年収の壁は、単なる税金や社会保険料の問題ではありません。
長年にわたり、日本の働き方そのものに影響を与えてきました。
その影響が特に表れやすかったのが、配偶者の扶養に入りながらパートなどで働く女性です。
結婚や出産を機にフルタイム勤務から離れ、その後パートとして再び働き始める。
その際に、税や社会保険の基準を意識して勤務時間を調整する。
こうした働き方は珍しいものではありません。
年収の壁を考えることは、女性の就業、所得、キャリア、老後の年金まで考えることにつながります。
年収の壁が働く時間の目安になってきた
パートで働く人にとって、年収の壁は勤務時間を決める重要な目安として意識されてきました。
一定の年収を超えると税負担や社会保険の扱いが変わる。
配偶者の勤務先の家族手当などに影響する場合もある。
そのため、本来どれだけ働けるかではなく、年収をいくらまでに抑えるかという発想から勤務時間を決めるケースが生まれました。
年末になると収入を計算し、シフトを減らす。
時給が上がれば勤務時間を短くする。
年収の壁は、働き方を決める事実上の基準の1つになってきました。
家庭との両立だけが短時間勤務の理由ではない
女性が短時間勤務を選ぶ背景には、さまざまな事情があります。
育児。
介護。
家事。
健康上の事情。
本人の希望。
こうした事情から短時間勤務を選ぶことには合理性があります。
一方で、本当はもう少し働けるにもかかわらず、年収の壁を超えたくないという理由から勤務時間を減らす人もいます。
この2つは分けて考える必要があります。
本人が望んで短時間で働くことと、制度上の境界線を理由に働く時間を抑えることは同じではありません。
働き控えは408万人
伊藤忠総研の推計によると、2026年4月から6月に年収の壁を意識して働く時間を抑えていた短時間労働者は408万人いました。
2022年と比べて37万人減っていますが、依然として大きな規模です。
もちろん、この408万人がすべて女性というわけではありません。
しかし、配偶者の扶養と短時間勤務の関係を考えるうえで、働き控えが現在も大きな労働市場の問題であることが分かります。
制度改正が進んでも、壁を意識した働き方は残っています。
時給上昇が勤務時間を減らすこともある
2026年度の最低賃金の全国加重平均は1,177円です。
時給が上昇すれば、本来は年収も増えます。
ところが扶養内勤務を続けようとすると、時給が上がった分だけ勤務時間を減らすことがあります。
年収130万円を目安として単純計算すると、時給1,177円で働ける時間は年間約1,104時間です。
週平均では約21時間になります。
さらに時給が上昇すれば、同じ年収以内で働ける時間は短くなります。
賃上げが進むほど、扶養内勤務と労働時間の関係を見直す必要性が高まっています。
収入を抑える期間が長いほど差は積み上がる
年収の壁の影響は、1年間だけでは分かりにくい部分があります。
例えば本来は年収200万円まで働ける人が、130万円付近に収入を抑えたとします。
額面上の差は年間70万円です。
これが10年間続けば単純計算で700万円、20年間なら1,400万円になります。
もちろん、年収が増えれば税金や社会保険料も増えるため、その全額が手取りの差になるわけではありません。
それでも、長期間収入を抑えることで得られなかった給与は積み上がります。
厚生年金にも影響する
勤務時間を抑え、厚生年金に加入しない働き方を長期間続ければ、将来受け取る年金にも影響します。
配偶者の扶養に入り第3号被保険者となっている場合でも、一定の要件を満たせば老齢基礎年金を受け取れます。
一方、自ら厚生年金に加入すれば、老齢基礎年金に加えて報酬と加入期間に応じた老齢厚生年金が上乗せされます。
現役時代の手取りだけを見ると社会保険料負担がない方が有利に見える場合があります。
しかし、老後まで含めると比較する項目が増えます。
キャリア形成への影響もある
勤務時間の違いは、収入と年金だけに影響するわけではありません。
仕事の経験にも差が生じる可能性があります。
勤務時間が長くなれば、新しい業務を担当する機会が増えることがあります。
責任のある仕事を任される。
昇給する。
管理職やリーダー職への道が開く。
正社員への転換につながる。
もちろん短時間勤務でもキャリアを形成できる職場はあります。
しかし、年収の壁を理由に勤務時間や担当業務を長期間限定すれば、キャリア形成の機会に影響する可能性があります。
世帯単位から個人単位へ
年収の壁には、世帯単位で家計を考える発想が強く関係しています。
配偶者の扶養に入る。
世帯全体で社会保険料負担を抑える。
配偶者の勤務先の家族手当を維持する。
短期的には合理的な判断になる場合があります。
一方、人生100年時代では、個人単位で経済的な基盤を持つことも重要になります。
働く期間が長くなり、老後も長くなれば、自分自身の収入や年金をどのように形成するかという視点の重要性が高まります。
106万円撤廃は1つの転換点
2026年10月から、短時間労働者の社会保険加入をめぐる106万円の賃金要件は撤廃されました。
これは年収の金額によって働き方を調整する仕組みを見直す大きな動きです。
しかし、年収の壁がすべてなくなったわけではありません。
配偶者の社会保険の扶養に関係する130万円の壁は残っています。
社会保険加入に関係する週20時間という労働時間要件もあります。
106万円という壁がなくなった後も、別の基準を意識した働き控えが続く可能性があります。
女性だけの問題として考えない
年収の壁は女性の働き方との関係で語られることが多くあります。
しかし、本来は性別にかかわらない問題です。
男性が配偶者の扶養に入る場合もあります。
高齢者や学生など、短時間で働く人にも社会保険の加入基準は関係します。
さらに共働き世帯が増え、家族の働き方は多様化しています。
これからの制度を考える際には、夫が主に働き、妻が扶養内で働くという特定の世帯像だけを前提にしないことが重要です。
働く時間を本人が選べることが重要
目指すべきなのは、全員が長時間働く社会ではありません。
育児や介護などのため短時間勤務を必要とする人が、無理なく働ける環境は必要です。
同時に、もっと働きたい人が制度上の壁だけを理由に勤務時間を減らさなくてもよい環境も必要です。
週15時間働きたい人は週15時間働く。
週25時間働きたい人は週25時間働く。
フルタイムを希望する人はフルタイムで働く。
制度上の境界線ではなく、本人の希望や生活に応じて働き方を選べることが重要です。
結論
年収の壁は、長年にわたり女性の働き方に大きな影響を与えてきました。
扶養内に収入を抑えるため勤務時間を調整すれば、現在の社会保険料負担を抑えられる場合があります。
一方、その働き方を長期間続ければ、現役時代の給与、厚生年金、キャリア形成などにも影響する可能性があります。
2026年10月には106万円の賃金要件が撤廃されました。
しかし、130万円の壁や週20時間という基準は残っています。
最低賃金が上昇するなかでは、一定の年収以内で働ける時間も短くなります。
これから重要なのは、扶養内か扶養外かという2択だけで女性の働き方を考えないことです。
現在の手取り。
将来の年金。
キャリア。
家庭との時間。
本人が大切にしたいものは人によって異なります。
年収の壁によって働き方が決まるのではなく、一人ひとりが希望する働き方を選び、その結果として収入や社会保障が自然についてくる制度へ変えていくことが求められています。
参考
日本経済新聞 2026年10月1日朝刊 労働臨界「働き控え」なお400万人超 「年収の壁」106万円撤廃