社会保険料の節約に潜む落とし穴――傷病手当金・出産手当金・遺族年金への影響

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企業年金を活用した老後資金形成が広がる中、給与の一部を企業年金の掛け金に振り替える「選択制企業年金」が注目されています。

この制度では、社会保険料の計算基礎となる標準報酬月額が下がることによって、従業員本人と企業の社会保険料負担が軽減される場合があります。

しかし、社会保険料の軽減には見落とされやすい問題があります。

それは、社会保険料の計算に使われる標準報酬月額が、病気や出産、障害、死亡などに備える社会保険給付の計算にも使われていることです。

つまり、毎月の社会保険料が減る一方で、万一の際に受け取る給付まで減少する可能性があります。

厚生労働省は、選択制の確定給付企業年金について、こうした不利益を従業員に説明するよう事業主に求める方針です。

企業年金への加入を判断する際には、老後の年金だけでなく、現役時代の生活保障への影響も理解しておく必要があります。

社会保険料と社会保険給付の関係

会社員が加入する社会保険には、健康保険、厚生年金保険、介護保険などがあります。

これらの制度は、病気、出産、老齢、障害、死亡など、人生で発生するさまざまなリスクに備える仕組みです。

健康保険や厚生年金保険では、原則として標準報酬月額を基準に保険料を計算します。

標準報酬月額とは、毎月の給与などを一定の等級に区分した金額です。

例えば、毎月の報酬が40万円の場合、厚生年金保険では通常、標準報酬月額41万円の等級に該当します。

給与の一部を企業年金の掛け金に振り替え、社会保険上の報酬が37万円になった場合には、標準報酬月額38万円の等級に該当します。

この場合、標準報酬月額が3万円低くなるため、社会保険料の負担が軽減されます。

しかし、標準報酬月額は保険料だけでなく、さまざまな社会保険給付の計算にも関係しています。

社会保険料の軽減と給付額の減少は、表裏一体となる場合があるのです。

傷病手当金が減少する可能性

会社員にとって重要な生活保障の一つが、健康保険の傷病手当金です。

傷病手当金は、業務外の病気やけがによって働けなくなり、給与を受け取れない場合などに支給される制度です。

連続する3日間の待期期間を経て、4日目以降の休業について、一定の要件を満たす場合に支給されます。

支給期間は、支給開始日から通算して1年6カ月です。

傷病手当金の1日当たりの支給額は、原則として支給開始日以前の継続した12カ月間の各月の標準報酬月額の平均額を30で割り、その3分の2に相当する金額を基礎として計算します。

