スマートフォンが、銀行取引や買い物、行政手続きだけでなく、法律上のトラブルを解決するための窓口にもなり始めています。
未払い代金の請求、離婚後の養育費、契約をめぐるトラブルなど、従来は法律事務所や裁判所を利用する必要があった問題について、オンラインで解決を目指すサービスが登場しています。
こうした仕組みが、オンライン紛争解決手続きであるODRです。
日本では、少額の紛争ほど解決に必要な費用や時間が負担となり、正当な権利があっても請求を諦めてしまうことがあります。
ODRは、このような司法アクセスの問題を改善する可能性を持っています。
さらに、人生100年時代を迎える日本では、離婚や相続、成年後見、高齢者の消費者トラブルなど、人生のさまざまな段階で法律サービスを必要とする機会が増えていくと考えられます。
今後、人工知能であるAIの活用が進めば、法律相談や紛争解決の仕組みはさらに変化するでしょう。
今回は、これまでの連載を総括し、ODRとAIが司法サービスをどこまで変えるのか、人生100年時代の視点から展望します。
スマートフォンが司法サービスの入口になる
現在、私たちはスマートフォンを使って多くの手続きを行っています。
銀行振込や証券取引、保険契約、行政手続きなど、以前は窓口への訪問が必要だったサービスもオンライン化が進んでいます。
しかし、法律上の紛争解決については、依然として専門家への相談や書類の準備、裁判所での手続きなどに負担を感じる人が少なくありません。
例えば、個人事業主が取引先から5万円の報酬を受け取れない場合を考えます。
弁護士に依頼すれば、回収できる金額より費用が高くなる可能性があります。
自分で裁判手続きを行う場合にも、書類の作成や証拠の整理などが必要です。
その結果、請求する権利があっても、回収を諦めることがあります。
ODRでは、スマートフォンから必要な情報を入力し、相手方との協議や調停を進めることができます。
こうした仕組みが普及すれば、法律サービスを利用するための心理的な負担が小さくなる可能性があります。
司法サービスの入口が、特別な場所から日常的に利用するスマートフォンへと広がり始めているのです。
少額債権の回収が変わる
ODRの活用が進んでいる分野の一つが、少額債権の回収です。
企業では、商品代金やサービス料金の未払いが発生すると、電話やメール、郵送などによって督促を行います。
しかし、少額の未払いが大量に発生する場合には、督促業務に多くの時間と費用がかかります。
大阪市のAtoJが提供するOneNegotiationは、こうした問題に対応するサービスです。
2024年9月にサービスを開始し、報道時点で累計5万件超、28億円分の申し立てがあったとされています。
そのうち約2万件、約3億円分が解決したという実績は、オンラインによる紛争解決への需要を示しています。
例えば、スポーツジムの会費の未払いについて、利用者がスマートフォンから請求内容を確認し、支払いを選択できる仕組みがあります。
必要に応じてオンライン調停を利用することもできます。
企業にとっては、督促業務の効率化や回収率の改善につながる可能性があります。
一方、利用者にとっても、請求内容を確認し、異議がある場合には話し合う機会が得られます。
重要なのは、単に企業の債権回収を効率化するのではなく、双方が納得できる解決を目指すことです。
養育費問題にも新しい選択肢
離婚後の養育費の未払いは、日本社会が抱える重要な問題です。
厚生労働省の2021年度全国ひとり親世帯等調査では、母子世帯で養育費を現在受け取っている割合は28.1%でした。
約7割の母子世帯が養育費を受け取っていないことになります。
ただし、この数字には、養育費の取り決めをしていない家庭なども含まれます。
2026年4月には改正民法が施行され、離婚後の共同親権を選択できるようになりました。
また、養育費の取り決めがない場合でも、一定の要件のもとで子供1人につき月額2万円の法定養育費を請求できる制度が導入されました。
しかし、法律上の請求権が認められることと、実際に養育費が支払われることは別の問題です。
チャイルドサポートは、LINEなどを活用した離婚の合意形成支援サービスを提供し、2026年10月には法定養育費の請求に特化したODRサービスも開始しました。
