日本のスタートアップ市場が大きな転換期を迎えています。
これまで新興企業にとって、株式上場は資金調達だけでなく、創業者や従業員が保有する株式を現金化する重要な機会でした。
しかし、企業が十分に成長する前に株式上場を急ぐことが、上場後の成長力を制約する一因になってきました。
こうした状況を変える可能性があるのが、未上場株式のセカンダリー市場です。
2026年10月16日、エヌストックは未上場スタートアップの従業員や役員が保有するストックオプションに由来する株式の売買仲介を始めると発表しました。
未上場段階でも株式報酬を現金化できれば、企業は従業員への利益還元を目的として株式上場を急ぐ必要が小さくなります。
一方、東証グロース市場では、2030年に上場維持に必要な時価総額基準を100億円以上へ引き上げる予定です。
今後、スタートアップには、上場すること自体よりも、上場後も持続的に成長できる経営基盤を構築することが求められます。
今回は、ストックオプションの換金機会の拡大がIPO戦略に与える影響と、未上場企業が長期的な成長を実現するための資本政策について考えてみます。
IPOは企業成長の手段であって目的ではない
IPOとは、新規株式公開のことです。
企業が株式を証券取引所に上場することで、一般の投資家が株式を売買できるようになります。
IPOには複数のメリットがあります。
まず、株式市場を通じた資金調達が可能になります。
企業は新株を発行して資金を調達し、研究開発、設備投資、人材採用、海外展開などに活用できます。
また、上場によって企業の知名度や信用力が高まり、取引先や金融機関との関係強化につながることもあります。
さらに、創業者や既存株主が保有株式の一部を売却し、投資資金を回収する機会が生まれます。
従業員にとっても、ストックオプションを行使して取得した株式を売却できる可能性が広がります。
しかし、IPOには相応の負担があります。
上場準備では、内部統制、会計監査、情報開示、企業統治などの体制整備が必要です。
上場後も継続的な開示や株主対応が求められます。
企業にとって重要なのは、IPOを達成することではなく、IPOによって得られる資金や信用力を活用して企業価値を高めることです。
小粒上場が問題になる理由
日本のスタートアップ市場では、比較的小さな企業規模で株式上場する小粒上場が課題として指摘されてきました。
小規模な上場そのものが悪いわけではありません。
事業内容や成長段階によっては、早期上場が合理的な場合もあります。
しかし、企業が十分な事業基盤を構築する前に上場すると、上場後の成長投資に制約が生じることがあります。
例えば、年間売上高が10億円、営業利益が1億円の企業が上場したとします。
上場によって資金を調達できたとしても、管理部門の強化、監査対応、情報開示、株主対応などに継続的な費用が発生します。
その結果、経営資源の一部が上場企業としての管理業務に振り向けられます。
また、上場後には四半期ごとの業績や株価を意識した経営判断が求められやすくなります。
本来であれば長期的な研究開発に投資すべき局面でも、短期的な利益確保を優先する誘因が生じる可能性があります。
もちろん、上場による資金調達や信用力向上が、こうした負担を上回る場合もあります。
重要なのは、企業の成長段階に応じて上場時期を判断することです。
ストックオプションの換金がIPO圧力を生んできた
スタートアップでは、優秀な人材を採用するためにストックオプションが広く活用されています。
資金力が限られる企業にとって、将来の企業価値上昇による利益を従業員と分かち合う仕組みは重要です。
しかし、ストックオプションには換金機会が限られるという問題がありました。
例えば、従業員が1株1,000円で取得できるストックオプションを5,000株分保有しているとします。
会社の成長によって株式価値が1株10,000円になった場合、権利行使価格との差額は4,500万円です。
しかし、株式を売却できなければ、従業員はこの利益を現金として受け取れません。
さらに、ストックオプションには権利行使期間が設けられています。
税制適格ストックオプションでは、原則として付与決議の日から2年経過後、10年以内という権利行使期間の要件があります。
一定の設立後間もない企業については、上限が15年となる特例もあります。
こうした期限が近づくと、従業員の利益実現を考慮してIPOを検討する誘因が生じることがあります。
