企業法務の人材を育てるには、法律を勉強し、契約審査や訴訟対応などの経験を積ませることが基本になります。
しかし、企業法務の役割が経営や事業へ広がるにつれて、それだけでは十分ではなくなっています。
法律について詳しくても、事業がどのように利益を生み、現場が何を考えて意思決定しているのかを理解していなければ、経営に役立つ助言は難しいからです。
そこで重要になるのが、法務部門の外で仕事をする経験です。
事業部門、子会社、海外拠点、投資先企業、総務、サステナビリティーなど、異なる場所に身を置くことで、法務部門にいるだけでは見えなかったものが見えてきます。
これからの法務人材には、法律という専門性を「背骨」としながら、経営や事業を複眼的に見る能力が求められるのではないでしょうか。
法律知識は法務人材の「背骨」になる
企業法務の人材育成で、法律の専門知識が重要であることは変わりません。
契約法、会社法、独占禁止法、知的財産法、労働法、個人情報保護法など、企業活動には多くの法律が関係します。
海外事業に関われば、各国の規制や経済制裁、贈収賄規制などについても理解する必要があります。
契約書を何度も読み、法律を調べ、先輩のレビューを受ける。
こうした経験を積み重ねることで、法務担当者としての基本的な思考方法が形成されます。
この基礎を飛ばすことはできません。
しかし、法律知識はあくまで背骨です。
背骨だけでは企業経営全体を見ることはできません。
法務部にいると見えにくいものがある
法務部門には、事業部門からさまざまな相談が持ち込まれます。
しかし相談を受けるだけでは、その事業の全体像が見えない場合があります。
なぜ営業担当者がその契約条件にこだわるのか。
なぜ月末までに契約を締結する必要があるのか。
なぜ多少条件が悪くても、その取引先との関係を維持したいのか。
法務部門から見ると不合理に思えることでも、事業側には理由があるかもしれません。
顧客との長期的な関係があります。
競合企業との競争があります。
売上目標があります。
工場の稼働率があります。
資金繰りがあります。
法務部門の中だけで仕事をしていると、こうした事情を実感として理解することが難しい場合があります。
現場に出ると「正解」が1つではないと分かる
法律問題には、比較的明確な答えがある場合があります。
しかし経営の現場では、必ずしも1つの正解があるとは限りません。
例えば新しい取引を始める場合、
利益率は高いが法的リスクも高い。
利益率は低いが長期的な取引につながる。
契約条件は不利だが重要な顧客である。
今期の利益にはならないが将来の成長につながる。
といった複数の要素を同時に考える必要があります。
現場では、100点の選択肢が存在しないことも珍しくありません。
60点と70点の選択肢のどちらを取るのか。
そのような判断を繰り返しています。
法務担当者が事業の現場を経験すると、「法律的に最も安全な答え」が必ずしも「会社にとって最も良い答え」ではないことを実感できます。
法務部門の実務例 子会社への出向で見え方が変わる
例えば、本社法務部で契約審査を担当していた社員が、事業子会社へ3年間出向したとします。
本社時代には、営業部門から提出された契約書について、
「この損害賠償条項は当社に不利です」
「この条件では契約できません」
と指摘していました。
法的には正しい判断です。
ところが子会社へ出向すると、自分自身が事業計画や売上目標に関わるようになります。
ある重要顧客との大型契約について、本社法務から、
「損害賠償責任が大きいため、この条件では契約すべきではない」
という意見が届きました。
以前の自分なら同じ回答をしていたかもしれません。
しかし今度は事業側にいます。
この顧客との契約を失えば年間売上が大きく減少する。
工場の生産計画にも影響する。
他の顧客との取引拡大にも影響する可能性がある。
一方で、契約上のリスクが現実化する可能性はそれほど高くない。
そこで、本社法務と事業部門の間で、
損害賠償額に上限を設けられないか。
保険で一部をカバーできないか。
対象となる損害の範囲を限定できないか。
価格にリスク分を反映できないか。
社内の管理体制を強化できないか。
といった方法を検討します。
最終的に、リスクを一定程度抑えながら契約を成立させることができました。
この社員が法務部へ戻ったとき、契約書を見る視点は以前とは変わっているでしょう。
単に「この条項は危険だ」と指摘するだけではなく、
「この事業にとって何が重要なのか」
を考えながら代替案を提示できるようになります。
これが事業経験の大きな意味です。
子会社への出向では自分で判断する場面が増える
本社の法務部門には、多くの専門家がいます。
分からないことがあれば上司や先輩に相談できます。
重要案件であれば外部の弁護士に相談することもできます。
一方、子会社や海外拠点では事情が違います。
法務担当者が少なく、自分自身で判断しなければならない場面が増えます。
営業担当者から急な相談が来る。
経営会議で意見を求められる。
取引先との交渉に同席する。
問題が起きれば経営者と一緒に対応する。
こうした経験を通じて、法律を調べる能力だけでなく、限られた情報の中で判断する能力が鍛えられます。
企業法務で重要なのは、知識量だけではありません。
知識を使って判断する力です。
他部門を経験すると会社全体が見えてくる
法務担当者の育成先は、事業部門だけではありません。
