物価上昇が続く日本で、企業の福利厚生が大きく変わり始めています。
かつて福利厚生といえば、保養所、社員旅行、社宅、家族手当などが代表的でした。しかし、現在の企業が力を入れているのは、無料の社員食堂、美容手当、住宅補助、健康支援など、従業員の日常生活に直接役立つ制度です。
背景にあるのは、インフレによる生活費の上昇と、深刻化する人手不足です。
企業は給与を引き上げるだけでは従業員の満足度を維持できなくなり、福利厚生を経営戦略の一部として見直し始めています。
法定外福利費は3年連続で高い伸び
厚生労働省が帝国データバンクに委託した調査によると、2025年の企業1社当たりの法定外福利費は平均1,741万9,000円となり、前年比4.8%増加しました。
法定外福利費とは、法律で義務付けられている社会保険料などとは別に、企業が独自に設ける福利厚生の費用です。
社員食堂、住宅補助、健康診断の追加支援、レクリエーション費用などが該当します。
注目すべきなのは、法定外福利費が直近3年間、毎年4%を超える伸びを続けていることです。
企業が福利厚生を単なる経費ではなく、人材確保や従業員満足度向上のための投資として位置付けていることがうかがえます。
インフレが福利厚生の価値を高める
物価が上昇すると、従業員は同じ給与でも以前と同じ生活水準を維持することが難しくなります。
例えば、毎月の食費が5,000円増加すれば、年間の負担増加額は6万円です。
さらに、電気代、ガス代、家賃、交通費なども上昇すれば、家計への影響は一段と大きくなります。
企業が給与を年間10万円引き上げたとしても、税金や社会保険料が増えるため、手取りの増加額は10万円より少なくなります。
一方、会社が社員食堂を無料で提供すれば、従業員は食費の支出を直接減らせます。
例えば、勤務日に1食800円の昼食を月20回利用すると、年間の食費削減効果は19万2,000円になります。
実際の経済的利益や税務上の取扱いは制度設計によって異なりますが、日常的に利用できる福利厚生は、従業員が恩恵を実感しやすいという特徴があります。
社員食堂の無料化は人材戦略でもある
LINEマンガを運営するLINE Digital Frontierは、2026年8月から社員食堂の朝食、昼食、夕食を無料にしました。
従業員はオフィスに出勤すれば、1日3食を会社負担で利用できます。
この制度には、食費負担の軽減だけではない効果があります。
社員同士が食堂で顔を合わせることで、部署を超えた交流が生まれます。
在宅勤務の普及によって希薄になりがちな社内コミュニケーションを促進する効果も期待できます。
さらに、従業員にとって出社する経済的なメリットが生まれるため、出社を促す施策としても機能します。
企業側にとっては、食材調達や食堂運営を集約することで、従業員が個別に外食する場合よりも効率的に食事を提供できる可能性があります。
ただし、無料の食事提供には税務上の注意点があります。
従業員に対する食事の現物支給は、一定の要件を満たさなければ給与として課税される場合があります。
福利厚生として提供しているからといって、必ず非課税になるわけではありません。
制度の導入時には、給与課税や社会保険上の取扱いを確認する必要があります。
美容手当が示す福利厚生の新しい方向性
SNS運用代行を手掛けるリソースクリエイションは、2024年7月から美容手当を導入しました。
役職や勤続年数に応じて、最大年間20万円を支給する制度です。
美容目的であれば使途を幅広く認めています。
従来の福利厚生は、住宅や家族、退職後の生活など、長期雇用を前提とした制度が中心でした。
これに対し、美容手当は従業員の価値観や企業の事業特性を反映した制度といえます。
SNSを活用する企業にとって、従業員自身の発信力や身だしなみへの関心は、企業イメージとも関係します。
また、若い世代の採用では、給与水準だけでなく、企業文化や働く環境への共感が重要になっています。
独自の福利厚生は、企業がどのような価値観を大切にしているかを伝える手段にもなります。
ただし、美容手当のように個人的な支出を補助する制度は、原則として給与課税の対象になる可能性があります。
福利厚生費として会社が経理処理できるかどうかと、従業員側で非課税になるかどうかは、分けて判断する必要があります。
福利厚生は賃上げより柔軟に設計できる
企業が福利厚生を重視する理由の一つに、給与との違いがあります。
基本給を引き上げると、通常は翌年度以降も継続的な負担が発生します。
賞与や退職金、社会保険料などに影響する場合もあります。
一方、福利厚生は対象者、利用条件、提供内容、予算などを制度ごとに設計できます。
例えば、社員食堂の補助額を見直したり、住宅補助の対象を若手社員に限定したりすることが可能です。
もっとも、福利厚生も労働条件として定着すれば、会社が自由に廃止できるとは限りません。
就業規則や労働契約に定められている場合には、不利益変更の問題が生じる可能性があります。
したがって、導入時から制度の目的、適用期間、見直し条件を明確にしておくことが重要です。
人手不足の業種ほど福利厚生を重視
帝国データバンクが2025年に実施した調査では、福利厚生を充実する予定と回答した企業は47.6%でした。
業種別では、建設業が58.7%と最も高く、運輸・倉庫業が55.1%、農林水産業が52.7%と続いています。
これらの業種には、人手不足が深刻であるという共通点があります。
採用活動で給与水準を引き上げることは重要ですが、それだけでは競合企業との差別化が難しくなっています。
住宅補助、食事支援、資格取得支援、育児支援などを組み合わせることで、従業員が働き続けやすい環境を整える必要があります。
特に中小企業では、大企業と同水準の給与を提示することが難しい場合があります。
そのため、従業員の生活実態に合った福利厚生を設計することが、人材確保の有力な選択肢になります。
福利厚生の費用対効果をどう判断するか
福利厚生を拡充する際には、費用対効果の検証が欠かせません。
例えば、従業員100人の会社が1人当たり年間10万円の福利厚生を追加すると、年間費用は1,000万円になります。
この支出によって、離職率が低下し、採用費用や教育費用を削減できれば、一定の経済効果が期待できます。
仮に1人の採用と教育に200万円かかる企業で、年間5人の離職を防止できたとすれば、単純計算で1,000万円相当の費用を回避できる可能性があります。
ただし、離職防止効果がすべて福利厚生によるものとは限りません。
実際には、制度利用率、従業員満足度、採用応募数、離職率などを継続的に確認する必要があります。
福利厚生を増やすこと自体を目的にするのではなく、経営上の成果と結び付けることが重要です。
結論
インフレと人手不足によって、日本企業の福利厚生は新たな転換期を迎えています。
従来の福利厚生は、長期雇用を前提とした従業員への生活保障という性格が強いものでした。
これからは、従業員の日常生活を支援すると同時に、採用力、定着率、生産性、企業文化の向上につなげる経営戦略としての役割が重要になります。
ただし、福利厚生は賃上げの代わりになるものではありません。
基本給の引上げは、従業員の生活基盤や将来の年金、退職後の所得にも関係する重要な施策です。
企業には、適切な賃上げと福利厚生の充実を組み合わせる姿勢が求められます。
今後は、福利厚生にどれだけ費用を使うかではなく、従業員にどのような価値を提供できるかが、企業の競争力を左右することになるでしょう。
参考
日本経済新聞 2026年10月20日 朝刊 美容手当に年20万円・社食3食無料 福利厚生、インフレが変える
厚生労働省 所得税基本通達に関連する福利厚生制度の検討資料ではなく、法定外福利費に関する企業調査
国税庁 所得税基本通達 使用者が負担する食事及び経済的利益に関する取扱い