東京都荒川区の日暮里繊維街で、地域産業の再生につながる新しい起業支援が進んでいます。
荒川区が2021年に開設したファッション特化型の起業支援拠点「イデタチ東京」では、開設から5年間で13事業者が卒業し、そのうち9事業者が区内で事業を継続しています。
地域定着率は約69%です。
全国の自治体が創業支援に力を入れるなか、荒川区の取り組みが注目される理由は、単に起業家を増やすだけではなく、地域に根付く企業を育てようとしている点にあります。
人口減少や事業者の高齢化が進む日本では、地域産業を維持するための政策も転換期を迎えています。
今回は、日暮里繊維街の事例から、これからの地域産業政策と起業支援のあり方を考えます。
日暮里繊維街が直面する産業基盤の縮小
日暮里繊維街は、東京都荒川区の日暮里駅東側に約1キロメートルにわたって広がる繊維関連の商業集積地です。
生地や革、ボタン、服飾資材などを扱う専門店が集まり、アパレル事業者だけでなく、個人の手芸愛好家にも利用されてきました。
その歴史は大正初期にさかのぼります。
浅草方面で営業していた繊維問屋などが移転したことを契機に、繊維関連事業者の集積が進みました。
しかし、長い歴史を持つ日暮里繊維街も、事業者の高齢化や不動産価格の上昇などによる構造的な課題に直面しています。
加盟店舗数は2022年度の96店から2026年度には80店へ減少しました。
4年間で16店、約17%の減少です。
この傾向が続けば、個々の店舗が減るだけでなく、街全体が持つ産業集積の魅力も弱まる可能性があります。
専門店が集まる地域では、店舗同士の近接性そのものが競争力になります。
例えば、洋服を製作する事業者にとって、生地、ボタン、ファスナーなどの資材を短時間で調達できる環境は大きな利点です。
店舗が減少すれば、こうした利便性も低下します。
地域産業の再生には、既存事業者の事業承継を支援するだけでなく、新しい事業者を呼び込む取り組みが必要になります。
起業支援を地域の強みに集中させる発想
荒川区の取り組みで特徴的なのは、支援対象をファッション関連事業に絞っていることです。
一般的な自治体の創業支援施設では、IT、飲食、サービス、小売など幅広い業種を対象とするケースがあります。
もちろん、多様な産業を育成することにも意義があります。
しかし、地域産業の再生という観点では、必ずしも創業件数の増加が地域経済の活性化につながるとは限りません。
例えば、オンラインサービスを提供する企業は、創業支援施設を卒業した後、より条件のよい地域へ移転することも比較的容易です。
一方、日暮里繊維街でファッション事業を始めた企業にとっては、近隣の専門店や関連事業者の存在が事業活動を支える重要な経営資源になります。
地域に立地すること自体が競争上の利点になるわけです。
荒川区は、この地域特性を起業支援に取り入れています。
支援対象を地域の強みと結び付けることで、創業後も区内で事業を続ける動機を生み出しています。
これは、地域産業政策における重要な考え方です。
創業後の3年間を支える仕組み
イデタチ東京では、創業5年以内の事業者や起業予定者を対象に、9事業者が入居できるオフィスを整備しています。
利用期間は最長3年間です。
施設は24時間365日利用でき、入居者は自らの事業に合わせた働き方ができます。
しかし、注目したいのは施設の提供だけではありません。
入居者はインキュベーションマネージャーと月2回の面談を行い、経営上の課題について継続的に相談できます。
さらに、中小企業診断士、税理士、アパレル業界の専門家などが、事業運営を支援しています。
創業初期の経営者は、商品開発や販売に関する知識を持っていても、資金繰り、税務、契約、価格設定などの経営実務に十分な経験があるとは限りません。
優れた商品を作る技術と、企業を継続的に経営する能力は別のものです。
この不足を補うのが、専門家による伴走支援です。
また、施設を卒業して区内に拠点を構える事業者には、最長3年間、月5万円を上限とする家賃補助制度があります。
