日本のスタートアップが世界的な企業へ成長するためには、優れた技術や経営者だけでなく、リスクを引き受ける投資家の存在が不可欠です。
しかし、日本のベンチャー投資には、投資家が損失を回避する一方で、創業者個人に過度な責任を負わせる契約慣行が残っています。
その代表例が、株式買い取り請求権です。
一定の条件を満たした場合に、ベンチャーキャピタルが保有株式の買い取りを求める仕組みですが、請求の相手方が創業者個人となっている場合には、深刻な問題が生じます。
事業が計画通りに成長しなかっただけで、創業者が多額の資金を負担する可能性があるからです。
本来、株式投資は投資家が事業リスクを引き受ける金融手法です。
それにもかかわらず、投資家が損失を回避し、起業家にリスクを転嫁する契約が存在することは、ベンチャー投資の本質に関わる問題といえます。
今回は、株式買い取り請求権の仕組みと問題点を整理し、日本のスタートアップ市場に必要な契約改革について考えます。
株式買い取り請求権とは何か
株式買い取り請求権とは、一定の条件が発生した場合に、投資家が保有する株式を会社や創業者などに買い取るよう求める契約上の権利です。
例えば、ベンチャーキャピタルがスタートアップに5億円を出資したとします。
投資契約において、一定期限までに株式上場が実現しなかった場合、投資家が保有株式の買い取りを請求できると定めることがあります。
買い取り価格についても、投資額や一定の算定方法に基づいて決める契約が考えられます。
仮に5億円での買い取り義務が創業者個人に生じた場合、創業者は多額の資金を用意しなければなりません。
しかし、株式上場に至らなかった企業の創業者が、個人で5億円を支払えるとは限りません。
企業の経営状況が悪化していれば、創業者が保有する株式の価値も低下している可能性があります。
そのような状況で個人に買い取り義務を負わせれば、創業者の生活基盤そのものが脅かされかねません。
ただし、株式買い取り請求権が存在するだけで、必ず創業者個人に支払義務が生じるわけではありません。
請求の相手方、発動条件、価格算定方法などは契約によって異なります。
特に、会社が自己株式を取得する場合には、会社法上の財源規制などにも注意が必要です。
問題となるのは、通常の事業リスクまで創業者個人に負担させるような契約です。
株式投資と銀行融資ではリスクの負担方法が異なる
株式買い取り請求権の問題を理解するためには、株式投資と銀行融資の違いを確認する必要があります。
銀行融資では、企業は借り入れた資金を契約に従って返済します。
銀行は利息収入を得る一方、貸し倒れのリスクを負担します。
企業の信用力によっては、担保や保証を求めることもあります。
これに対して、株式投資では原則として元本の返済義務がありません。
投資家は株主として企業の成長による利益を期待しますが、事業が失敗すれば投資額の一部または全部を失う可能性があります。
例えば、投資家が1億円を出資した企業の価値が10倍になれば、大きな投資利益を得る可能性があります。
一方、企業が倒産すれば、株式の価値がゼロになることもあります。
この利益と損失の両方を引き受けることが、株式投資の基本的な仕組みです。
ところが、創業者個人に広範な株式買い取り義務を負わせる契約では、投資家が株式投資の利益を期待しながら、損失の一部を創業者に負担させる構造になります。
株式投資でありながら、元本の回収を保証に近い形で確保しようとする点に問題があります。
なぜ日本では創業者個人への責任追及が行われてきたのか
日本の金融市場は、長年にわたって銀行融資を中心に発展してきました。
銀行融資では、借入金の返済を確保するため、経営者個人に保証を求める慣行が存在してきました。
特に中小企業金融では、企業と経営者個人の資産や信用が一体的に評価されることも少なくありませんでした。
こうした金融文化が、ベンチャー投資の契約慣行にも影響してきた可能性があります。
また、ベンチャーキャピタルには、投資先企業の情報を十分に把握することが難しいという問題があります。
創業者が技術や事業の詳細を把握している一方、投資家が得られる情報には限界があります。
投資家は、創業者による不正行為や重大な契約違反から資金を守る必要があります。
そのため、一定の条件で株式買い取り請求権を設けることには合理性があります。
しかし、創業者の不正行為と通常の事業上の失敗は区別しなければなりません。