本来の事業成長とは別の事情が、上場時期の判断に影響してきたのです。
セカンダリー市場が上場時期の自由度を高める
未上場株式のセカンダリー市場が整備されれば、企業はIPO以外の方法で従業員に換金機会を提供できるようになります。
例えば、企業価値が100億円に成長したスタートアップを考えます。
従業員がストックオプションを行使して取得した株式の一部を、既存投資家などに売却できれば、企業は上場せずに従業員へ利益実現の機会を提供できます。
その結果、企業はIPOを急がず、研究開発や海外展開などに経営資源を集中しやすくなります。
ただし、セカンダリー取引によって会社自体に資金が入るわけではありません。
既存株式の売却代金は、原則として株式を売却した従業員などに支払われます。
会社が成長資金を必要とする場合には、新株発行、借入れ、その他の資金調達手段を別途検討する必要があります。
つまり、セカンダリー市場はIPOによる資金調達を全面的に代替するものではありません。
IPOに伴う株主の換金機能の一部を、未上場段階でも実現できるようにする仕組みです。
東証グロース市場の改革が企業に成長を求める
東証グロース市場では、上場企業の成長力を高めるための改革が進められています。
その一つが、上場維持に必要な時価総額基準の引上げです。
現在の40億円から、2030年には100億円以上へ引き上げる予定です。
この改革によって、上場企業には従来以上に持続的な企業価値の向上が求められます。
例えば、時価総額50億円で上場した企業が、その後も十分に成長できなければ、新しい基準への対応が課題になります。
一方、未上場の段階で事業基盤を強化し、企業価値を高めてからIPOを実施すれば、上場後の成長戦略を描きやすくなる可能性があります。
実際、日本のスタートアップでは設立から上場までの期間が長期化しています。
2026年上半期の国内スタートアップの設立から上場までの年数は、中央値で12年となり、4年前より2年長くなりました。
今後は、未上場期間を単なる上場準備期間ではなく、企業価値を高めるための重要な成長期間として位置付ける必要があります。
未上場期間の長期化には資金調達の課題もある
未上場期間を長くすることにはメリットがありますが、課題もあります。
最大の問題は成長資金の確保です。
例えば、企業が新製品開発や海外進出のために30億円の投資を計画しているとします。
上場していれば、公募増資などによる資金調達が選択肢になります。
しかし、未上場企業では、ベンチャーキャピタル、事業会社、金融機関などから資金を調達する必要があります。
事業の成長性が高くても、市場環境が悪化すれば資金調達が難しくなる可能性があります。
また、新株発行によって資金を調達する場合には、既存株主の持分比率が低下する希薄化が生じます。
企業は資金調達額だけでなく、調達後の株主構成や経営権への影響も検討する必要があります。
セカンダリー市場が整備されても、こうした資金調達の課題がなくなるわけではありません。
企業には、プライマリー市場による成長資金の調達と、セカンダリー市場による既存株主の換金を組み合わせた資本政策が求められます。
創業者と従業員の利害調整が重要になる
IPOを急がない経営戦略を採用する場合には、創業者と従業員の利害調整が重要です。
創業者は、長期的な企業価値の向上を目指して未上場を維持したいと考えるかもしれません。
一方、ストックオプションを保有する従業員は、住宅購入、教育費、老後資金などのために早期の換金を希望する場合があります。
両者の希望が一致するとは限りません。
例えば、企業が従業員に対して、保有するストックオプション由来株式の一部を売却できる機会を設けることが考えられます。
すべての株式を売却するのではなく、一部を現金化し、残りを保有する方法です。
これにより、従業員は一定の資金を確保しながら、将来の企業成長による利益を引き続き期待できます。
ただし、売却可能な株式数、売却価格、対象者の範囲などについて、公平性を確保する必要があります。
特定の役員だけが有利な条件で売却できる場合には、従業員の不満につながる可能性があります。
制度設計では、企業の成長戦略と従業員の経済的利益のバランスが重要です。
税務上の要件を踏まえた換金制度が必要
ストックオプションの換金制度を設計する際には、税務上の取扱いにも注意が必要です。