こうした仕組みが普及すれば、仕事や育児で忙しいひとり親が、自宅から養育費の協議を進められる可能性があります。
一方、家庭内暴力や虐待などの事情がある場合には、オンラインであっても相手方との直接協議が適切とは限りません。
利用者の安全を最優先に考え、必要に応じて弁護士や公的な相談機関、家庭裁判所などにつなぐことが重要です。
離婚と財産分与のオンライン化
離婚協議では、養育費だけでなく、財産分与や年金分割、住宅ローンなどについても取り決めが必要になります。
例えば、夫婦が婚姻期間中に形成した預貯金や有価証券、不動産などは、財産分与の対象になることがあります。
また、退職金についても、婚姻期間に対応する部分が財産分与の対象になる場合があります。
さらに、厚生年金の年金分割については、財産分与とは別の制度に基づく手続きが必要です。
ODRを活用すれば、夫婦それぞれが必要な資料をオンラインで提出し、財産の全体像を整理しながら協議することが考えられます。
しかし、不動産の財産分与では、譲渡所得税や登録免許税などの税務上の問題が生じる場合があります。
住宅ローンが残っている場合には、金融機関との契約関係も確認する必要があります。
オンラインで合意できることと、法律・税務上の問題がすべて解決することは同じではありません。
今後は、ODRと弁護士、司法書士、税理士などの専門家が連携する仕組みが重要になるでしょう。
相続分野への広がり
人生100年時代において、相続は多くの家庭に関係する法律問題です。
相続では、遺産の範囲や評価額、相続人の権利関係などについて、意見が対立する場合があります。
例えば、親が亡くなり、相続人が3人いる場合を考えます。
遺産が預貯金だけであれば、比較的整理しやすいことがあります。
しかし、遺産の大部分が自宅や賃貸不動産である場合には、誰が取得するのか、どのように評価するのかが問題になります。
また、相続人が全国各地に住んでいる場合には、全員が集まって話し合うことが難しい場合もあります。
ODRを活用すれば、相続人が離れた場所にいても、資料を共有しながら協議を進められる可能性があります。
ただし、遺産分割について争いがある場合には、家庭裁判所の調停や審判などの手続きが必要になることがあります。
また、遺産分割協議書の作成や相続登記、相続税申告などについては、それぞれの専門家による支援が重要です。
相続分野でも、ODRは専門家による法律サービスを補完する仕組みとして活用される可能性があります。
成年後見と高齢者の財産管理
高齢化が進む日本では、認知症などによって判断能力が低下した人の財産管理も重要な課題です。
例えば、高齢者が金融機関との取引や不動産の売却、介護施設への入居契約などを行う際に、適切な判断が難しくなる場合があります。
こうした問題に対応する制度として、成年後見制度があります。
成年後見制度では、本人の判断能力や状況に応じて、後見人などが法律行為や財産管理を支援します。
ただし、成年後見制度は、単に家族が本人に代わって自由に財産を処分できる仕組みではありません。
本人の権利や利益を守ることが基本になります。
今後、成年後見制度の見直しやデジタル化が進む中で、オンラインによる相談や情報提供の重要性も高まる可能性があります。
例えば、家族が成年後見制度の仕組みを確認し、必要な書類や相談先を把握するためのオンラインサービスが考えられます。
一方、判断能力が低下した本人について、オンライン上の操作だけで有効な合意が成立すると考えることは適切ではありません。
本人の意思決定能力や代理権の有無などを確認する必要があります。
高齢者の財産管理では、デジタル技術による利便性と本人の権利保護を両立させることが重要です。
高齢者の消費者トラブルへの対応
高齢者をめぐる法律問題では、消費者トラブルも重要です。
例えば、訪問販売や通信販売、定期購入契約などをめぐって、契約内容の理解や解約条件が問題になる場合があります。
インターネットを利用した契約では、画面上の表示内容を十分に確認しないまま申し込みをしてしまうケースも考えられます。
こうした問題について、ODRを活用して事業者と消費者の話し合いを支援する仕組みが広がる可能性があります。