例えば、財務情報を意図的に偽って資金調達した場合と、研究開発が計画通りに進まなかった場合では、責任の性質が異なります。
前者では創業者の責任を追及する合理性があります。
一方、後者は投資家が本来想定すべき事業リスクです。
両者を区別せず、創業者個人に広範な責任を負わせることは、適切なリスク分担とはいえません。
株式上場できなかっただけで責任を負うことの問題
スタートアップの成長には不確実性が伴います。
特に、人工知能や核融合、宇宙、創薬などの分野では、研究開発や事業化に長期間を要することがあります。
当初の計画では5年後に株式上場を目指していても、技術開発の遅れや市場環境の変化によって、上場時期を延期することは十分に考えられます。
また、株式市場の低迷によって、企業の業績が良好でも上場を見送る場合があります。
こうした事情は、必ずしも経営者の責任によるものではありません。
それにもかかわらず、期限までに株式上場できなかったことを理由として、創業者個人に株式買い取り義務が生じる契約では、経営判断にゆがみが生まれる可能性があります。
例えば、企業価値を長期的に高めるためには、株式上場を数年間延期する方が合理的な場合があります。
しかし、上場期限を守らなければ個人責任が発生するのであれば、創業者は十分な成長を実現する前に上場を急ぐかもしれません。
その結果、企業の長期的な成長よりも、投資家の資金回収が優先されることになります。
投資契約が企業の成長戦略を制約するのであれば、本末転倒です。
ゼロリスクルールが起業家の挑戦を妨げる
ベンチャー投資では、すべての投資先企業が成功するわけではありません。
むしろ、多数の投資先のうち、一部の企業が大きく成長することで、ファンド全体の投資収益を確保する構造が一般的です。
例えば、10社にそれぞれ1億円を投資したとします。
そのうち7社の投資価値がゼロになり、2社が投資額の2倍、残る1社が20倍になれば、合計回収額は24億円になります。
投資総額10億円に対して、回収倍率は2.4倍です。
これは単純化した例ですが、ベンチャー投資の特徴を示しています。
重要なのは、すべての投資先で損失を避けることではありません。
大きく成長する可能性を持つ企業を発掘し、その成長を支援することです。
ところが、投資家が個々の投資案件で元本回収を重視しすぎると、起業家に対して過度な責任を求めることになります。
創業者が失敗によって個人資産を失う可能性を意識すれば、革新的な事業への挑戦を控えるかもしれません。
成功すれば社会に大きな価値を生み出す技術であっても、失敗の可能性が高ければ事業化されなくなります。
このような状態が続けば、日本全体の技術革新や産業競争力にも影響します。
優先株式による投資家保護とは区別する必要がある
ベンチャー投資では、投資家の権利を保護するために優先株式が利用されることがあります。
代表的な仕組みが残余財産分配や企業売却時の優先的な分配です。
例えば、投資家が5億円を出資し、一定の優先分配権を持つ契約を締結したとします。
その後、企業が売却される場合には、契約で定めた条件に従って投資家が優先的に資金を受け取ることがあります。
このような仕組みは、投資家と創業者の利益配分を調整するために利用されます。
ただし、投資家が優先的に分配を受けることと、創業者個人が投資元本を保証することは異なります。
例えば、企業の売却代金が投資額を下回れば、優先分配権があっても投資額を全額回収できない場合があります。
投資家は依然として損失を負担します。
一方、創業者個人に株式買い取り義務を負わせる契約では、企業価値とは別に個人の資産から支払いを求められる可能性があります。
この違いは重要です。
投資家の利益を合理的に保護する仕組みと、事業リスクを創業者個人に転嫁する仕組みを混同してはなりません。
経済産業省も契約慣行の見直しを求めている
日本政府も、スタートアップ投資契約の問題を認識しています。
経済産業省は2025年、株式買い取り請求に関する契約慣行の見直しを求めました。
背景には、創業者個人に過度な責任を負わせることが、起業家の挑戦を妨げるという問題意識があります。
スタートアップの成長には、経営者が合理的なリスクを取れる環境が必要です。
通常の事業上の失敗まで個人責任を追及されるのであれば、起業そのものをためらう人が増える可能性があります。
また、創業者が失敗後に再挑戦することも難しくなります。
