完全キャッシュレス社会より誰も取り残さない金融社会へ

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世界有数のデジタル先進国であるシンガポールで、現金を利用できる環境を改めて整備する動きが広がっています。

スマートフォンやQRコードを使った決済が普及し、銀行店舗やATMの利用が減少するなかで、現金へのアクセスを確保する必要性が再認識されているのです。

シンガポールでは、2025年時点でデジタル決済の普及率が92%に達しています。

銀行口座と連携した送金サービスであるPayNowにも、成人の約9割が登録しています。

それにもかかわらず、銀行業界は2027年末までに、公団住宅の近くに現金を引き出せる拠点を確保する方針を示しました。

背景にあるのは、急速な高齢化です。

デジタル技術が進歩しても、全ての人が同じように利用できるわけではありません。

また、システム障害や自然災害が発生すれば、普段は便利なキャッシュレス決済が利用できなくなる可能性もあります。

この10回シリーズでは、シンガポールの現金回帰を出発点として、高齢社会における金融サービスのあり方を考えてきました。

最終回では、日本が目指すべき金融社会について、銀行経営、金融政策、社会保障、家計管理の観点から総括します。

キャッシュレス化の目的を見失ってはいけない

キャッシュレス化は、社会の効率性を高める重要な取り組みです。

現金の輸送や保管、計数などにかかる費用を削減できる可能性があります。

店舗では会計処理を迅速化でき、利用者は現金を持ち歩かなくても買い物ができます。

また、決済履歴を記録しやすくなるため、家計管理や企業の経理処理にも役立ちます。

しかし、キャッシュレス決済の普及率を高めること自体が、金融政策の最終的な目的ではありません。

本来の目的は、国民が安全で便利な決済サービスを利用できる環境を整えることです。

例えば、キャッシュレス決済の普及率が100%に近づいても、一部の高齢者が買い物や銀行取引を行えなくなれば、社会全体の利便性が高まったとは言い切れません。

金融サービスの評価では、利用率だけでなく、誰が利用できているのかを確認する必要があります。

デジタル化の成果は、技術の普及率だけでは測れないのです。

シンガポールの現金回帰が示した重要な教訓

シンガポールの現金回帰には、重要な教訓があります。

それは、デジタル化が進んだ社会でも、現金を必要とする人が存在するということです。

シンガポールでは、65歳以上の国民の割合が2016年の13%余りから2026年には20%を超えました。

高齢化が進むなかで、銀行アプリの操作やQRコード決済に不安を感じる人への対応が課題になっています。

一方、ATMの設置台数は減少してきました。

2024年のATM設置台数は2,506台で、2018年のピークから22%減少しています。

現金の利用が減少すれば、銀行がATMを削減することには経営上の合理性があります。

しかし、現金を必要とする人にとっては、ATMの減少が生活上の負担になる可能性があります。

そこでシンガポールの三大銀行は、2027年末までに公団住宅であるHDBの全てについて、500メートル以内に現金を引き出せる拠点を設ける方針を示しました。

注目すべきなのは、キャッシュレス化を止めるのではなく、現金へのアクセスを補完しようとしていることです。

日本も、この考え方から学ぶ必要があります。

高齢社会では金融サービスの選択肢が重要になる

日本では、人口の約3割を65歳以上が占めています。

今後も高齢化が進むなかで、金融サービスに求められる条件は変化していくでしょう。

高齢者のなかには、スマートフォンを積極的に利用する人がいます。

一方、画面の文字が読みづらかったり、複雑な認証手続きに不安を感じたりする人もいます。

また、同じ人でも、年齢を重ねるにつれて利用できるサービスが変化する可能性があります。

60代では問題なく銀行アプリを使えていても、80代や90代になって同じように操作できるとは限りません。

そのため、金融機関には利用者の状況に応じた複数のサービスを提供することが求められます。

例えば、日常的な取引はスマートフォンで行いながら、必要に応じてATMや窓口を利用できる仕組みです。

また、本人の判断能力が低下した場合に備え、正式な代理人制度などを利用できることも重要です。

金融サービスの選択肢を確保することは、高齢社会への対応の基本になります。

現金アクセスを生活インフラとして考える

現金は、単なる支払い手段ではありません。

銀行口座に預金があっても、必要なときに現金を引き出せなければ、生活に支障が生じる場合があります。

特に高齢者や障害のある人、デジタル機器を利用できない人にとって、現金は重要な生活手段です。

また、災害やシステム障害が発生した場合にも、現金が役立つことがあります。

このため、現金へのアクセスは、社会全体で考えるべき生活インフラの一つといえます。

