法律上は正当な権利があるにもかかわらず、その権利を実現するための費用が高すぎるため、請求を諦めてしまう人がいます。
例えば、取引先から3万円の代金が支払われない場合、裁判を起こせば回収できる可能性があっても、弁護士費用や手続きにかかる時間を考えると、経済的に割に合わないことがあります。
個人の場合も同様です。
賃貸住宅の敷金返還、商品の返金、サービス料金をめぐるトラブルなど、比較的少額の紛争では、法律相談を受けること自体をためらう人が少なくありません。
こうした司法サービスの利用しにくさを象徴する言葉が、2割司法です。
日本では裁判制度が整備されている一方で、費用や時間などの負担から、司法による救済を十分に受けられない人が存在します。
この構造を変える可能性を持つのが、オンライン紛争解決手続きであるODRです。
今回は、裁判による紛争解決の費用対効果を整理し、少額訴訟、支払督促、民事調停、ADR、ODRの違いを踏まえながら、司法のデジタル化が社会にもたらす変化を考えます。
2割司法とは何か
2割司法とは、法律上の紛争が発生しても、実際に司法制度を利用して解決する人が限られている状況を表す言葉です。
ただし、すべての民事紛争のうち厳密に20%だけが司法制度を利用しているという統計上の割合を示すものではありません。
司法サービスへのアクセスが十分ではないという問題を象徴的に表現したものです。
例えば、個人事業主が取引先に10万円の商品を納品したにもかかわらず、代金を支払ってもらえない場合を考えます。
契約書や納品書があり、請求する権利が明確だったとしても、裁判所への申し立てには一定の手間がかかります。
弁護士に依頼すれば費用が発生し、自分で手続きを行う場合にも書類の準備や証拠の整理が必要です。
さらに、裁判で勝訴しても、相手方に支払能力がなければ、実際の回収が難しい場合があります。
こうした事情から、回収できる可能性があっても請求を断念することがあります。
この問題は、法律制度の不備だけで説明できるものではありません。
制度が存在していても、利用するための経済的負担や心理的負担が大きければ、実際には十分に機能しないのです。
裁判の費用対効果を考える
民事紛争を解決する際には、請求金額だけでなく、回収に必要な費用を考える必要があります。
例えば、5万円の未払い代金について、次のような仮定を置いてみます。
請求書の再発行や督促に2時間、証拠書類の整理に3時間、裁判所への申し立て準備に3時間かかるとします。
合計8時間です。
仮に担当者の時間当たり人件費を3,000円とすると、社内の人件費だけで24,000円になります。
さらに、裁判所に納める手数料や郵便費用、交通費などが発生する場合があります。
弁護士に依頼すれば、その報酬も考慮する必要があります。
もちろん、これは費用構造を理解するための仮定であり、実際の手続きに必要な時間や費用は案件によって異なります。
重要なのは、5万円を全額回収できたとしても、そのために多額の費用を使えば、経済的な利益が小さくなるという点です。
企業では、こうした少額債権が数十件、数百件と積み重なることがあります。
個々の金額は小さくても、回収を諦めた債権の総額は大きくなる可能性があります。
少額訴訟という選択肢
日本には、少額の金銭トラブルを比較的簡易に解決するための少額訴訟制度があります。
少額訴訟は、原則として60万円以下の金銭の支払いを求める場合に利用できます。
通常の訴訟よりも迅速な解決を目指し、原則として1回の審理で判決を出す仕組みです。
例えば、30万円の売掛金が未払いになっている場合、少額訴訟を利用できる可能性があります。
ただし、少額訴訟にも一定の制約があります。
証拠書類を準備する必要があり、原則として審理当日に証拠調べができることが求められます。
また、被告が通常訴訟への移行を求めることもできます。
同じ簡易裁判所に少額訴訟を申し立てられる回数にも制限があります。
そのため、企業が大量の少額債権を回収するための手段としては、必ずしも効率的とは限りません。
少額訴訟は有効な制度ですが、すべての少額紛争を解決できる万能の仕組みではないのです。
支払督促の仕組みと限界
未払い代金の回収では、支払督促も重要な選択肢です。
支払督促は、債権者の申し立てに基づき、裁判所書記官が債務者に金銭の支払いを求める手続きです。