一度の失敗によって多額の個人債務を負えば、次の事業を始めるための資金調達にも支障が生じます。
米国では、事業の失敗を経験した起業家が再び新しい企業を立ち上げる事例が数多くあります。
もちろん、米国でも創業者の不正行為や契約違反には厳しい責任が問われます。
重要なのは、通常の事業上の失敗と、不正行為による責任を区別することです。
日本でも、この区別を明確にした契約慣行を普及させる必要があります。
投資契約の改革には何が必要なのか
投資契約を改善するためには、投資家と起業家の双方が納得できるルールを整備する必要があります。
第一に、株式買い取り請求権の発動条件を明確にすることです。
単なる業績未達や株式上場の遅延を理由として、創業者個人に広範な責任を負わせることは慎重に考えるべきです。
一方、詐欺的な資金調達や重大な契約違反などについては、適切な責任追及の仕組みを設ける必要があります。
第二に、会社と創業者個人の責任を区別することです。
会社の経営上のリスクを、当然に創業者個人が負担する構造は見直す必要があります。
第三に、投資契約の標準化を進めることです。
投資契約は専門性が高く、創業者が十分に内容を理解できない場合があります。
合理的な契約条項の標準化が進めば、投資家と起業家の交渉負担を軽減できます。
第四に、投資家の運用能力を高めることです。
投資家が事業リスクを適切に評価し、複数の投資先に分散投資する能力を持てば、創業者個人に過度な責任を求める必要性は低下します。
契約改革は起業家保護だけの問題ではありません。
ベンチャーキャピタルの投資能力を高めるための改革でもあるのです。
民民規制の見直しがスタートアップ市場を変える
株式買い取り請求権の問題は、民民規制という観点からも重要です。
民民規制とは、法律による規制ではなく、民間企業同士の契約や取引慣行によって、事業活動が制約される状態を指します。
投資家と起業家の契約は、原則として当事者の自由な意思によって締結されます。
しかし、両者の交渉力が対等とは限りません。
資金調達を必要とするスタートアップは、投資家から提示された条件を受け入れざるを得ない場合があります。
特に、国内のベンチャーキャピタル市場が小さく、資金調達先の選択肢が限られている場合には、起業家の交渉力は弱くなります。
その結果、不利な契約条件が市場全体に定着する可能性があります。
こうした契約慣行は、法律によって直接強制されたものではありません。
それでも、起業家の経営判断や事業成長を制約するのであれば、経済全体にとって問題となります。
契約自由の原則を尊重しながら、不合理な慣行を改善することが求められます。
結論
株式買い取り請求権は、投資家の利益を保護するために利用される契約上の仕組みです。
しかし、その発動条件や請求の相手方によっては、創業者個人に過度な責任を負わせることになります。
特に、通常の事業上の失敗や株式上場の遅延まで個人責任の対象とする契約は、起業家の挑戦を妨げる可能性があります。
本来、ベンチャーキャピタルは、将来の成長可能性を評価し、事業リスクを引き受ける投資家です。
成功した場合には大きな利益を得る一方、失敗した場合には損失を負担することが基本になります。
もちろん、投資家の利益を保護する仕組みは必要です。
しかし、投資家保護と創業者個人への過度な責任転嫁は区別しなければなりません。
日本がスタートアップを成長戦略の中心に据えるのであれば、資金供給の拡大とともに、投資契約のあり方を見直す必要があります。
重要なのは、起業家を無条件に保護することではありません。
不正行為には適切な責任を求めながら、合理的な経営判断による失敗については、投資家も応分のリスクを負担することです。
失敗した起業家が再び挑戦できる環境を整えることは、長期的には新しい企業や産業の誕生につながります。
投資家が損失を回避することだけを優先する金融から、起業家とともにリスクを引き受ける金融へ転換することが、日本のベンチャー投資市場の発展に不可欠ではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月27日朝刊「起業家が萎縮する『ゼロリスクルール』 日本のVC投資、米国の1.5%」
経済産業省 2025年 スタートアップ投資契約における株式買い取り請求の見直しに関する資料
経済産業省 2022年3月「スタートアップの成長に向けたファイナンスに関するガイダンス」