日本のスタートアップを取り巻く金融環境が、大きな転換点を迎えています。
これまで未上場企業の従業員が保有するストックオプションは、企業が株式上場を果たすまで現金化することが難しいという問題を抱えていました。
ところが2026年10月16日、エヌストックが未上場企業のストックオプションに由来する株式の売買仲介を始めると発表しました。
この動きは単なる金融サービスの拡充ではありません。
日本企業の人材採用、資本政策、株式上場戦略、さらには個人の資産形成にも影響を与える可能性があります。
今回は、未上場株式の新たな流通市場が日本経済にもたらす変化について、金融と税務の両面から考えてみます。
ストックオプションとは何か
ストックオプションとは、企業の役員や従業員が、あらかじめ決められた価格で自社株式を取得できる権利です。
例えば、あるスタートアップが従業員に対して、1株1,000円で自社株式を購入できるストックオプションを1,000株分付与したとします。
その後、企業が成長し、株式の価値が1株10,000円になった場合を考えます。
従業員は権利を行使して100万円で1,000株を取得し、その株式を1,000万円で売却できれば、差額の900万円を利益として得られます。
この仕組みにより、企業は高額な給与を支払うことが難しい創業段階でも、将来の成長利益を従業員と分かち合うことができます。
従業員にとっても、企業価値の向上が自身の経済的利益につながるため、仕事への意欲を高める効果が期待できます。
ただし、ここには重要な問題があります。
株式の価値が上昇しても、売却できなければ現金を受け取れないという点です。
未上場企業の株式は簡単に売却できない
上場企業の株式であれば、証券取引所を通じて売買することができます。
一方、未上場企業の株式には、通常、誰でも自由に売買できる市場がありません。
さらに、多くのスタートアップでは株式に譲渡制限が設けられています。
株式を売却するためには、会社の承認が必要になる場合があります。
買い手を見つけることも容易ではありません。
仮に購入希望者が現れても、適正な売却価格を算定し、契約書を作成し、株式の移転手続きを行う必要があります。
ストックオプションの場合には、権利行使の条件や税制上の取扱いも確認しなければなりません。
そのため、企業価値が大きく上昇していても、従業員が経済的利益を実際に受け取る機会は限られていました。
従来、この問題を解決する代表的な方法が株式上場でした。
しかし、株式上場には別の問題もあります。
ストックオプションが小粒上場を促してきた理由
スタートアップの経営者にとって、株式上場は重要な経営上の選択肢です。
上場によって資金調達の機会が広がり、社会的信用力も高まります。
一方で、上場企業には厳格な情報開示、内部統制、監査、株主対応などが求められます。
上場準備にも多額の費用と人的負担が発生します。
本来であれば、企業は事業規模や収益力が十分に成長した段階で上場することが望ましいと考えられます。
ところが、ストックオプションを保有する従業員に利益を還元する必要から、上場を急ぐケースがありました。
税制適格ストックオプションには権利行使期間などの要件があり、付与条件によっては期限が経営判断に影響することもあります。
その結果、企業価値が十分に高まる前に上場する、いわゆる小粒上場につながる可能性があります。
小規模な上場企業が増えると、上場後の成長投資に必要な資金や経営資源が不足することも考えられます。
日本のスタートアップ市場が抱えてきた構造的な課題の一つです。
エヌストックの新サービスが変えるもの
今回、エヌストックが始めるのは、未上場企業の従業員や役員が保有するストックオプションに由来する株式の売買仲介です。
2025年に金融庁が設けた、未上場株式の仲介を対象とする登録要件の緩和措置を活用しています。
同社は2026年9月に登録を受け、10月16日には日本証券業協会への加入も済ませました。
特徴は、従業員がスマートフォンなどから取引システムを利用できる点です。
企業がサービスの利用を申し込み、審査を通過すると、従業員は招待制のシステムにアクセスできます。
そこで権利行使するストックオプションの数量などを入力し、売却手続きを進める仕組みです。
従来、個別に対応する必要があった書類作成や権利行使可能数量の確認などを効率化できます。
ただし、すべての未上場株式を自由に売買できるわけではありません。
対象企業には一定の審査があり、譲渡先の投資家や取引価格については、企業側が自ら確保、算定する必要があります。
つまり、株式の流動性を高める仕組みではありますが、上場株式と同じようにいつでも売却できる市場が誕生したわけではないのです。
税務上の取扱いは特に重要になる
ストックオプションの換金機会が広がると、税務上の確認が一段と重要になります。
ストックオプションには、大きく分けて税制適格と税制非適格があります。
税制適格ストックオプションでは、一定の要件を満たすことで、原則として権利行使時の経済的利益に課税されず、株式売却時に譲渡所得として課税されます。
一方、税制非適格ストックオプションでは、通常、権利行使時に給与所得などとして課税される場合があります。
先ほどの例で考えてみます。
