インフレと人手不足を背景に、企業が福利厚生を充実させる動きが広がっています。
社員食堂の無料化、住宅手当の増額、美容手当、資格取得支援など、従業員の生活を支える制度は多様化しています。
しかし、福利厚生制度を導入する際に見落とされやすい問題があります。
それは、一度導入した福利厚生を、会社の判断だけで廃止したり縮小したりできるのかという問題です。
例えば、社員食堂を無料にしたものの、食材費の高騰によって会社の負担が増加した場合です。
会社が無料提供をやめ、従業員から食事代を徴収することは可能なのでしょうか。
また、住宅手当や家族手当を廃止して、基本給に組み込む場合には、どのような手続きが必要なのでしょうか。
福利厚生は企業が独自に設ける制度ですが、労働条件として定着している場合には、労働契約法などによる制約を受けることがあります。
今回は、福利厚生の廃止や縮小に伴う法律上の問題と、企業が注意すべき実務について解説します。
福利厚生は会社が自由に決められるのか
福利厚生には、大きく分けて法定福利厚生と法定外福利厚生があります。
法定福利厚生は、健康保険、厚生年金保険、雇用保険、労災保険など、法律に基づいて企業が負担する制度です。
一方、法定外福利厚生は、企業が独自に設ける制度です。
住宅手当、社員食堂、社宅、保養施設、社員旅行、資格取得支援などが代表例です。
法定外福利厚生は、原則として企業が制度の内容を設計できます。
しかし、いったん導入した制度が労働契約の内容となっている場合には、会社が自由に廃止できるわけではありません。
例えば、就業規則や賃金規程に住宅手当の支給条件が明記されている場合です。
この場合、住宅手当は従業員の労働条件の一部となっている可能性があります。
会社が一方的に廃止すると、労働条件の不利益変更に該当することがあります。
労働契約法第9条の基本的な考え方
労働契約法第9条は、就業規則の変更による労働条件の不利益変更について定めています。
同条では、使用者は労働者と合意することなく、就業規則を変更することによって、労働者の不利益に労働契約の内容を変更することはできないとされています。
つまり、会社が就業規則を変更しただけで、当然に従業員の労働条件を引き下げられるわけではありません。
例えば、毎月3万円の住宅手当を支給している企業を考えます。
従業員が100人おり、そのうち50人が住宅手当を受け取っているとします。
会社が住宅手当を廃止した場合、対象従業員1人当たり年間36万円の収入減少になります。
対象者50人の合計では、年間1,800万円の支給額がなくなる計算です。
会社にとっては人件費削減になりますが、従業員にとっては大きな不利益です。
このような変更を、会社が一方的に実施することには法的な問題が生じる可能性があります。
労働契約法第10条では合理性が重要になる
労働契約法第10条は、一定の条件を満たす場合に、就業規則の変更によって労働条件を変更できることを定めています。
重要なのは、変更の合理性です。
合理性の判断では、主に次の事情が考慮されます。
労働者が受ける不利益の程度です。
労働条件を変更する必要性です。
変更後の就業規則の内容の相当性です。
労働組合などとの交渉の状況です。
その他の変更に関する事情です。
例えば、会社の業績が悪化して福利厚生費の削減が必要になった場合でも、それだけで変更が合理的になるわけではありません。
従業員が受ける不利益の程度や、代替措置の有無などを総合的に判断する必要があります。
また、変更後の就業規則を従業員に周知することも必要です。
なお、個別の労働契約で就業規則の変更によっては変更されない労働条件を合意している場合などには、別途検討が必要になります。
社員食堂の無料化を廃止する場合
具体的な事例を考えてみましょう。
ある企業が、従業員の生活支援を目的として社員食堂を無料化したとします。
従業員1人当たりの食事提供費用が月額2万円で、利用者が100人いる場合、会社の年間負担額は2,400万円になります。
その後、食材費や人件費の上昇によって、年間負担額が3,000万円に増加したとします。
会社は費用削減のため、無料提供を廃止して、従業員から月額5,000円を徴収することを検討しています。
この場合、まず確認すべきなのは、社員食堂の無料提供がどのような位置付けになっているかです。