したがって、選択制企業年金への加入によって標準報酬月額が低くなれば、傷病手当金も減少する可能性があります。

傷病手当金の減額シミュレーション

具体的な数字で確認します。

毎月の報酬が40万円で、標準報酬月額が41万円の従業員を想定します。

企業年金への加入によって標準報酬月額が38万円に下がり、その状態が12カ月以上継続したと仮定します。

制度加入前の傷病手当金を簡略化して計算すると、次のようになります。

41万円÷30×3分の2=約9,111円

制度加入後は、次のようになります。

38万円÷30×3分の2=約8,444円

1日当たり約667円の差になります。

30日分では約2万円、180日分では約12万円の差です。

実際の支給額は法定の端数処理や支給対象日数、給与の支給状況などによって異なります。

また、標準報酬月額の変更から12カ月未満の場合には、変更前の標準報酬月額も計算に影響します。

それでも、長期間働けなくなった場合には、標準報酬月額の低下が生活保障に影響することが分かります。

出産手当金への影響

出産手当金も、標準報酬月額を基礎として計算される給付です。

出産手当金は、健康保険の被保険者が出産のために仕事を休み、給与の支払いを受けない場合などに支給されます。

原則として、出産の日以前42日から出産の日の翌日以後56日までが対象期間です。

多胎妊娠の場合には、出産の日以前98日から対象となります。

出産予定日より出産が遅れた場合には、その遅れた期間も対象に含まれます。

支給額の基本的な計算方法は、傷病手当金と同様です。

そのため、標準報酬月額が41万円から38万円に下がった状態が計算期間全体に反映される場合、1日当たりの給付額は概算で約667円減少します。

単胎妊娠で出産日が予定日どおり、対象期間が98日となる場合には、単純計算で約6万5,000円の差になります。

出産前後は、育児用品の購入や生活費など、さまざまな支出が発生する時期です。

社会保険料の軽減効果だけでなく、出産時に受け取る給付への影響も考慮する必要があります。

出産育児一時金との違い

出産に関する給付には、出産手当金のほかに出産育児一時金があります。

両者は名称が似ていますが、制度の仕組みが異なります。

出産育児一時金は、健康保険の被保険者や被扶養者が出産した場合に支給される給付です。

原則として、子ども1人につき50万円が支給されます。

一定の要件に該当しない場合には48万8,000円となります。

出産育児一時金は、標準報酬月額に比例して支給額が変わる制度ではありません。

したがって、選択制企業年金によって標準報酬月額が下がっても、それだけを理由に出産育児一時金が減額されるわけではありません。

一方、出産手当金は標準報酬月額を基礎として計算されます。

同じ出産に関する給付でも、給与の減額による影響が異なる点に注意が必要です。

障害厚生年金への影響

社会保険による保障は、病気や出産だけではありません。

病気やけがによって一定の障害状態になった場合には、障害年金が支給されることがあります。

会社員が厚生年金に加入している期間に初診日があり、障害の程度などの要件を満たす場合には、障害厚生年金の対象となります。

障害厚生年金の報酬比例部分は、標準報酬月額や標準賞与額などを基礎として計算されます。

そのため、選択制企業年金への加入によって標準報酬月額が低下すると、障害厚生年金の給付額に影響する可能性があります。

ただし、障害厚生年金には、厚生年金の被保険者期間が300カ月に満たない場合、300カ月として計算する特例があります。

また、障害等級によって計算方法や加算の取扱いが異なります。

したがって、標準報酬月額が下がった割合と同じ割合で障害厚生年金が減少するわけではありません。

重要なのは、社会保険料の軽減が、万一働けなくなった場合の長期的な所得保障にも関係することです。

遺族厚生年金への影響

厚生年金には、被保険者などが死亡した場合に遺族の生活を支える遺族厚生年金があります。

遺族厚生年金の報酬比例部分は、原則として亡くなった人の老齢厚生年金の報酬比例部分の4分の3に相当する額を基礎として計算されます。

そのため、標準報酬月額が低下すると、遺族厚生年金にも影響する可能性があります。

例えば、老齢厚生年金の報酬比例部分が年額4万円少なくなる場合、単純な計算では遺族厚生年金への影響は年額3万円に相当します。

ただし、実際には死亡時の加入状況、300カ月みなしの特例、遺族自身の年金との調整などが関係します。

遺族厚生年金の受給要件や給付期間については、制度改正による影響にも注意が必要です。

家族の生活を支える立場にある従業員にとって、遺族年金は重要な所得保障です。

企業年金への加入を検討する際には、自分自身の老後だけでなく、家族の生活保障も考える必要があります。

すべての社会保険給付が減るわけではない

標準報酬月額が下がることで、すべての社会保険給付が減額されるわけではありません。

例えば、老齢基礎年金は、原則として国民年金の加入期間や保険料納付状況などによって決まります。

厚生年金の標準報酬月額が低下しただけで、老齢基礎年金が直接減額されるわけではありません。

また、健康保険の医療費の窓口負担割合は、標準報酬月額の低下に比例して変わるものではありません。

一方、高額療養費制度では、所得区分の判定に標準報酬月額などが用いられます。

標準報酬月額が下がり、所得区分が変わる場合には、医療費の自己負担限度額が変化する可能性があります。

このように、社会保険給付への影響は制度によって異なります。

給付ごとの計算方法を確認することが重要です。

企業が説明すべきリスク

選択制企業年金を導入する企業には、従業員に対する十分な説明が求められます。

特に、社会保険料の軽減額だけを示して加入を勧めることには問題があります。

従業員が理解すべきなのは、現在の手取り給与、社会保険料、税負担だけではありません。

将来の厚生年金、傷病手当金、出産手当金、障害厚生年金、遺族厚生年金への影響も重要です。

また、従業員の年齢や家族構成によって、重視すべき保障は異なります。

若い従業員にとっては、病気や出産、子育て期間中の生活保障が重要になる場合があります。

定年が近い従業員にとっては、老齢厚生年金や退職時の企業年金給付が重要になります。

企業には、制度の一般的な説明だけでなく、従業員が自分の状況に応じて判断できる情報を提供することが望まれます。

税理士・FPの視点から考える保障の価値

税理士・FPの視点から重要なのは、社会保険料を単なる負担として考えないことです。

社会保険料には、現在の医療保障だけでなく、将来の年金や万一の際の所得保障を支える役割があります。

そのため、保険料の軽減額だけを比較して制度の有利不利を判断することは適切ではありません。

例えば、毎月数千円の社会保険料が軽減されたとしても、病気による長期休業時に傷病手当金が減少する可能性があります。

また、障害や死亡によって長期的な所得保障が必要になった場合には、その影響がさらに大きくなることも考えられます。

一方、企業年金として積み立てた資金は、将来の退職給付として老後の生活を支えます。

したがって、現在の社会保険料、企業年金の給付、公的年金、万一の際の保障を総合的に評価する必要があります。

人生100年時代の資産形成では、資産を増やすことと、生活を守ることの両方が重要です。

結論

選択制企業年金は、給与の一部を企業年金の掛け金に振り替えることで、社会保険料や税金の負担を軽減できる可能性がある制度です。

しかし、標準報酬月額が下がる場合には、将来の老齢厚生年金だけでなく、傷病手当金や出産手当金、障害厚生年金、遺族厚生年金にも影響する可能性があります。

特に、病気や出産、障害、死亡といった事態は、いつ発生するか予測できません。

そのため、社会保険料の軽減を検討する際には、万一の際に受け取れる保障がどのように変化するかを確認することが大切です。

企業には、従業員が制度のメリットとデメリットを十分に理解した上で選択できる環境を整えることが求められます。

従業員も、現在の手取り額だけでなく、自分と家族の生活保障を含めて判断する必要があります。

人生100年時代の老後資金形成では、将来の資産を積み立てることと、現在から将来にわたる生活保障を確保することの両立が重要です。

社会保険料の軽減は魅力的な効果ですが、その裏側にある保障の価値を見失わないことが、合理的な制度選択につながります。

参考

日本経済新聞 2026年11月2日 朝刊

「給与削る確定給付年金、厚労省『社員に説明』要請へ 公的年金減る恐れ」

厚生労働省「確定給付企業年金制度」

全国健康保険協会「傷病手当金」

全国健康保険協会「出産手当金」

日本年金機構「障害厚生年金の受給要件・請求時期・年金額」

日本年金機構「遺族厚生年金の受給要件・対象者・年金額」

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