酬制度になるか
人生100年時代には、一つの企業で定年まで働くことだけが一般的なキャリアではなくなる可能性があります。
転職、独立、起業、再就職など、複数の働き方を経験する人が増えることが考えられます。
その際、ストックオプションの退職時の取り扱いが重要になります。
例えば、4年間勤務することで権利が確定するストックオプションを付与された従業員が、2年後に退職する場合を考えます。
契約によっては、未確定の権利が失効する可能性があります。
また、確定済みの権利についても、退職後に行使できるとは限りません。
このような制度は、人材の定着を促す一方、転職や独立を制約する要因になる場合があります。
そのため、企業には、従業員の長期的な貢献を評価しながら、キャリア形成の自由にも配慮した制度設計が求められます。
例えば、一定期間勤務した従業員について、退職後も確定済みの権利を維持できる仕組みが考えられます。
ただし、税制適格要件や株式管理などの問題もあるため、制度設計には慎重な検討が必要です。
ストックオプションが人材を企業に縛り付ける制度ではなく、企業の成長成果を公平に分配する制度として発展することが重要です。
60代以降の専門人材にも新しい可能性
ストックオプションは、若い世代だけの制度ではありません。
人生100年時代には、60代以降も専門知識や経験を生かして働く人が増える可能性があります。
特にスタートアップ企業では、財務、経理、税務、法務、内部統制、経営企画などの専門人材が必要になります。
例えば、大企業で長年の経験を積んだ60代の専門人材が、スタートアップ企業の経営管理体制の整備を支援する場合を考えます。
企業が十分な現金報酬を提示できなくても、ストックオプションを組み合わせることで、成長成果を共有する仕組みを設けられる可能性があります。
ただし、60代以降の転職では、若い世代とは異なる注意点があります。
公的年金、退職金、老後資金、健康状態、家族の生活などを考慮する必要があるからです。
例えば、65歳でスタートアップ企業に参画し、4年間で権利が確定するストックオプションを付与された場合、すべての権利が確定するのは69歳です。
健康状態や家族の事情によって途中で退職することになれば、未確定の権利が失効する可能性があります。
そのため、シニア専門人材については、勤務予定期間や役割に応じた報酬制度を設計することが重要です。
また、ストックオプションによる将来利益を老後資金の前提にすることは避ける必要があります。
安定した生活資金を確保したうえで、企業の成長に参加する機会として活用することが合理的でしょう。
ストックオプションと新NISAを組み合わせる
ストックオプションによって大きな利益を得た場合、その資金をどのように管理するかも重要です。
ストックオプションは、特定の企業の成長によって利益を得る制度です。
そのため、勤務先の株式に資産が集中するリスクがあります。
一方、新NISAでは、株式や投資信託などを通じて、幅広い企業や地域に分散投資することができます。
新NISAの年間投資上限額は、つみたて投資枠120万円と成長投資枠240万円の合計360万円です。
非課税保有限度額は取得価額ベースで1,800万円です。
例えば、ストックオプションによって税引後3,000万円の利益を得た場合を考えます。
その資金の一部を預貯金で確保し、残りを新NISAなどを活用して分散投資する方法が考えられます。
ただし、ストックオプションで取得した株式を、そのまま新NISA口座へ移すことはできません。
また、新NISAで投資する商品も元本が保証されるわけではありません。
重要なのは、ストックオプションによる一時的な利益を、長期的な資産形成につなげることです。
人生100年時代には、資産を増やすことだけでなく、資産を守り、計画的に使うことが重要になります。
資産形成から資産承継まで考える
ストックオプションによって形成した資産が大きくなれば、相続や贈与の問題も重要になります。
例えば、ストックオプションによって取得した株式を保有したまま死亡した場合、相続税の課税対象になる可能性があります。
特に未上場株式では、相続税評価額と実際の換金可能性が一致しない場合があります。
株式の評価額が高くても、売却できなければ、相続人が納税資金を確保することが難しくなる可能性があります。