就業規則や福利厚生規程に無料提供が明記されている場合には、労働条件の変更として検討する必要があります。
一方、期間限定の施策として導入され、終了条件が明確に示されていた場合には、継続的な労働条件としての位置付けが異なる可能性があります。
ただし、期間限定という名称だけで判断できるわけではありません。
実際の運用状況や従業員への説明内容も重要です。
また、社員食堂の無料提供は、所得税や社会保険上の取扱いにも注意が必要です。
無料で食事を提供している場合、従業員に給与課税や現物給与の問題が生じることがあります。
制度変更に際しては、労働法だけでなく税務上の確認も必要です。
住宅手当の廃止は特に慎重な対応が必要
住宅手当は、従業員の生活費に直接影響する制度です。
例えば、毎月5万円の住宅手当を受け取っている従業員にとって、年間の支給額は60万円です。
会社が住宅手当を廃止すれば、従業員の給与収入は年間60万円減少します。
税金や社会保険料が減少する可能性はありますが、手取り収入への影響は大きくなります。
特に、住宅ローンや家賃の支払いを前提として生活設計を行っている従業員にとっては、負担が重くなる可能性があります。
このような制度を廃止する場合には、労働条件の不利益変更として慎重な検討が必要です。
例えば、住宅手当を段階的に縮小する方法が考えられます。
初年度は月額5万円から4万円に減額し、翌年度は3万円にするなど、一定の移行期間を設ける方法です。
また、住宅手当の一部を基本給に組み込むことも考えられます。
ただし、基本給への組込みによって、賞与、退職金、割増賃金などの計算に影響する場合があります。
制度変更による影響を総合的に確認することが重要です。
家族手当の見直しと公平性の問題
家族手当も、企業が見直しを進めている福利厚生の一つです。
従来の家族手当は、配偶者や子どもを扶養する従業員に一定額を支給する制度が中心でした。
しかし、共働き世帯の増加や家族構成の多様化によって、制度の公平性が課題になっています。
例えば、配偶者手当を廃止し、その財源を子育て支援や基本給に振り向ける企業もあります。
このような見直しには、制度の公平性を高める目的があります。
一方、従来の配偶者手当を受け取っていた従業員にとっては、収入減少につながる可能性があります。
そのため、制度変更の目的を丁寧に説明することが重要です。
また、変更によって不利益を受ける従業員に対して、一定期間の経過措置を設けることも考えられます。
例えば、廃止後も2年間は一部の手当を支給するなどの方法です。
ただし、経過措置を設ければ必ず法的に有効になるわけではありません。
変更の必要性、不利益の程度、代替措置、労使交渉などを総合的に判断する必要があります。
就業規則に記載されていない制度はどうなるのか
福利厚生のなかには、就業規則や福利厚生規程に明記されていない制度もあります。
例えば、会社が長年にわたり、従業員の誕生日に一定額の記念品を支給している場合です。
また、慣行として毎年社員旅行を実施している企業もあります。
このような制度については、就業規則に記載されていないからといって、必ず自由に廃止できるとは限りません。
長期間にわたって反復継続され、従業員が当然に受けられるものとして認識されている場合には、労働契約の内容になっているかどうかが問題になることがあります。
ただし、単に長年実施されていたという事実だけで、すべての福利厚生が労働契約上の権利になるわけではありません。
制度の内容、支給条件、会社の裁量の有無、従業員への説明などを踏まえて判断する必要があります。
企業は、福利厚生を導入する段階で、制度の目的や実施期間、見直し条件などを明確にしておくことが望まれます。
福利厚生規程を整備する重要性
福利厚生制度を適切に運用するためには、規程の整備が重要です。
例えば、住宅手当であれば、支給対象者、支給額、支給条件、申請手続きなどを明確にします。
社員食堂であれば、利用対象者、利用時間、従業員負担額などを定めます。
資格取得支援であれば、対象資格、補助金額、申請方法、会社負担の範囲などを明確にします。
また、制度を変更する可能性がある場合には、見直しに関する規定を設けることも考えられます。
ただし、会社が必要に応じて制度を変更できるという規定を設けたとしても、労働契約法上の制約がなくなるわけではありません。
