非上場株式の相続税評価を巡り、国税庁が検討している新しい評価方法に対して、政界や経済界から強い反発が広がっています。
2026年10月22日、自民党の岸田文雄元首相は党会合で、企業の収益力を高めるほど相続税評価額が上昇する仕組みについて、これまでの成長戦略と逆行すると批判しました。
今回の問題は、単なる相続税の計算方法の変更ではありません。
日本企業の成長投資、雇用維持、事業承継、さらには経済安全保障にも影響する重要な政策課題です。
特に注目すべきなのは、国税庁が目指す課税の公平性と、政府が掲げる企業成長の促進という2つの政策目標が衝突していることです。
非上場株式の相続税評価はなぜ見直されるのか
非上場株式とは、証券取引所に上場していない会社の株式です。
日本の中小企業や同族企業の多くが該当します。
上場株式であれば市場価格を基準に相続税評価額を算定できますが、非上場株式には市場で形成される株価がありません。
そのため、会社の資産、利益、配当、規模などを基準として評価額を算定します。
現行制度では、会社の規模や株主の区分などに応じて、類似業種比準方式、純資産価額方式、これらの併用方式などが用いられています。
類似業種比準方式は、上場企業の株価を参考に、配当、利益、純資産を比較して評価する方法です。
純資産価額方式は、会社が保有する資産と負債を相続税評価の考え方に基づいて評価し、その差額から株式価値を算定する方法です。
これらの評価方法について、会計検査院は税負担の公平性や企業の実態との乖離という観点から問題を指摘していました。
国税庁は、こうした指摘を踏まえ、評価方法そのものを見直す必要があると考えています。
新しい評価方法では収益力が重視される
国税庁が検討している新しい評価方法では、簿価純資産と残余利益を組み合わせて株式価値を算定する方向です。
簿価純資産とは、会計上の資産から負債を差し引いた純資産です。
残余利益とは、企業が生み出した利益から、株主が投下資本に対して要求する利益相当額を控除したものです。
例えば、簿価純資産が10億円の会社を考えます。
株主資本に対する要求収益率を5%と仮定すれば、年間5,000万円が資本コストに相当します。
この会社が年間1億5,000万円の利益を継続的に生み出していれば、資本コストを上回る1億円が残余利益となります。
このような超過収益力を企業価値に反映するのが、新しい評価方法の基本的な考え方です。
ただし、実際の評価額は残余利益の資本還元方法や調整係数などによって変わります。
現時点では制度の詳細が確定しているわけではありません。
重要なのは、収益力の高い企業ほど株式評価額が上昇しやすくなる可能性があることです。
中堅企業では評価額が5倍から6倍になる可能性
国税庁が2026年9月に公表した試算では、一定の調整係数を適用した場合、非上場企業全体の5割超で評価額が低下するとされています。
したがって、すべての企業の相続税負担が増えるわけではありません。
しかし、企業によって影響は大きく異なります。
特に問題視されているのが、収益力の高い中堅企業です。
経済産業省によると、一部の中堅企業では評価額が現行制度の5倍から6倍になる可能性があります。
仮に現行制度で株式評価額が20億円だった企業について、新制度で100億円になるとすれば、評価額は5倍です。
ただし、株式評価額が5倍になっても、相続税額が必ず5倍になるわけではありません。
相続人の人数、他の相続財産、債務、各種控除、事業承継税制の適用などによって税額は変わります。
それでも、評価額の大幅な上昇が事業承継時の資金負担を増やす可能性は否定できません。
利益が増えるほど事業承継が難しくなる矛盾
今回の見直しで最も重要なのは、企業の成長と相続税負担の関係です。
一般的に、企業が利益を増やすことは望ましい経営成果です。
設備投資を行い、生産性を高め、従業員の賃金を引き上げ、新しい市場を開拓することで企業価値は向上します。
ところが、収益力を株式評価に強く反映する制度では、こうした経営努力が相続税評価額の上昇につながります。
例えば、創業者が長年にわたり利益を再投資し、優良な製造業を育てたとします。
企業には工場、機械設備、研究開発施設などがありますが、これらは事業を継続するために必要な資産です。
相続税の納付が必要になっても、企業の資産を簡単に現金化できるとは限りません。
後継者が多額の相続税を負担する場合、保有株式の売却や金融機関からの借入れなどを検討せざるを得なくなる可能性があります。
その結果、企業の長期的な成長よりも、相続税納付のための資金確保が優先される事態も考えられます。
岸田元首相が成長戦略との矛盾を指摘した背景には、このような問題があります。
事業承継税制だけでは解決できない
日本には、非上場株式の承継に伴う税負担を軽減するための事業承継税制があります。
一定の要件を満たす中小企業について、後継者が取得した非上場株式に係る相続税や贈与税の納税を猶予する制度です。
法人版事業承継税制の特例措置では、対象株式や納税猶予割合について一般措置より手厚い取扱いが設けられています。
一定の条件を満たせば、猶予税額が免除される場合もあります。
しかし、この制度には対象企業、後継者、承継後の経営などに関する要件があります。
特に、中小企業者の範囲を超える中堅企業や大企業は対象になりません。
今回の新しい評価方法によって大きな影響を受ける可能性がある企業の中には、事業承継税制による救済を受けられない企業も存在します。
また、納税猶予制度は、適用後の継続的な手続きや要件管理も重要です。
そのため、株式評価方法の変更だけを先行させるのではなく、事業承継税制の対象範囲や制度設計を一体的に検討する必要があります。
ドイツでは事業用資産の85%または100%を免除
海外の制度との比較も重要です。