総務、人事、経理、財務、内部監査、サステナビリティーなどを経験することにも意味があります。
例えば総務を経験すれば、取締役会や株主総会など企業統治の実務が見えてきます。
経理や財務を経験すれば、利益やキャッシュフロー、投資採算など数字から事業を見る視点が身につきます。
内部監査を経験すれば、個別の法律問題ではなく、会社全体の内部統制を見ることになります。
それぞれの経験が法務の専門性と組み合わさることで、より広い視点から経営を考えられるようになります。
社内ネットワークも重要な財産になる
法務部門の外で働くメリットは、知識や経験だけではありません。
人間関係も大きな財産になります。
企業法務では、法務部門だけで問題を解決することはほとんどありません。
営業、経理、人事、情報システム、広報、内部監査など、多くの部門と連携します。
普段から他部門との信頼関係があれば、
「少し気になることがあるので相談したい」
という情報が早い段階で法務に入ってきます。
問題が大きくなってから法務に持ち込まれる会社と、小さな段階で相談される会社では、リスク管理能力に大きな差が生まれます。
法務担当者が社内のさまざまな部署を経験することは、こうしたネットワークをつくる意味でも有効です。
法務に戻ったときに経験を生かせるか
ただし、単に異動させれば人材が育つわけではありません。
重要なのは、法務部門へ戻った後に経験を生かすことです。
事業部門で何を学んだのか。
どのような判断に悩んだのか。
法務部門の助言で役立ったものは何だったのか。
逆に、事業側から見て使いにくかった助言は何だったのか。
こうした経験を法務部門内で共有すれば、個人だけでなく組織全体の能力向上につながります。
人事異動を単なるローテーションにするのではなく、法務機能を強化するための育成制度として設計することが重要です。
専門性が薄くなる心配もある
一方で、法務担当者を他部門へ異動させることには難しさもあります。
法律から離れている期間が長くなると、専門知識が薄れる可能性があります。
法改正や新しい判例についていけなくなることも考えられます。
そのため、
若手のうちは法務の基礎を十分に身につける。
その後に他部門を経験する。
一定期間後に法務へ戻す。
戻った後も専門研修を行う。
といった育成設計が必要でしょう。
法律という「背骨」をつくる前に異動を繰り返せば、専門性が十分に育たない可能性があります。
専門性と幅広い経験の両方をどう確保するかが重要になります。
AI時代には「経験」の価値がむしろ高まる
生成AIが普及すると、法務人材の育成にも新しい問題が生じます。
法律を調べる。
契約書を比較する。
論点を整理する。
文書の案を作る。
こうした仕事の一部はAIが担うようになるでしょう。
若手社員が従来経験してきた仕事が減る可能性があります。
しかし、経営判断に必要な能力は、AIから回答を受け取るだけでは身につきません。
顧客と交渉する。
事業部門と議論する。
経営会議で意見を求められる。
自分の判断が事業結果につながる。
失敗して、その理由を考える。
こうした経験によって判断力は形成されます。
AIによって知識を得るコストが下がるほど、人間が実際の現場で経験することの価値は、むしろ高まる可能性があります。
法務人材のキャリアも変わる
これからは、
法務部門に入り、法務部門の中だけで昇進し、法務部長になる。
という一本道だけが法務人材のキャリアではなくなるかもしれません。
法務から事業部門へ行く。
海外子会社を経験する。
総務やサステナビリティーを担当する。
子会社経営に関わる。
そして法務トップとして戻る。
こうしたキャリアも増えていくでしょう。
企業法務が経営機能へ進化するのであれば、そのトップを育てる方法も経営人材の育成に近づいていくはずです。
結論
企業法務の専門性は重要です。
法律を知らなければ、法務担当者として適切な判断はできません。
しかし、法律だけを知っていても、経営に役立つ法務にはなれません。
事業には売上があります。
利益があります。
顧客があります。
競争があります。
従業員がいます。
そして、時間の制約があります。
そうした現実の中で、どこまでリスクを取り、どのリスクを避けるのかを考える必要があります。
その感覚は、法務部門の机の上だけでは身につきにくいものです。
法律という強い背骨を持ちながら、法務部門の外へ出て異なる経験を積む。
そして再び法務へ戻り、その経験を経営判断に生かす。
AIが法律知識や定型作業を急速に代替していく時代だからこそ、現場を知り、自分で判断した経験を持つ法務人材の価値は、これまで以上に高まるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「企業の法務機能は進化できるか 役割や育成、法務トップ経験者に聞く」
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「『違和感は口に出して』経営判断支える 三菱商事・野島嘉之氏」
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「AIの時代、価値判断に責任 弁護士、元米グーグル日本法人・野口祐子氏」
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「AI前提の再設計が課題に」