ただし、全ての地域に従来と同じ数の銀行店舗やATMを維持することが最適とは限りません。

利用者が少ない設備を維持すれば、金融機関の経営負担が大きくなる可能性があります。

重要なのは、設備の数ではなく、必要な人が実際に利用できる環境を確保することです。

例えば、銀行の共同ATMやコンビニATM、郵便局などを活用する方法があります。

地域の人口構成や交通事情に応じた対応が必要です。

銀行経営には効率性と公共性の両立が求められる

銀行は民間企業であり、健全な経営を維持する必要があります。

店舗やATMの維持費用が増加すれば、経営に負担が生じます。

そのため、デジタル化によって事務処理を効率化し、経費を削減することには合理性があります。

一方、銀行は預金や決済を通じて社会の経済活動を支える重要な役割を担っています。

特に地方では、銀行店舗やATMが地域住民の生活に欠かせない場合があります。

銀行の経営効率化によって金融サービスへのアクセスが著しく低下すれば、地域社会にも影響が及びます。

したがって、銀行経営には効率性と公共性を両立させる視点が必要です。

例えば、定型的な取引はデジタル化し、対面での支援が必要な業務に人的資源を振り向ける方法があります。

また、複数の金融機関が設備を共同利用することで、費用負担を抑えながらサービスを維持することも考えられます。

これからの銀行経営では、店舗やATMの削減数だけでなく、利用者が必要な金融サービスを継続して利用できるかが重要な評価基準になります。

金融包摂を政策目標に位置付ける

金融包摂とは、年齢や所得、居住地域などにかかわらず、必要な金融サービスを利用できる環境を整えることです。

銀行口座を開設できることだけでなく、預金を安全に管理し、必要なときに支払いを行えることも重要です。

日本では、銀行口座やATMなどの金融インフラが広く整備されています。

しかし、人口減少や高齢化によって、地域によっては金融サービスへのアクセスが難しくなる可能性があります。

そのため、金融包摂を今後の金融政策における重要な課題として考える必要があります。

例えば、銀行店舗やATMの設置状況だけでなく、住民が最寄りの金融サービス拠点まで移動するために必要な時間を調べる方法があります。

高齢化率や公共交通機関の状況を組み合わせれば、金融アクセスに課題のある地域を把握しやすくなります。

また、デジタルサービスの利用が難しい人に対して、操作支援や相談窓口を提供することも重要です。

金融包摂は、単なる福祉政策ではありません。

国民が経済活動に参加するための基盤を整える政策でもあるのです。

現金を使う自由と社会保障の関係

社会保障制度は、高齢や病気、障害、失業などによって生活上の困難が生じた場合に、国民の生活を支える仕組みです。

公的年金や医療保険、介護保険、生活保護などが代表的です。

これらの制度によって給付を受けても、その資金を実際に利用できなければ、生活を十分に支えることはできません。

例えば、公的年金が銀行口座に振り込まれても、本人が現金を引き出せず、デジタル決済も利用できなければ、日常生活に支障が生じる可能性があります。

この意味で、金融アクセスの確保は社会保障制度の実効性を支える重要な要素です。

ただし、現金へのアクセスが現行法上、直ちに社会保障上の権利として位置付けられているわけではありません。

現金を利用できる環境をどこまで公的に保障するかについては、制度の目的や費用負担を含めた議論が必要です。

重要なのは、金融サービスを利用できないことによって、生活上の不利益が過度に生じないようにすることです。

システム障害への備えは社会全体の課題になる

キャッシュレス化が進むほど、金融システムへの依存度が高まります。

銀行や決済事業者のシステムが停止すれば、多くの利用者が同時に影響を受ける可能性があります。

シンガポールでは2023年、データセンターの冷却設備の故障によって、DBS銀行などの金融サービスに影響する障害が発生しました。

この事例は、高度なデジタル金融システムも、電力や空調などの物理的な設備に依存していることを示しています。

日本でも、自然災害や通信障害、サイバー攻撃などによって決済サービスが利用できなくなる可能性があります。

そのため、金融機関にはバックアップ体制や業務継続計画の整備が求められます。

また、利用者側も複数の決済手段を確保することが重要です。

現金を一定額備えておくことや、異なる仕組みの決済手段を利用できるようにしておくことが考えられます。

ただし、現金にも盗難や紛失などのリスクがあります。

完全に安全な決済手段は存在しません。

複数の手段を組み合わせることで、社会全体の決済機能を維持することが重要になります。

デジタル化の成果を誰もが享受できる仕組み

デジタル化の恩恵を広げるためには、利用者に新しい技術への適応を求めるだけでは十分ではありません。

金融サービスそのものを分かりやすく設計する必要があります。

