日本の農業では、経営者の高齢化と後継者不足が深刻化しています。農地や農業機械が残っていても、経営を引き継ぐ人がいなければ、農業生産を継続することは難しくなります。
こうしたなか、JR東日本が岩手県の農業法人の株式を取得し、事業承継に乗り出しました。鉄道会社が農業法人の経営に参加するという新しい取り組みですが、農業法人の株式取得には一般企業のM&Aとは異なる法的な制約があります。
特に重要なのが農地法です。農地を所有する法人には、株主構成や役員の農業従事状況などについて一定の要件が設けられています。
そのため、農業法人の株式を取得する場合には、財務内容や企業価値の評価だけでなく、農地の所有形態、農業法人の資格要件、承継後の経営体制などを総合的に検討する必要があります。
今回は、農業法人の株式取得の仕組み、農地法上の規制、事業承継における実務上の注意点について解説します。
農業法人の株式取得と一般企業のM&Aの違い
一般的な株式会社のM&Aでは、買い手が株式を取得することで経営権を引き継ぐことができます。
例えば、発行済株式の100%を取得すれば、原則として株主として会社の重要事項を決定できる立場になります。
株式譲渡の場合、法人格はそのまま存続するため、会社が保有する資産や負債、契約関係も基本的には引き継がれます。
農業法人でも、この基本的な仕組みは同じです。
しかし、農業法人が農地を所有している場合には、農地法上の特別な規制があります。
農地は食料生産の基盤であり、投機的な取得や不適切な利用を防ぐため、所有や利用に一定の制限が設けられています。
そのため、農地を所有する農業法人の株式を一般企業が自由に取得できるとは限りません。
重要なのは、株式を取得すること自体と、農地を所有する法人としての資格を維持することを区別して考えることです。
農地所有適格法人とは何か
農地所有適格法人とは、農地法に定められた要件を満たし、農地を所有できる法人です。
農地所有適格法人になるためには、主に法人形態、事業内容、議決権、役員などに関する要件を満たす必要があります。
まず、法人形態については、株式会社、持分会社、農事組合法人などのうち、法律で認められた形態であることが必要です。
株式会社の場合には、株式譲渡制限会社であることが求められます。
次に、事業内容については、農業とその関連事業が法人の主たる事業である必要があります。
一般的には、直近3年間の売上高の過半が農業及び関連事業によるものであることが求められます。
さらに、議決権についても制限があります。
原則として、農業関係者が総議決権の過半を保有する必要があります。
農業関係者以外の企業や投資家が出資する場合には、この議決権要件を満たすように株主構成を設計する必要があります。
役員についても、農業への従事状況など一定の要件があります。
つまり、農地所有適格法人では、一般企業のように外部企業が単純に全株式を取得する方式が適切とは限らないのです。
JR東日本による農業法人の事業承継
JR東日本は2026年4月、大手コメ卸のヤマタネ、農業人材サービスを展開するYUIMEと共同で、JR東日本豊里創生を設立しました。
新会社は、後継者不足などの問題を抱える農業法人への出資や経営支援を行います。
2026年7月には、岩手県花巻市のはなまき農産の株式を取得し、共同経営を開始しました。
はなまき農産は約50ヘクタールの農地で稲作などを営む農業法人です。
今回の事業承継では、法人の名称を維持するとともに、従業員の雇用も継続しています。
ここで注意したいのは、報道されている株式取得という事実だけでは、具体的な議決権割合や農地の所有形態までは判断できないことです。
農業法人が農地を所有しているのか、賃借しているのかによって、適用される制度や必要な手続きが異なります。
また、農地所有適格法人に該当する場合には、承継後も法律上の要件を維持する必要があります。
したがって、今回の事例を一般的な農業法人の完全買収と同一視することは適切ではありません。
重要なのは、農業法人の経営を支援しながら、農地法などの制度に適合した承継体制を構築することです。
株式譲渡と事業譲渡では何が違うのか
農業法人の事業承継では、株式譲渡と事業譲渡の違いを理解することが重要です。
株式譲渡は、既存の株主が保有する株式を買い手に譲渡する方法です。
法人格は変わらないため、会社が保有する資産や負債、契約関係は原則としてそのまま残ります。
ただし、契約内容によっては、株主変更に伴う承諾や通知が必要になる場合があります。
一方、事業譲渡は、農業法人が営む事業の全部または一部を別の法人などに移転する方法です。
この場合、農業機械や設備、在庫、取引契約などについて、移転対象を個別に確認する必要があります。
特に農地の権利を移転する場合には、農地法上の許可などが必要になることがあります。
株式譲渡では農地の所有者である法人そのものが変わらないのに対し、事業譲渡では農地の所有権や利用権の移転が問題になる場合があります。
この違いは、承継方法を選択するうえで重要な判断材料になります。
農地を所有する法人と借りる法人の違い
農業法人の事業承継では、農地の所有形態を確認することが欠かせません。
農地を所有する法人には、原則として農地所有適格法人の要件が求められます。
一方、農地を賃借して農業を営む法人については、一定の条件を満たせば農地所有適格法人以外の一般法人も農業に参入できます。
ただし、一般法人による農地の賃借には、適切に農地を利用しない場合の契約解除条件など、制度上の要件があります。
また、農地法に基づく許可や農地中間管理事業を利用する場合など、権利設定の方法によって手続きが異なります。
例えば、農地を所有する農業法人を買収する場合には、承継後の株主構成や役員体制が重要になります。
一方、農地を賃借する法人の場合には、賃貸借契約の内容や利用権の存続条件が重要になります。
どちらの場合でも、農地を継続して利用できるかどうかが事業承継の成否を左右します。
