生成AIの普及によって、企業の働き方が大きく変わろうとしています。文章の作成、資料の要約、情報検索、データ分析など、これまで人間が時間をかけていた業務を短時間で処理できるようになりました。
ところが、AIによって個々の仕事が速くなっても、社員の労働時間が必ずしも短くなるわけではありません。むしろ、AIを積極的に活用する社員ほど長時間働く傾向があるという調査結果もあります。
こうした「AIと生産性のジレンマ」に対して、住友生命保険が興味深い改革に踏み切りました。
2026年10月から内勤職員などの所定労働時間を1日8時間から7時間半に短縮し、給与水準は維持するというものです。
AIによって仕事が速くなることを期待するだけでなく、先に働く時間を短くすることで、仕事の進め方そのものを変えようとしています。
この取り組みは、人手不足が深刻化する日本企業にとって、生産性向上の本質を考える重要な材料になります。
住友生命が実施した労働時間30分短縮の意味
住友生命は2026年10月から、対象となる内勤職員などの所定労働時間を30分短縮しました。
始業時間を10分遅らせ、終業時間を20分早めることで、1日の所定労働時間を8時間から7時間半に変更しています。
注目すべき点は、給与水準を維持していることです。
仮に仕事の成果と給与が変わらず、労働時間だけが8時間から7時間半に短縮されれば、時間当たりの労働生産性は約6.7%向上します。
計算上は、8時間を7.5時間で割ることで求められます。
ただし、これは実際の総労働時間も同じ割合で減少し、成果が維持された場合の数字です。残業時間が増えたり、仕事の成果が減少したりすれば、期待した効果は得られません。
重要なのは、単純に30分早く帰ることではありません。
限られた時間の中で、どの仕事を優先し、どの仕事を減らし、どの仕事をAIに任せるのかを考えることです。
住友生命は、労働時間を短くするという制約を先に設けることで、社員の働き方を変えようとしています。
AI投資200億円と働き方改革の一体化
住友生命は2026〜28年度の中期経営計画で、業務効率化などにつながるAI関連分野に約200億円を投資する方針です。
社内文書の作成や情報検索などへの生成AIの活用も本格化しています。
一般的に、企業がAIを導入する場合、最初に注目されるのは業務処理時間の短縮です。
例えば、従来60分かかっていた資料作成が30分で終われば、30分の時間が生まれます。
しかし、その30分を別の資料作成に充てれば、社員の労働時間は変わりません。
業務処理能力は高まっても、働く時間そのものは減らないのです。
さらに、AIによって資料を簡単に作れるようになると、以前より多くの資料を作成することが求められる可能性があります。
会議資料の種類が増え、分析項目が細分化され、報告頻度が高まれば、AIによる効率化の成果が新たな業務に吸収されてしまいます。
住友生命の取り組みは、AI投資と労働時間の短縮を一体的に進める点に特徴があります。
技術を導入するだけでなく、その技術によって生まれる時間をどのように扱うかまで経営方針として示しているのです。
AIで業務時間が17%減っても労働時間は減らない現実
パーソル総合研究所が2025年10月に実施した調査では、生成AIを業務で利用する人の個々の業務の平均所要時間は17%短縮されました。
一方、労働時間が減った人は全体の25%にとどまっています。
さらに、生成AIを頻繁に利用する人ほど、長時間労働になる傾向も確認されました。
この結果は、業務の効率化と労働時間の短縮が必ずしも一致しないことを示しています。
AIによって浮いた時間の使い道を見ると、61%が仕事に充てていました。
学習・自己啓発は11%、休養・睡眠は10%にとどまっています。
さらに、浮いた時間を仕事に充てた人のうち、75%が日常業務に使っていました。
業務の改良・再設計は41%、探索的な活動は36%でした。
複数回答による調査ですが、AIで生まれた時間の多くが既存業務の継続に使われている実態がうかがえます。
本来、AIによる効率化は、社員がより付加価値の高い仕事に取り組む機会にもなるはずです。
しかし、実際には日常業務をさらに多くこなす方向に時間が使われやすいのです。
生産性向上を妨げる業務量の膨張
AI導入によって仕事が速くなっても、業務量そのものが増えれば、労働時間は減りません。
例えば、経理部門では、AIを活用することで決算資料の作成や勘定科目の分析に必要な時間を短縮できます。
しかし、経営陣から追加の分析資料を求められたり、報告内容が詳細になったりすれば、削減した時間が新たな仕事に置き換わります。
営業部門でも同じです。
AIによって提案書の作成時間が半減しても、提案件数を倍増させることが求められれば、労働時間は減りません。
管理職がAIによる効率化を理由に、部下へ追加業務を割り当てることも考えられます。
このような状況では、AIを使う社員ほど仕事を多く抱える可能性があります。
特に注意したいのは、仕事の必要性を検証しないまま、AIによって処理できる業務を増やしてしまうことです。
資料作成が容易になったからといって、すべての資料が必要になるわけではありません。
報告書を短時間で作れることと、その報告書に経営上の価値があることは別問題です。
生産性向上には、仕事を速く処理する能力だけでなく、不要な仕事を減らす判断が必要になります。
労働時間を短縮することで生まれる自己規律
住友生命は2019年から、成果が同じであれば労働時間の短い社員を高く評価する人事制度を導入しています。
それでも、2025年度までの5年間の平均労働時間は横ばいでした。
デジタルツールの導入によって個々の業務が効率化されても、労働時間全体の削減には十分につながらなかったのです。
そこで、今回は所定労働時間そのものを短縮する方法を採用しました。
働く時間に制約が生まれれば、社員は仕事の優先順位を見直す必要があります。