通常の訴訟とは異なり、原則として書類審査によって進められます。
一定の条件を満たせば、債権者が裁判所に出頭せずに手続きを進めることができます。
債務者から適法な異議が申し立てられず、必要な手続きを経て仮執行宣言が付されれば、強制執行につながる可能性があります。
一方、債務者が適法な異議を申し立てた場合には、通常の訴訟手続きに移行します。
また、相手方の住所や送達先を把握していることなど、利用上の条件もあります。
支払督促は、請求内容に争いが少ない金銭債権の回収に適した制度といえます。
しかし、相手方が請求内容を争っている場合には、かえって解決までに時間がかかる可能性があります。
制度を選択する際には、債権の性質や相手方の対応を見極める必要があります。
民事調停とADRの役割
裁判以外の紛争解決方法として、民事調停があります。
民事調停は、裁判所の調停委員会が当事者の間に入り、話し合いによる解決を目指す手続きです。
判決によって一方的に結論を示すのではなく、双方の事情を踏まえた合意形成を重視します。
調停が成立すると、その内容は調停調書に記載されます。
調停調書には確定判決と同様の効力が認められ、一定の要件のもとで強制執行にも利用できます。
一方、ADRは裁判外紛争解決手続きのことです。
民間の紛争解決機関などが、中立的な第三者として調停やあっせんを行います。
ADRには、当事者が柔軟な解決方法を選択しやすいという特徴があります。
例えば、未払い代金について、全額一括払いではなく、分割払いによって解決することも考えられます。
ただし、民間ADRで成立した合意の法的効力は、利用する制度や合意内容によって異なります。
一定の法令上の要件を満たす和解については、執行決定を得ることにより強制執行につながる仕組みも整備されていますが、すべてのADRの合意が当然に強制執行できるわけではありません。
ODRは何を変えるのか
ODRは、ADRなどの紛争解決手続きをオンライン上で進める仕組みです。
従来は、相談窓口への訪問、書類の郵送、対面での話し合いなどが必要になる場合がありました。
ODRでは、これらの手続きの全部または一部をスマートフォンやパソコンで進めることができます。
例えば、未払い代金について企業が申し立てを行い、相手方がスマートフォンで請求内容を確認する仕組みが考えられます。
相手方が支払いに応じれば、早期に問題が解決します。
請求内容に異議がある場合には、オンラインで調停人を交えた話し合いを進めることもできます。
大阪市のAtoJが提供するOneNegotiationは、その具体例です。
2024年9月にサービスを開始し、報道時点で累計5万件超、28億円分の申し立てがあったとされています。
そのうち約2万件、約3億円分が解決したという実績は、オンラインによる紛争解決の需要を示しています。
もっとも、申し立て件数と解決件数だけで制度の優劣を判断することはできません。
債権の金額や性質、相手方の支払能力、解決までの期間なども確認する必要があります。
紛争金額によって最適な手続きは異なる
紛争解決では、請求金額に応じて費用対効果を検討することが重要です。
例えば、3万円の未払い代金であれば、まず通常の請求や督促を行い、必要に応じてODRなどの利用を検討する方法が考えられます。
30万円の未払い代金であれば、少額訴訟や支払督促も選択肢になります。
300万円の売掛金であれば、通常訴訟を含めた法的手続きを検討する必要性が高まる可能性があります。
ただし、請求金額だけで最適な手続きが決まるわけではありません。
相手方が債務の存在を認めているか、証拠が十分にあるか、支払能力があるかなどによって判断は変わります。
また、紛争解決に必要な費用だけでなく、回収までの時間や精神的負担も考慮する必要があります。
企業の場合には、顧客との取引関係を維持することが経済的に重要な場合もあります。
裁判、ADR、ODRを対立する制度として考えるのではなく、紛争の性質に応じて使い分けることが合理的です。
法務省が目指す司法アクセスの改善
法務省は2022年3月、ODRの推進に関する基本方針を策定しました。
その中では、スマートフォンなどが1台あれば、いつでもどこでも紛争解決のための効果的な支援を受けられる社会の実現を目指しています。