従業員に不利益を与える変更については、引き続き合理性などが問題になります。
規程の整備は、企業が自由に制度を変更するためではなく、従業員との認識の違いを防ぎ、制度を適切に運用するために行うものです。
労使協議と従業員への説明が重要になる
福利厚生の廃止や縮小を検討する場合には、従業員への説明が重要です。
例えば、会社が住宅手当を廃止する場合、その理由を十分に説明しなければ、従業員の不満が高まる可能性があります。
一方、経営環境の変化や制度の公平性などを丁寧に説明し、代替措置を提示すれば、理解を得られる可能性があります。
労働組合がある企業では、労働協約や労使交渉との関係も確認する必要があります。
労働組合がない企業でも、従業員代表などとの意見交換を行うことが考えられます。
なお、常時10人以上の労働者を使用する事業場では、就業規則の作成や変更に際して、過半数労働組合または過半数代表者の意見を聴き、所轄労働基準監督署に届け出る必要があります。
ただし、意見聴取と個々の労働者の同意は同じではありません。
また、届出を行ったことだけで、不利益変更が当然に有効になるわけでもありません。
制度変更の合理性や労働契約との関係を確認する必要があります。
福利厚生を廃止する前に検討したい代替策
企業が福利厚生費の削減を検討する場合には、制度の全面廃止以外にも選択肢があります。
例えば、社員食堂であれば、無料提供をすべて廃止するのではなく、一部を従業員負担に変更する方法があります。
住宅手当であれば、支給対象者や支給条件を見直す方法が考えられます。
保養施設であれば、自社保有施設を売却し、外部の福利厚生サービスに切り替える方法もあります。
また、利用率の低い制度を縮小し、従業員のニーズが高い制度に予算を振り向けることも考えられます。
ただし、これらの変更も従業員に不利益を与える場合には、労働条件の変更として検討する必要があります。
重要なのは、単純な費用削減ではなく、従業員の生活への影響を抑えながら、制度の持続可能性を高めることです。
福利厚生の変更が離職率に与える影響
福利厚生の廃止や縮小は、従業員の定着率にも影響する可能性があります。
例えば、社員食堂の無料化を採用活動で大きく紹介していた企業が、短期間で制度を廃止した場合です。
従業員や採用応募者は、会社が約束した待遇を維持できないと感じるかもしれません。
また、住宅手当の廃止によって生活費の負担が増加すれば、転職を検討する従業員が出る可能性もあります。
ただし、福利厚生の変更が必ず離職率の上昇につながるわけではありません。
変更の内容や説明方法、代替措置、企業の経営状況などによって影響は異なります。
企業は制度変更の前後で、従業員満足度や離職率などを確認することが望まれます。
福利厚生は、費用だけでなく、企業への信頼にも関係する制度です。
結論
福利厚生は、企業が独自に設ける制度ですが、一度導入した制度を自由に廃止できるとは限りません。
就業規則や賃金規程、個別の労働契約などによって労働条件となっている場合には、労働契約法上の制約を受けることがあります。
労働契約法第9条では、原則として、労働者の合意なく就業規則の変更によって労働条件を不利益に変更することはできないとされています。
一方、第10条では、変更後の就業規則の周知や変更の合理性など、一定の条件を満たす場合の取扱いが定められています。
住宅手当の廃止、家族手当の見直し、社員食堂の有料化などを検討する際には、従業員が受ける不利益の程度や変更の必要性を慎重に確認する必要があります。
また、制度変更に伴う税務や社会保険上の取扱いにも注意が必要です。
福利厚生は、導入するときだけでなく、見直すときのことまで考えて設計することが重要です。
企業は、従業員の生活を支えるという制度の目的を忘れず、経営環境の変化に対応できる持続可能な仕組みを構築する必要があります。
福利厚生の見直しは、単なる経費削減ではありません。
企業と従業員の信頼関係を維持しながら、働きやすい職場環境を再構築するための重要な経営判断といえるでしょう。
参考
日本経済新聞 2026年10月20日 朝刊 美容手当に年20万円・社食3食無料 福利厚生、インフレが変える
労働契約法 第8条 第9条 第10条
厚生労働省 労働契約法のあらまし
厚生労働省 就業規則の作成及び変更に関する案内
厚生労働省 モデル就業規則