管理職も、従来と同じ業務量を部下に求め続けることが難しくなります。
会議の時間を短くする、資料の作成基準を簡素化する、承認手続きを減らすといった改革が必要になります。
ただし、労働時間の短縮を社員個人の努力だけに任せてはいけません。
業務量が変わらないまま所定労働時間だけを短くすれば、残業の増加や仕事の持ち帰りにつながる恐れがあります。
自己規律を求めると同時に、会社側が業務の総量を管理することが不可欠です。
生産性を測る指標の見直し
企業がAI導入の成果を測定する場合、削減できた作業時間だけに注目することがあります。
しかし、作業時間が短くなったことと、企業全体の生産性が向上したことは同じではありません。
例えば、AIによって年間1万時間の作業時間を削減できたとしても、同じ時間だけ新たな業務が増えていれば、総労働時間は変わりません。
また、作成する資料が増えても、それが売上高や利益、顧客満足度の向上につながらなければ、付加価値が増えたとは限りません。
企業が確認すべきなのは、AIによる作業時間の削減、実際の総労働時間の変化、創出された付加価値の3つです。
加えて、成果物の品質、顧客対応の改善、社員の健康状態なども確認する必要があります。
単に労働時間を減らすだけでは、サービス品質の低下を招く可能性があります。
逆に、成果を増やすことだけを追求すれば、長時間労働が固定化する恐れがあります。
AIの効果を適切に評価するには、仕事の量と質、労働時間を総合的に見ることが重要です。
日本の労働生産性が低迷する構造的な問題
日本生産性本部の調査によると、2024年の日本の時間当たり労働生産性は60.1ドルでした。
OECD加盟38カ国中28位という水準です。
日本では2019年の働き方改革関連法の施行以降、長時間労働の是正が進められてきました。
しかし、労働時間の管理を厳格にするだけでは、生産性の大幅な改善にはつながりません。
生産性を高めるためには、労働時間の短縮と同時に、付加価値を生み出す仕組みを変える必要があります。
日本企業では、丁寧な資料作成、頻繁な報告、複雑な承認手続きなどに多くの時間が使われる場合があります。
これらの業務をAIで高速化することも有効ですが、そもそも必要なのかを検討することが先決です。
不要な業務をAIで効率化しても、企業全体の競争力が大きく高まるとは限りません。
AIの導入を契機として、業務そのものを再設計することが求められます。
AIで生まれた時間を人材育成と新規事業に振り向ける
住友生命が労働時間の短縮を進める背景には、社員のワークライフバランスの改善や自己啓発の促進もあります。
AIによって生まれた時間を休養や学習に使うことで、社員の能力向上や新しい発想につなげる考え方です。
この点は、企業の中長期的な競争力を考えるうえで重要です。
短期的には、浮いた時間を既存業務に充てた方が仕事の処理量は増えます。
しかし、それだけでは社員の知識や能力が十分に高まらない可能性があります。
新しい技術を学び、専門知識を深め、異なる分野の情報に触れることは、将来の付加価値を生み出す基盤になります。
AIが定型業務を担う時代には、人間が問題を発見し、判断し、新しい仕組みを考える能力が一段と重要になります。
企業にとっても、社員が学習や休養に充てる時間は、単なる余暇ではありません。
将来の生産性向上を支える人的資本への投資という側面があります。
中小企業にも求められるAIと業務改革の一体化
AIによる生産性向上は、大企業だけの課題ではありません。
人手不足が深刻な中小企業ほど、限られた人員で業務を遂行する必要があります。
例えば、経理業務では、請求書の読み取り、仕訳候補の作成、月次資料の集計などにAIを活用できます。
ただし、AIを導入する前に、業務手順の標準化や不要な帳票の廃止を進めることが重要です。
同じ情報を複数の帳票に転記している場合、その作業をAIで効率化するより、重複した帳票そのものを廃止する方が効果的な場合があります。
また、中小企業では、社員が複数の業務を兼務していることも少なくありません。
AIによって一部の仕事が速くなっても、別の業務が増えれば負担は減りません。
経営者は、AI導入によって削減した時間をどのように使うかを明確にする必要があります。
残業削減、顧客対応の改善、人材育成、新規事業の検討など、目的によって時間の使い方は変わります。
AI導入を単なるIT投資ではなく、経営改革の一部として位置付けることが重要です。
結論
住友生命の所定労働時間30分短縮は、AIによる生産性向上を考えるうえで重要な示唆を与えています。
生成AIによって仕事が速くなっても、その分だけ業務量が増えれば、社員の労働時間は減りません。
AIの導入効果を最大化するためには、仕事の処理速度を高めるだけでなく、業務の必要性や優先順位を見直す必要があります。
特に重要なのは、AIによって生まれた時間を、既存業務の拡大だけに使わないことです。
労働時間の短縮、社員の学習、業務の再設計、新しい価値の創出などに振り向けることで、AI投資の効果は中長期的に高まる可能性があります。
少子高齢化によって働き手が減少する日本では、労働時間を延ばすことだけで経済成長を支えることには限界があります。
これからの企業経営に求められるのは、長く働くことではなく、限られた時間でより大きな付加価値を生み出すことです。
AI時代の生産性向上の本質は、仕事を速くすることだけではなく、仕事の総量と働く時間の使い方を変えることにあります。
住友生命の改革が実際の総労働時間の削減と付加価値の向上につながるかどうかは、今後の成果を見極める必要があります。
その結果は、AI導入と働き方改革を両立させようとする日本企業にとって、重要な判断材料になると考えられます。
参考
日本経済新聞 2026年11月2日 朝刊
「AIと生産性のジレンマ 住友生命の解、労働時間圧縮で働き手に規律」
日本生産性本部「労働生産性の国際比較」
パーソル総合研究所 生成AIの業務利用と労働時間に関する調査