税制適格ストックオプションでは、一定の要件を満たすことで権利行使時の課税が繰り延べられ、株式売却時に譲渡所得として課税されます。
一方、一般的な税制非適格ストックオプションでは、権利行使時に給与所得課税が生じる場合があります。
例えば、権利行使価格が500万円、権利行使時の株式価値が3,000万円だったとします。
税制非適格の場合、差額の2,500万円が給与所得として課税される可能性があります。
株式売却前に多額の税負担が発生すれば、従業員の資金繰りに影響します。
そのため、権利行使と株式売却の時期を適切に調整する必要があります。
また、税制適格ストックオプションでは、権利行使期間、年間権利行使価額、取得株式の管理方法などの要件を確認する必要があります。
セカンダリー取引を利用する場合にも、税制適格要件を維持できるかどうかを事前に確認することが重要です。
IPOを急がない企業に求められる経営管理
未上場期間が長くなる企業には、上場企業に近い水準の経営管理が求められる場面が増えると考えられます。
例えば、複数のベンチャーキャピタルから出資を受ける企業では、投資家に対して定期的に業績や資金繰りを報告する必要があります。
また、従業員が保有するストックオプションの数量、権利行使条件、潜在株式数などを正確に管理することも重要です。
企業価値評価を行う際には、信頼できる財務情報や事業計画が必要になります。
さらに、セカンダリー取引を実施する場合には、株式譲渡制限、株主間契約、利益相反、税務上の時価などについて確認する必要があります。
これらの管理体制が不十分であれば、取引の成立が難しくなる可能性があります。
つまり、未上場を維持することは、企業統治や内部管理を後回しにしてよいという意味ではありません。
むしろ、長期的な成長を目指す企業ほど、早い段階から経営管理体制を整備する必要があります。
IPOとM&Aを含めた出口戦略を考える
スタートアップの出口戦略は、IPOだけではありません。
事業会社などによるM&Aも重要な選択肢です。
例えば、独自技術を持つスタートアップが、大企業の傘下に入ることで事業を拡大する場合があります。
この場合、創業者や既存株主は株式売却によって投資資金を回収できる可能性があります。
従業員が保有するストックオプションについても、契約条件や買収スキームに応じた取扱いが必要になります。
また、未上場のまま事業を拡大し、セカンダリー取引によって一部の株主に換金機会を提供する方法も考えられます。
企業にとって重要なのは、IPO、M&A、未上場継続という選択肢を比較し、自社の成長戦略に最も適した方法を選ぶことです。
セカンダリー市場の整備は、こうした選択肢を広げるものといえます。
結論
未上場株式のセカンダリー市場の整備は、日本のスタートアップのIPO戦略を変える可能性があります。
これまで、ストックオプションを保有する従業員への利益還元は、IPOを急ぐ要因の一つになっていました。
しかし、未上場段階でも株式を売却できるようになれば、企業は従業員の換金機会と上場時期を切り離して考えやすくなります。
その結果、研究開発、海外展開、人材採用などに必要な時間を確保し、十分な事業規模に成長してから上場するという選択肢が広がります。
一方、東証グロース市場では、2030年に上場維持に必要な時価総額基準を100億円以上へ引き上げる予定です。
今後は、上場すること自体よりも、上場後に持続的な成長を実現できるかどうかが一段と重要になります。
ただし、セカンダリー市場は企業の成長資金を直接調達する仕組みではありません。
未上場期間を長くするためには、資金調達力、収益力、経営管理体制、企業統治などを強化する必要があります。
また、従業員の換金機会を設ける際には、税務上の要件や株主間の利害調整にも注意が必要です。
重要なのは、IPOを早く実現することでも、未上場を長く維持することでもありません。
企業価値を最大化するために、最も適切な時期と方法を選択することです。
ストックオプションの換金機会が広がることで、日本のスタートアップが短期的な上場目標にとらわれず、長期的な成長を目指せる環境が整うことを期待したいと思います。
参考
日本経済新聞 2026年10月17日 未上場ストックオプション取引、エヌストックが仲介 社員の換金手軽に
東京証券取引所 グロース市場の機能発揮に向けた対応
金融庁 スタートアップ企業等への成長資金供給に関する制度資料
国税庁 税制適格ストックオプションの要件