しかし、高齢者がオンラインでの手続きに不慣れな場合には、かえって負担が増えることもあります。
そのため、消費生活センターなどの相談窓口とODRを連携させることが重要です。
利用者が自分の権利を理解し、必要に応じて専門家の支援を受けられる仕組みが求められます。
また、詐欺的な取引や悪質商法などについては、単なる当事者間の話し合いだけでは解決できない場合があります。
行政機関や警察、法律専門家などとの連携も必要です。
AIが法律相談の入口を変える
今後、ODRとともに普及が期待されるのが、AIを活用した法律サービスです。
AIは、法律制度に関する一般的な情報提供や、契約書の内容整理、必要書類の確認などを支援できる可能性があります。
例えば、未払い代金の問題について、利用者が契約内容や請求金額を入力すると、一般的な解決方法を案内する仕組みが考えられます。
また、離婚や相続について、必要な資料や手続きの流れを整理することもできます。
こうした機能が普及すれば、利用者は専門家に相談する前に、自分の問題を整理しやすくなるでしょう。
ただし、AIの回答が常に正しいとは限りません。
法律の改正や個別事情を十分に反映できない場合があります。
また、AIによるサービスであっても、提供される業務の内容によっては、弁護士法などの規制が問題になります。
AIは法律専門家を完全に代替するものではなく、適切な判断を支援する道具として活用することが重要です。
専門家の仕事は高度化する
ODRやAIの普及によって、法律専門家の仕事も変化する可能性があります。
従来、専門家は相談内容の聞き取りや資料の整理、書類の作成などに多くの時間を費やしてきました。
今後、定型的な作業の一部がデジタル化されれば、専門家は高度な判断が必要な業務に集中しやすくなります。
弁護士には、複雑な法律問題の分析や代理交渉、調停、訴訟などの役割が求められます。
司法書士には、不動産登記や法令上認められた範囲での法律手続きへの対応が期待されます。
行政書士には、権利義務に関する書類の作成など、法令上認められた業務範囲での支援が求められます。
税理士には、財産分与や相続、債権放棄などに伴う税務上の問題への対応が必要になります。
重要なのは、それぞれの専門家が法定業務範囲を守りながら連携することです。
デジタル技術によって業務の提供方法が変わっても、専門家としての責任がなくなるわけではありません。
オンラインと対面の併用が必要
ODRの普及によって、すべての司法サービスがスマートフォンに集約されるとは限りません。
例えば、高齢者の中には、対面で説明を受けた方が安心できる人もいます。
また、複雑な相続紛争や家庭内暴力が関係する離婚問題などでは、オンラインだけで対応することが適切ではない場合があります。
さらに、証拠の確認や本人確認、意思能力の判断などについて、慎重な対応が必要な場面もあります。
そのため、今後の司法サービスでは、オンラインと対面を適切に組み合わせることが重要になります。
例えば、最初の相談はオンラインで行い、必要に応じて法律専門家との面談や裁判所の手続きにつなぐ方法が考えられます。
また、スマートフォンの操作が難しい人には、自治体や相談機関などが支援する仕組みも必要です。
デジタル化の目的は、対面サービスをなくすことではありません。
利用者が自分の状況に合った方法を選択できるようにすることです。
司法サービスの費用構造が変わる
ODRの普及によって、司法サービスの費用構造も変化する可能性があります。
従来の法律サービスでは、専門家の作業時間に応じて費用が発生することが一般的でした。
今後、相談内容の整理や資料提出などの定型的な作業がオンライン化されれば、手続き全体の費用を抑えられる可能性があります。
また、少額紛争に特化したサービスでは、定額料金や案件ごとの料金体系が広がることも考えられます。
一方、デジタルサービスの開発や運営には、システム費用や情報セキュリティ対策費用などが必要です。
そのため、オンライン化すれば必ず低料金になるわけではありません。
利用者にとって重要なのは、費用の安さだけでなく、適切な解決を得られるかどうかです。