農業法人の株式取得で確認すべき財務内容
農業法人の株式を取得する際には、一般企業と同様に財務デューデリジェンスが必要です。
デューデリジェンスとは、買収対象企業の財務、法務、税務、事業などの実態を調査することです。
農業法人では、特に農業機械、施設、棚卸資産、借入金などの確認が重要になります。
例えば、貸借対照表に農業機械が2,000万円計上されていたとしても、その金額が実際の市場価値や今後の利用価値を表しているとは限りません。
機械の老朽化が進んでいれば、承継後に多額の更新費用が発生する可能性があります。
また、収穫したコメなどの棚卸資産については、数量、品質、販売可能性、評価方法を確認する必要があります。
農業法人では、天候や収穫量によって業績が大きく変動する場合があります。
そのため、単年度の利益だけでなく、複数年度の業績を分析することが重要です。
さらに、農業補助金の交付を受けている場合には、補助対象資産の処分制限や返還条件などを確認する必要があります。
財務諸表に表れない将来負担を把握することが、適切な企業価値評価につながります。
農業法人の株式評価と税務上の注意点
農業法人の株式を譲渡する場合には、税務上の取り扱いも重要になります。
個人株主が保有する非上場株式を売却した場合、原則として譲渡所得に対して所得税及び住民税が課税されます。
通常の株式譲渡所得に対する税率は、復興特別所得税を含めて20.315%です。
例えば、個人株主が取得費などを控除した後の譲渡益として3,000万円を得た場合、他の課税関係や特例を考慮しない単純計算では、税負担は約609万円となります。
ただし、株式の取得費、譲渡費用、譲渡先との関係などによって具体的な税務処理は異なります。
また、非上場株式の売買価格を決定する際には、法人の純資産や収益力などを考慮する必要があります。
農業法人の場合、農地の評価や農業機械の時価、将来の設備投資負担なども重要な検討要素です。
なお、第三者間で合意した株式売買価格と、相続税や贈与税の計算に用いる非上場株式の評価額は、必ずしも一致しません。
特に親族間や同族関係者間で株式を移転する場合には、低額譲渡や贈与税などの問題が生じる可能性があります。
農業法人の事業承継では、株式の価格決定と税務上の評価を区別して考える必要があります。
事業承継後の経営体制が成功を左右する
農業法人の事業承継は、株式の取得が完了すれば成功というわけではありません。
重要なのは、承継後に安定した経営を続けられるかどうかです。
農業法人では、栽培技術や農地の管理方法など、長年の経験に基づく知識が重要な役割を果たしています。
経営者が交代する際には、こうした技術や経験を次世代に引き継ぐ必要があります。
また、農業法人は地域社会との関係によって支えられています。
農業用水の管理、農道の維持、地域の共同作業などは、周辺農家との協力が欠かせません。
外部企業が経営に参加する場合でも、地域との信頼関係を維持することが重要です。
さらに、承継後には中長期の経営計画を策定する必要があります。
作付面積の拡大、農業機械の更新、人材確保、販売先の開拓などを計画的に進めることが求められます。
JR東日本の取り組みでは、鉄道会社の経営管理能力と農業法人の生産技術を組み合わせることが期待されています。
異なる分野の経営資源を活用できるかどうかが、今後の成果を左右するでしょう。
農業法人のM&Aが広がるための条件
今後、農業法人の第三者承継が広がるためには、いくつかの条件が必要です。
まず、農業法人の経営情報を適切に把握できる仕組みが重要です。
中小規模の農業法人では、経営者個人の経験に依存している業務も多く、外部企業が経営実態を把握することが難しい場合があります。
財務諸表の整備や原価管理の高度化は、第三者承継を円滑に進めるための基盤になります。
次に、農業制度に精通した専門家の存在が重要です。
一般的なM&Aの知識だけでは、農地法や農業法人制度に関する問題に十分対応できない場合があります。
税理士、弁護士、司法書士、行政書士などが、それぞれの専門領域で連携することが求められます。
また、農業委員会や自治体、農地中間管理機構などとの調整も重要になります。
さらに、買い手企業には短期的な利益だけでなく、地域農業を長期的に維持する視点が必要です。
農業は天候や市場価格の変動を受けやすく、設備投資の回収にも時間がかかる場合があります。
そのため、長期的な経営戦略を持つ企業の参加が期待されます。
結論
JR東日本による農業法人の事業承継は、日本の農業に新しい可能性を示しています。
後継者不足に悩む農業法人に対して、外部企業が資本や人材、経営管理能力を提供することで、事業の継続と成長を支援できる可能性があります。
しかし、農業法人の株式取得には、一般企業のM&Aとは異なる法的な制約があります。
特に農地を所有する法人では、農地所有適格法人の要件を維持することが重要です。
また、株式譲渡と事業譲渡では、農地の権利関係や必要な手続きが異なります。
事業承継を検討する際には、農地法、会社法、税法、会計、労務管理などを総合的に確認する必要があります。
さらに、農業法人の価値は、貸借対照表に計上された資産だけで判断できません。
栽培技術、従業員の経験、地域との信頼関係、安定した販売先なども重要な経営資源です。
今後、日本の農業では第三者承継の重要性が一段と高まると考えられます。
その際に求められるのは、単なる株式取得ではなく、農業法人が持つ経営資源を守りながら、生産性と収益性を高める仕組みです。
JR東日本の挑戦は、農業法人の事業承継を通じて、地域産業の維持と企業経営の高度化を両立できるかを考える重要な事例といえるでしょう。
参考
日本経済新聞 2026年10月22日 JR東日本、岩手の農業法人を事業承継 コメ農家の生産性向上を後押し
農林水産省 農地所有適格法人制度に関する資料
農林水産省 一般法人の農業参入に関する資料
国税庁 株式等を譲渡したときの課税に関する資料
国税庁 取引相場のない株式の評価に関する資料