2026年度は、この中期目標の最終年度に当たります。
重要なのは、単に裁判手続きをデジタル化することではありません。
これまで法律サービスを利用しにくかった人にも、紛争解決の機会を提供することです。
例えば、地方に住んでいて法律専門家への相談が難しい人や、仕事を休めないために裁判所へ出向くことができない人にとって、オンラインによる相談や調停は有効な選択肢になります。
また、育児や介護のために外出が難しい人にも、利用機会が広がる可能性があります。
司法アクセスの改善とは、法律制度を増やすことだけではありません。
制度を必要とする人が、実際に利用できる環境を整えることなのです。
司法のデジタル化と企業経営
ODRの普及は、企業の法務管理にも影響を与える可能性があります。
従来、少額債権の回収では、担当者が個別に督促し、一定期間が経過すると貸倒処理を検討することがありました。
ODRを活用すれば、回収手続きの一部を効率化し、従来は費用対効果の問題から対応が難しかった案件にも取り組める可能性があります。
また、紛争解決の過程を記録として残しやすいことも利点です。
請求内容、相手方との連絡、提出資料、合意条件などを適切に保存できれば、内部統制の強化にもつながります。
ただし、外部サービスを利用する場合には、個人情報の保護やアクセス権限の管理、委託先の監督などが必要です。
さらに、ODRで和解が成立した場合には、債権の減額や分割払いなどの条件について、社内の承認手続きを整備することが重要になります。
デジタル化によって業務を効率化すると同時に、法的な安全性を確保する仕組みが求められます。
ODRにも限界がある
ODRは、費用や時間の負担を軽減する可能性を持っていますが、すべての紛争を解決できるわけではありません。
まず、相手方が手続きに応じない場合には、合意による解決が難しくなります。
また、当事者間に大きな交渉力の差がある場合には、形式的な合意が必ずしも公正な結果につながるとは限りません。
例えば、企業と個人消費者の紛争では、企業側が多くの情報を保有している場合があります。
このような状況では、中立的な調停人の関与や、利用者が十分な説明を受ける仕組みが重要になります。
さらに、高齢者などデジタル機器の操作に不慣れな人への支援も必要です。
スマートフォンを利用できない人が、新しい紛争解決制度から排除されることがあってはなりません。
ODRの普及では、利便性と公正性、利用しやすさと法的安全性を両立させることが重要です。
結論
日本の司法制度には、少額の紛争ほど費用対効果の問題から解決を諦めやすいという構造的な課題があります。
少額訴訟、支払督促、民事調停などの制度は整備されていますが、手続きに必要な時間や費用、心理的な負担が利用の障壁になることがあります。
ODRは、こうした障壁を低くする新しい選択肢です。
スマートフォンを利用して請求内容の確認や調停を進められれば、これまで司法サービスを利用しにくかった人にも解決の機会が広がります。
企業にとっては少額債権の回収効率を高める可能性があり、個人にとっては正当な権利を実現する手段が増えることになります。
ただし、ODRは裁判制度の代替ではなく、補完する仕組みとして位置付けることが重要です。
相手方が合意に応じない場合や、法的な強制力が必要な場合には、裁判所の手続きを利用する必要があります。
今後は、裁判、ADR、ODRを適切に組み合わせ、紛争の規模や当事者の状況に応じた解決方法を選択できる社会を目指すべきでしょう。
法律上の権利が存在するだけでなく、その権利を現実に実現できることが、司法制度の本来の役割です。
ODRの普及は、2割司法と呼ばれてきた問題を改善し、誰もが必要なときに法的な救済を受けられる社会への重要な一歩になる可能性があります。
参考
日本経済新聞 2026年10月 スマホで民事トラブル解決 代金未払いや養育費の泣き寝入り改善期待
法務省 2022年3月 ODRの推進に関する基本方針
裁判所 少額訴訟に関する説明資料
裁判所 支払督促に関する説明資料
裁判所 民事調停に関する説明資料
法務省 裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律の説明資料