2026年10月、短時間労働者の社会保険加入をめぐる106万円の壁が撤廃されました。
所得税がかかり始める年収の壁も178万円に引き上げられています。
制度改正によって、これまで働き控えの原因とされてきた年収の壁は少しずつ見直されています。
しかし、制度上の壁を動かしたり撤廃したりしても、働く人が感じるもう1つの壁は残ります。
それが手取りの壁です。
額面の年収が増えても、税金や社会保険料の負担が増えれば、手取りが同じ割合で増えるわけではありません。
働く人が本当に気にしているのは年収そのものより、最終的にいくら手元に残るかです。
年収と手取りは同じではない
年収の壁を考えるとき、まず区別したいのが額面の年収と手取りです。
給与明細には支給額と控除額があります。
支給された給与から所得税、住民税、健康保険料、厚生年金保険料、雇用保険料などが差し引かれ、最終的に残った金額が手取りです。
したがって、年収が10万円増えたからといって、自由に使えるお金が10万円増えるわけではありません。
特に社会保険に新たに加入する場面では、保険料負担が発生するため、額面年収と手取りの動きに差が生じやすくなります。
この差が働き控えを考えるうえで重要になります。
税金の壁と社会保険の壁は性格が違う
年収の壁には税金に関係するものと社会保険に関係するものがあります。
この2つは同じように見えて、手取りへの影響の仕方が異なります。
所得税は、一定の基準を超えた瞬間に年収全体へ突然高い税率がかかる仕組みではありません。
課税対象となる所得に対して税金が計算されます。
そのため、税金がかかり始めたからといって、働いた分以上に手取りが突然減るという理解は適切ではありません。
一方、社会保険では加入するかどうかによって、新たな保険料負担が発生します。
そのため、働く人にとって負担増を実感しやすいのは社会保険の壁です。
130万円の壁が意識される理由
106万円の賃金要件が撤廃された後も、130万円の壁は残っています。
会社員などの配偶者の社会保険上の扶養に入っている人が、原則として年収130万円以上になると扶養から外れることになります。
勤務先の社会保険に加入する場合には、健康保険料や厚生年金保険料を負担します。
勤務先の社会保険に加入できない場合には、国民健康保険や国民年金の保険料を自分で負担するケースもあります。
これまで本人が直接負担していなかった保険料が発生するため、年収の増加ほど手取りが増えない場合があります。
これが130万円という数字が強く意識される理由の1つです。
問題は壁を少しだけ超える場合
年収の壁で特に問題になりやすいのが、壁を少しだけ超えるケースです。
例えば収入を増やした結果、新たに社会保険料を負担することになったとします。
年収の増加額が小さければ、その増加分より社会保険料負担の影響を大きく感じることがあります。
そこで働く人は考えます。
少し多く働いて負担が増えるのであれば、壁を超えないように勤務時間を抑えた方がよいのではないか。
これが働き控えにつながります。
問題は働くことそのものではなく、追加で働いたことによる収入増と負担増の関係が分かりにくい点にあります。
壁を大きく超えるという選択肢
一方、年収の壁を考えるときに見落とされやすいのが、壁の直前で止まるか、少しだけ超えるかという2択ではないことです。
もう1つの選択肢があります。
壁を大きく超えるまで働くことです。
社会保険料負担が発生しても、それを上回るほど収入を増やすことができれば、手取りも増えていきます。
年収130万円を超えること自体が問題なのではありません。
重要なのは、社会保険加入後にどの程度働き、最終的な手取りがどのように変化するのかです。
壁を超えるかどうかではなく、壁を超えた後まで考える必要があります。
社会保険料は単なるコストではない
手取りだけを見ると、社会保険料は給与から差し引かれる負担に見えます。
しかし、社会保険料には将来や万一に備える役割があります。
厚生年金に加入すれば、加入期間と報酬に応じて将来受け取る老齢厚生年金が増えます。
一定の要件を満たせば、障害厚生年金や遺族厚生年金の保障にもつながります。
健康保険には、病気やけがで働けなくなった場合の傷病手当金などの仕組みがあります。
さらに勤務先の社会保険では、保険料を事業主と被保険者で負担します。
現在の給与明細だけを見ると負担増ですが、保障まで含めれば意味は変わります。
今月の手取りと将来の所得を分けて考える
働き方を決める際に難しいのは、現在と将来で損得が異なることです。
扶養内で働けば、現在の社会保険料負担を抑えることができます。
その意味では目先の手取りを確保しやすい働き方です。
一方、勤務時間を増やして厚生年金に加入すれば、現在の手取りから保険料が差し引かれますが、将来の年金額は増えます。
さらに働く時間を増やすことで収入そのものを高めれば、生涯所得が大きくなる可能性があります。
今月いくら残るかと、生涯でいくら受け取るかは別の問題です。
両方を見て判断する必要があります。
企業にも説明が求められる
手取りの壁は企業にとっても重要です。
従業員から社会保険に入ると損なのか、どのくらい働けば手取りが増えるのかと質問されることもあるでしょう。
制度が複雑なため、正確な情報がなければ、必要以上に壁を恐れて勤務時間を減らしてしまう可能性があります。
企業が社会保険加入の仕組みを分かりやすく説明し、従業員自身が働き方を判断できるようにすることは、人手不足対策という意味でも重要になります。
もちろん、個々の家計状況や配偶者の勤務先の制度などによって条件は異なります。
一律に壁を超えた方がよいと考えるのではなく、それぞれの条件で確認することが必要です。
税制だけ直しても働き控えはなくならない
年収の壁の議論では、税金の基準が注目されやすい傾向があります。
しかし、働き控えを考えるうえでは社会保険の影響を切り離せません。
所得税の壁を引き上げても、社会保険加入によって手取りの伸びが一時的に鈍る地点が残れば、その地点を意識する人は残ります。
106万円の賃金要件を撤廃しても、週20時間という労働時間要件や130万円の壁があります。
つまり、1つの壁を動かしただけでは働き方を左右する境界線が完全になくなるわけではありません。
税と社会保険を一体として考える必要があります。
本当に必要なのは手取りが滑らかに増える仕組み
働き控えを減らすために重要なのは、単純に壁の数字を引き上げることだけではありません。
働く時間を増やし、収入が増えれば、それに応じて手取りも増えていくことを実感できる制度が重要です。
ある地点を超えた瞬間に負担感が大きく変化すると、人はその直前で働く時間を調整します。
壁を178万円に動かしても、別の場所に新しい壁ができれば同じ問題が繰り返される可能性があります。
働き方にできるだけ影響を与えず、収入増に応じて負担も手取りも滑らかに変化する制度をどう設計するのかが課題になります。
結論
106万円の壁の撤廃や所得税の壁の引き上げによって、年収の壁をめぐる制度は大きく変わっています。
しかし、働く人が最も気にするのは制度上の年収基準そのものではありません。
最終的にいくら手元に残るかです。
130万円の壁や週20時間という基準が残るなかでは、社会保険加入による負担増を意識した働き控えが続く可能性があります。
一方で、社会保険料は単なる負担ではありません。
厚生年金による将来の年金増加や健康保険の保障なども含めて考える必要があります。
年収の壁を超えるか超えないかだけで判断するのではなく、壁を超えた後にどこまで収入を増やせるのか、将来の年金はどう変わるのかまで考える。
年収の壁の問題は、これからは手取りと生涯所得の問題として考えることが重要になってきます。
参考
日本経済新聞 2026年10月1日朝刊 労働臨界「働き控え」なお400万人超 「年収の壁」106万円撤廃