例えば、銀行アプリの文字を大きく表示できる機能や、操作手順を簡略化した画面が考えられます。

また、振込先や金額を確認しやすくすることも重要です。

不正利用を防ぐための認証手続きについても、安全性と操作のしやすさを両立させる必要があります。

さらに、困ったときに相談できる窓口を確保することも欠かせません。

高齢者や障害のある人の意見をサービス設計に取り入れることも有効です。

最初から多様な利用者を想定した仕組みを構築することが、金融包摂につながります。

自治体と金融機関の連携が重要になる

金融アクセスの問題は、銀行だけで解決できるものではありません。

人口減少や高齢化、公共交通機関の縮小など、地域社会の課題と密接に関係しているためです。

そのため、自治体と金融機関の連携が重要になります。

例えば、自治体が地域内の銀行店舗やATMの設置状況を把握し、金融サービスを利用しにくい地域を調査する方法があります。

そのうえで、銀行や信用金庫、郵便局、コンビニなどと協議し、必要なサービスを確保することが考えられます。

また、高齢者向けのデジタル金融サービスの利用支援を、地域の学習機会などと組み合わせる方法もあります。

ただし、公的支援を行う場合には、費用対効果や公平性を検証する必要があります。

地域の実情に応じて、持続可能な金融インフラを構築することが重要です。

人生100年時代の家計管理も変わる

金融社会の変化に対応するためには、個人の家計管理も見直す必要があります。

人生100年時代には、金融サービスを利用する期間が長くなります。

現役時代には複数の銀行口座やクレジットカードを使い分けていても、高齢期には管理が負担になる場合があります。

そのため、銀行口座や決済手段の役割を整理することが重要です。

例えば、生活費の決済口座と貯蓄口座を分けて管理する方法があります。

また、普段はキャッシュレス決済を利用しながら、必要なときには現金を利用できるようにしておくことも大切です。

さらに、認知機能の変化や相続に備え、金融資産の情報を整理しておく必要があります。

家族が支援する場合には、本人の意思を尊重し、金融機関の正式な代理人制度などを利用することが重要です。

老後の家計管理では、利便性だけでなく、長期間にわたって安全に利用できることが求められます。

日本が目指すべき金融社会の姿

日本が目指すべきなのは、現金を完全になくす社会でも、デジタル化を止める社会でもありません。

デジタル化によって利便性や効率性を高めながら、現金を必要とする人へのアクセスを確保する社会です。

そのためには、金融機関が複数の決済手段を提供し、利用者が自分に合った方法を選択できる環境が必要です。

また、金融機関と自治体が連携し、地域の事情に応じた金融サービスを維持することも重要です。

高齢者や障害のある人などが、必要な金融サービスを利用できるようにすることも欠かせません。

さらに、システム障害や災害に備え、社会全体の決済機能を維持する仕組みを整える必要があります。

こうした取り組みを通じて、利便性と安全性、公平性を兼ね備えた金融社会を構築することが求められます。

結論

シンガポールの現金回帰は、金融のデジタル化が進んだ社会においても、現金が重要な役割を果たしていることを示しています。

キャッシュレス決済は便利ですが、全ての人が同じように利用できるわけではありません。

高齢化が進む社会では、身体機能や認知機能、生活環境の違いに対応する必要があります。

また、システム障害や自然災害に備えるためにも、複数の決済手段を確保することが重要です。

日本の銀行には、デジタル化による経営効率化と、利用者の金融アクセスを両立させることが求められます。

金融政策においても、キャッシュレス決済の普及率だけでなく、誰もが必要な金融サービスを利用できるかを重視する必要があります。

そして、個人の家計管理でも、現金とデジタルを適切に組み合わせ、年齢や生活環境の変化に対応することが大切です。

人生100年時代には、誰もが長期間にわたって金融サービスを利用し続けます。

そのなかで最も重要なのは、最新の技術を導入することそのものではありません。

自分のお金を安心して管理し、必要なときに自由に使える環境を維持することです。

完全キャッシュレス社会を目指すことよりも、誰も取り残さない金融社会を実現することにこそ、これからの金融政策と銀行経営の本当の価値があるのではないでしょうか。

参考

日本経済新聞 2026年10月17日 デジタル先進国で「現金回帰」 高齢社会のシンガポール

シンガポール銀行協会 2026年6月 高齢社会への対応に関する行動指針

シンガポール金融通貨庁 金融システムの安定性に関する公表資料

金融庁 金融行政方針

日本銀行 決済システムに関する公表資料

内閣府 高齢社会白書

総務省 情報通信白書

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