ドイツでは、一定の要件を満たす事業用資産について、相続税や贈与税の課税対象から85%または100%を控除できる仕組みがあります。
企業規模や取得財産の価額、雇用維持、事業継続などに関する条件があり、すべての企業が無条件に免除されるわけではありません。
それでも、事業に必要な資産を承継する際の税負担を軽減するという政策目的が明確です。
事業用資産と個人の消費用資産を区別し、雇用や企業活動の継続に配慮する考え方です。
日本でも、事業承継時に企業の収益力や資産価値をどこまで課税対象とするべきか、改めて検討する余地があります。
単純に海外制度を導入すればよいわけではありませんが、企業の継続性を重視する視点は参考になります。
課税の公平性を確保する必要もある
一方で、国税庁が評価方法の見直しを求める理由にも合理性があります。
非上場株式の評価額が実際の経済価値と大きく乖離すれば、同じような経済力を持つ納税者の間で相続税負担に差が生じる可能性があります。
また、非上場会社の仕組みを利用して相続財産の評価額を引き下げる租税回避策も問題になります。
現行制度には、財産評価基本通達による評価が著しく不適当な場合に、別の評価方法を用いる余地があります。
しかし、こうした例外的な取扱いを広く活用すると、納税者が事前に税負担を予測しにくくなるという問題があります。
税制には公平性だけでなく、予測可能性も求められます。
国税庁が個別事案への対応だけでなく、評価方法そのものの見直しを目指す背景には、この問題があります。
したがって、今回の議論を単純に増税への賛否だけで捉えることは適切ではありません。
租税回避の防止と、健全な企業活動の保護をどのように両立させるかが重要です。
技術流出や経済安全保障への影響も懸念
非上場企業の中には、世界的な競争力を持つ企業が数多く存在します。
特に製造業では、特殊な加工技術、精密部品、半導体関連技術などを保有する企業があります。
こうした企業が相続税負担を理由に株式の売却を迫られれば、経営権が第三者に移転する可能性があります。
もちろん、企業の売却そのものが悪いわけではありません。
適切な買い手への事業承継は、企業の成長や技術の発展につながる場合もあります。
しかし、税負担への対応を理由として、十分な準備や検討を行わないまま売却を迫られることは望ましくありません。
特に重要技術を持つ企業では、買収後の技術管理や研究開発体制の維持も重要です。
相続税評価の問題が、産業政策や経済安全保障と結びつく理由はここにあります。
2027年度税制改正で何が焦点になるのか
今回の非上場株式評価の見直しは、2027年度税制改正に向けた重要な論点となっています。
国税庁は2028年1月からの新ルール適用を目指していますが、政治的な反発によって先行きは不透明です。
自民党内では、議論の凍結を求める意見も出ています。
麻生太郎副総裁も、中小企業の事業承継への影響に言及しました。
小林鷹之政調会長は、成長企業が不利益を受ける制度になれば本末転倒だと指摘しています。
一方、片山さつき財務相は、見直しの方向性も含めて結論は決まっていないと説明しています。
今後の焦点は、評価方法の変更を進めるかどうかだけではありません。
収益力の高い企業に対する調整措置、事業用資産への配慮、事業承継税制の対象拡大、制度変更時の経過措置などを総合的に検討する必要があります。
特に、既に事業承継計画を進めている企業にとって、制度変更の時期と経過措置は重要です。
企業経営者が今から準備しておくべきこと
制度の方向性が確定していない段階で、拙速な株式移転や組織再編を行うことは避けるべきです。
しかし、何も準備しなくてよいわけではありません。
まず、自社株式の現行制度における相続税評価額を把握することが重要です。
次に、純資産、利益水準、株主構成、後継者の資金調達力などを整理します。
そのうえで、評価方法が変更された場合に、どの程度の影響が生じる可能性があるかを複数の前提で試算することが考えられます。
例えば、現行評価額が10億円の企業について、評価額が15億円、20億円、30億円になった場合を想定し、相続税負担や納税資金を検討します。
ただし、これらは制度変更の影響を把握するための仮定であり、国税庁の新ルールによる正式な試算ではありません。
また、事業承継税制の適用可能性、後継者への株式集中、遺留分への対応、納税資金の確保なども重要です。
税理士だけでなく、必要に応じて弁護士や金融機関などの専門家と連携し、事業承継計画を見直すことが望まれます。
結論
非上場株式の相続税評価の見直しは、日本の事業承継制度を根本から問い直す重要な議論です。
国税庁が目指す課税の公平性や租税回避の防止は、税制への信頼を維持するために欠かせません。
一方で、企業が利益を増やし、設備投資を行い、雇用を守るほど事業承継時の税負担が重くなるとすれば、成長を促進する政策との整合性が問われます。
特に、収益力の高い中堅企業が事業承継税制の対象外となる問題は、評価方法の見直しと切り離して考えることはできません。
今後は、株式評価の適正化だけでなく、事業用資産の取扱い、納税猶予や免除の仕組み、後継者の負担軽減などを含めた制度全体の再設計が求められます。
2027年度税制改正では、課税の公平性と企業成長の両立に向けた議論がどこまで進むかが注目されます。
相続税は、単に財産の移転に課税する制度ではありません。
非上場企業にとっては、経営権の承継や事業の継続にも深く関わる制度です。
企業の成長を妨げず、同時に不公平な税負担を生まない仕組みを構築できるか。
今回の見直しは、日本の税制と成長戦略の整合性が試される重要な局面といえるでしょう。
参考
日本経済新聞 2026年10月23日朝刊「非上場株の相続評価、自民党に異論 岸田文雄元首相『成長に逆行』」