権利行使価格が1株1,000円、権利行使時の株式価値が1株10,000円、取得株数が1,000株の場合です。
経済的利益は900万円になります。
税制適格の場合、要件を満たしていれば、この900万円について権利行使時の課税は繰り延べられます。
その後、株式を1,000万円で売却した場合、取得費100万円との差額900万円が原則として株式等の譲渡所得になります。
税率は、所得税、復興特別所得税、住民税を合わせて原則20.315%です。
単純計算では約182万8,000円の税負担となります。
一方、税制非適格の場合には、権利行使時の900万円が給与所得などとして課税される可能性があります。
給与所得として課税される場合、他の給与所得などと合わせた累進税率が適用されるため、税負担が大きく異なることがあります。
また、未上場株式を売却する場合には、売却価額と税務上の時価との関係も重要です。
取引価格が適正であるか、特殊関係者間の取引ではないかなど、個別の事情を確認する必要があります。
未上場株式の換金が容易になるほど、税務面の事前確認が不可欠になると考えられます。
企業の資本政策にも変化が生じる
未上場株式の売買が活発になると、企業の資本政策にも新しい選択肢が生まれます。
従来、スタートアップの経営者は、資金調達と株式上場を一体的に考える傾向がありました。
しかし、既存株式の売却によって従業員が利益を実現できれば、企業は上場時期を柔軟に判断しやすくなります。
事業成長に必要な時間を確保できる可能性があります。
一方、既存株式の売買では、原則として売却代金は株式を売却する株主に支払われます。
会社が新株を発行して資金を調達する場合とは異なり、会社自体に資金が入るわけではありません。
この違いは重要です。
スタートアップの資本政策では、企業の成長資金を確保する取引と、既存株主や従業員に換金機会を提供する取引を区別する必要があります。
また、従業員が株式を売却することで、株主構成が変化します。
経営権への影響や既存投資家との契約条件についても検討が必要になります。
単に換金制度を導入するだけでなく、会社全体の資本政策との整合性を確保することが重要です。
人材の流動化と新たな起業を促す可能性
今回の制度整備で期待されるもう一つの効果が、人材の流動化です。
これまで、ストックオプションを保有する従業員の中には、将来の上場による利益を期待して転職を控える人もいました。
しかし、未上場段階で一定の利益を実現できれば、キャリアの選択肢が広がります。
例えば、あるスタートアップで経験を積んだ従業員が、保有株式を売却して資金を確保し、その資金を元手に新たな事業を始めることも考えられます。
また、別のスタートアップに転職し、そこで新たなストックオプションを取得するという働き方も広がる可能性があります。
米国では、未上場株式のセカンダリー取引が発達し、企業の成長によって資産を形成した人材が次の起業や投資に参加する仕組みが存在します。
成功した企業から人材と資金が次の企業へ移ることで、新たな成長企業が生まれやすくなります。
日本でも同様の循環が形成されれば、スタートアップ市場全体の成長につながる可能性があります。
未上場期間の長期化が市場整備を後押しする
日本では、スタートアップの設立から上場までの期間が長くなる傾向にあります。
2026年上半期の国内スタートアップの設立から上場までの年数は、中央値で12年となり、4年前より2年長くなりました。
さらに、東証グロース市場では、上場維持に必要な時価総額基準を2030年に100億円以上へ引き上げる予定です。
企業には、より大きな規模と成長力が求められるようになります。
こうした環境では、企業が未上場のまま成長する期間が長くなる可能性があります。
その間、従業員が株式報酬による利益を実現できなければ、ストックオプションの魅力は低下してしまいます。
したがって、未上場株式の流通市場を整備することは、今後のスタートアップ政策において重要な課題になると考えられます。
結論
エヌストックによる未上場株式の売買仲介サービスは、日本のスタートアップ市場に新たな選択肢を提供するものです。
従業員にとっては、株式上場を待たずにストックオプション由来の利益を実現できる可能性が広がります。
企業にとっては、株式上場の時期を柔軟に判断しながら、優秀な人材を採用し、長期的な成長戦略を描きやすくなります。
さらに、人材と資金が企業間を循環することで、新たな起業や成長投資を促す効果も期待できます。
ただし、未上場株式には価格算定の難しさや流動性の低さが残ります。
税制適格ストックオプションの要件確認、株式譲渡制限、既存株主との契約、売却時の課税関係など、解決すべき実務上の課題も少なくありません。
重要なのは、換金機会が生まれたことと、自由に換金できることは同じではないという点です。
今後は、制度の普及とともに、企業価値評価の透明性、税務処理の適正性、投資家保護の仕組みを整備していく必要があります。
未上場株式のセカンダリー市場が日本に定着するかどうかは、スタートアップの成長だけでなく、日本経済全体の資金循環と人材活用にも関わる重要なテーマです。
参考
日本経済新聞 2026年10月17日 未上場ストックオプション取引、エヌストックが仲介 社員の換金手軽に