今後は、サービスの利用料金、解決までの期間、合意の実効性などを比較し、利用者が合理的に選択できる環境が求められます。
国と自治体に求められる役割
ODRを社会に普及させるためには、民間事業者の取り組みだけでなく、国や自治体の役割も重要です。
法務省は2022年3月、ODRの推進に関する基本方針を策定しました。
その中では、スマートフォンなどが1台あれば、いつでもどこでも紛争解決のための効果的な支援を受けられる社会の実現を目指しています。
2026年度は、この基本方針で示された中期的な取り組みの最終年度に当たります。
今後は、これまでの成果を検証し、制度の普及に向けた課題を整理することが重要になります。
自治体には、養育費の確保や消費者トラブルへの対応など、地域住民に身近な問題について支援する役割が期待されます。
ただし、公費を投入する場合には、利用者の安全性やサービスの品質、費用対効果などを確認する必要があります。
また、民間ODR事業者の中立性や個人情報保護などについて、適切な制度的枠組みを整えることも重要です。
国と自治体、民間事業者、法律専門家が連携することで、より利用しやすい司法サービスの実現につながるでしょう。
人生100年時代の法律サービスとは
人生100年時代には、法律上の問題が特別な出来事ではなく、生活のさまざまな場面で発生する可能性があります。
若い世代では、雇用契約や賃貸住宅、消費者契約などの問題があります。
子育て世代では、離婚や養育費、住宅ローンなどの問題が生じる場合があります。
中高年世代では、親の介護や相続、事業承継などが重要になります。
高齢期には、財産管理や成年後見、介護施設との契約などが課題になることがあります。
このように、法律サービスへの需要は人生の各段階で変化します。
今後は、問題が深刻化してから専門家に相談するだけでなく、早い段階で必要な情報を得て、紛争を予防する仕組みが重要になるでしょう。
例えば、契約締結前に重要な条件を確認したり、相続が発生する前に家族で財産管理について話し合ったりすることが考えられます。
ODRとAIを活用した法律サービスは、紛争が発生した後の解決だけでなく、紛争を未然に防ぐための情報提供にも役立つ可能性があります。
結論
ODRの普及は、日本の司法サービスを大きく変える可能性があります。
未払い代金や養育費など、従来は費用や時間の問題から解決を諦めていた紛争についても、スマートフォンを通じて対応できる選択肢が広がっています。
さらに、AIの活用が進めば、相談内容の整理や必要書類の確認などが効率化され、法律専門家への相談も身近になる可能性があります。
しかし、司法サービスのすべてがスマートフォンに集約されるわけではありません。
複雑な法律問題や当事者間の力関係に配慮が必要な紛争では、法律専門家による判断や対面での支援が重要です。
また、高齢者などのデジタル格差、個人情報の保護、合意の公正性、法的な実効性などの課題にも対応する必要があります。
今後の司法サービスでは、ODR、AI、法律専門家、裁判所、自治体などが、それぞれの役割を果たしながら連携することが重要になるでしょう。
人生100年時代には、誰もが生活の中で法律問題に直面する可能性があります。
そのとき、必要な情報を得られず、費用や時間の問題から権利の実現を諦める社会であってはなりません。
司法サービスのデジタル化が目指すべきなのは、単なる手続きの効率化ではありません。
誰もが自分の権利を理解し、安心して公正な解決を求められる社会を実現することです。
ODRは、その実現に向けた重要な手段の一つになると考えられます。
参考
日本経済新聞 2026年10月 スマホで民事トラブル解決 代金未払いや養育費の泣き寝入り改善期待
法務省 2022年3月 ODRの推進に関する基本方針
法務省 裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律の説明資料
法務省 2024年5月 民法等の一部を改正する法律の概要
厚生労働省 2022年12月 令和3年度全国ひとり親世帯等調査結果報告
裁判所 民事調停及び家事調停に関する説明資料
日本年金機構 離婚時の年金分割に関する説明資料
個人情報保護委員会 個人情報の保護に関する法律についてのガイドライン