また、ストックオプションそのものを保有したまま死亡した場合には、契約上の権利承継の可否を確認する必要があります。
死亡によって権利が消滅する契約も考えられるためです。
そのため、ストックオプションによって大きな資産を形成した場合には、税金だけでなく、家族への情報共有や財産管理も重要になります。
例えば、保有株式数、権利行使価額、権利行使期限、契約書の保管場所などを整理しておくことが考えられます。
また、相続税の試算や生前贈与の検討など、長期的な資産承継対策も必要になる場合があります。
人生100年時代には、資産を増やすことと、次の世代へ引き継ぐことを一体として考える必要があります。
企業価値を分かち合う社会に向けて
ストックオプションの普及は、企業と従業員の関係を変える可能性があります。
これまでの報酬制度では、従業員は給与や賞与を受け取り、企業価値の上昇による利益は主として株主に帰属していました。
しかし、ストックオプションによって従業員が株式を取得する機会を得れば、企業価値の上昇による利益を共有できる可能性があります。
これは、従業員が企業の成長に参加する新しい仕組みといえます。
ただし、すべての企業や従業員にストックオプションが適しているわけではありません。
安定した給与を重視する人もいれば、将来の成長可能性に挑戦したい人もいます。
また、企業によって成長段階や財務状況、株主構成などが異なります。
そのため、ストックオプションを一律に導入するのではなく、企業と従業員の双方にとって合理的な制度を設計することが重要です。
さらに、税制、会社法、会計基準、未上場株式の流通制度など、制度面の整備も重要になります。
ストックオプションが健全に普及するためには、企業の成長成果を公平に分配しながら、従業員の生活の安定性を確保する仕組みが求められます。
結論
ストックオプションは、給与中心の報酬制度を補完し、企業価値の上昇による利益を従業員と共有する仕組みです。
企業にとっては、優秀な人材の採用や定着を促し、長期的な企業価値向上を目指す手段になります。
従業員にとっては、給与や賞与だけでなく、企業の成長成果を通じて資産形成を行う機会になります。
ただし、ストックオプションによる利益は保証されません。
企業の成長が期待通りに進まなければ、利益が生じない場合があります。
また、権利確定条件、権利行使価額、税制適格要件、株式の換金可能性など、さまざまな問題があります。
そのため、ストックオプションを受け取る際には、制度の内容を正確に理解することが重要です。
さらに、利益が実現した後には、税金、資産管理、相続などを考慮する必要があります。
人生100年時代には、60歳や65歳で仕事を終えるのではなく、70歳以降も専門知識や経験を生かして働く選択肢が広がる可能性があります。
その際、ストックオプションは、企業の成長に参加し、その成果を共有する報酬制度として活用できる可能性があります。
しかし、老後資金や生活資金を不確実な将来利益に依存させることは避ける必要があります。
安定した給与収入、公的年金、退職金、預貯金、分散投資などを組み合わせながら、ストックオプションを追加的な資産形成の機会として活用することが合理的でしょう。
これからの報酬制度では、給与の金額だけでなく、企業の成長にどのように参加し、その成果をどのように受け取るかという視点が重要になります。
ストックオプションは、働くことと資産形成を結び付ける制度です。
そして、その本質は、企業の成長成果を経営者や株主だけでなく、従業員とも分かち合うことにあります。
人生100年時代の報酬革命とは、給与を受け取る働き方から、企業価値の成長に参加し、その成果を共有する働き方へと選択肢が広がることなのです。
参考
日本経済新聞 2026年10月21日 ストックオプション、就活の検討材料に 働く意欲と将来の報酬を左右
日本経済新聞 2026年10月17日 未上場ストックオプション取引、エヌストックが仲介 社員の換金手軽に
国税庁 ストックオプションに対する課税
経済産業省 ストックオプション税制に関する資料
金融庁 新しいNISA制度の概要
企業会計基準委員会 ストック・オプション等に関する会計基準
法務省 会社法における新株予約権に関する規定