仮に上限額の補助を36カ月受けた場合、補助総額は180万円になります。
創業間もない企業にとって、固定費の軽減は資金繰りの安定に直結します。
入居期間中の育成だけでなく、卒業後の地域定着まで支援している点に、この制度の特徴があります。
創業件数だけでは測れない政策効果
自治体の創業支援政策では、創業者数や支援件数が成果指標として用いられることがあります。
しかし、創業件数が多くても、数年後に廃業したり、地域外へ移転したりする企業が多ければ、地域経済への継続的な効果は限定的です。
そのため、今後の創業支援政策では、次のような指標を重視する必要があります。
第一に、創業後の事業継続率です。
第二に、地域内での事業定着率です。
第三に、地域内で生み出された雇用者数です。
第四に、地域企業との取引額です。
第五に、事業者の売上高や付加価値額の成長です。
例えば、創業支援によって10社が誕生しても、地域に残る企業が2社しかなければ、地域産業の再生という観点では十分とはいえません。
一方、創業した企業が地域に定着し、周辺企業との取引を増やせば、経済効果が地域内に広がります。
日暮里の事例では、13事業者のうち9事業者が区内に残っています。
ただし、この数字だけで政策の費用対効果を判断することはできません。
施設運営費や補助金などの公的負担に対して、どの程度の売上、雇用、税収が生み出されたかを継続的に検証することが重要です。
地域金融機関にも求められる新しい役割
地域産業の再生では、自治体だけでなく、信用金庫や地方銀行など地域金融機関の役割も重要です。
創業初期の企業は、十分な担保や過去の業績を持っていないことが一般的です。
そのため、従来型の財務諸表中心の融資審査だけでは、将来性のある事業を適切に評価できない場合があります。
特にファッション関連事業では、ブランド価値、デザイン力、顧客との関係性、販売チャネルなどが競争力を左右します。
これらは貸借対照表に十分反映されないこともあります。
地域金融機関には、事業内容や経営者の能力、販売戦略などを評価する事業性評価が求められます。
例えば、創業支援施設の専門家と金融機関が連携すれば、事業計画の策定から資金調達、販路拡大まで一貫した支援が可能になります。
金融機関が資金を提供し、自治体が事業環境を整備し、専門家が経営能力を補完する仕組みです。
こうした連携は、創業企業の経営基盤を強化するだけでなく、地域金融機関にとっても将来の取引先を育成する機会になります。
地域産業の再生には既存企業との連携が不可欠
新しい企業を育てることと、既存企業を守ることは対立する政策ではありません。
むしろ、両者を結び付けることで、地域産業の競争力を高めることができます。
例えば、若いファッションデザイナーが日暮里で創業し、地元の生地店から材料を購入するとします。
さらに、縫製や加工を地域の事業者に依頼すれば、既存企業にも新しい取引が生まれます。
一方、既存企業が持つ技術や商品知識は、新しい事業者の商品開発を支える重要な資源になります。
若い経営者の発想と、長年培われた職人技術を組み合わせることができれば、新たな付加価値の創出も期待できます。
地域産業の再生は、古い企業を新しい企業に置き換えることではありません。
既存企業と新規企業が互いの強みを活用し、産業全体を進化させることが重要です。
他の地域にも応用できる産業特化型支援
日暮里の取り組みは、繊維産業だけに限られたものではありません。
例えば、金属加工業が集積する地域では、ものづくり分野の起業家を育成する方法が考えられます。
食品加工業が盛んな地域では、地元食材を活用した食品ブランドの創業支援が可能です。
伝統工芸の産地では、職人技術とデザイン、電子商取引を組み合わせた新しい事業の育成も考えられます。
重要なのは、全国の自治体が同じ産業を誘致するのではなく、それぞれの地域が持つ経営資源を活用することです。
地域の強みと無関係な産業を育成しようとすれば、多額の補助金を投入しても、企業が地域に定着しない可能性があります。
一方、地域に存在する技術、人材、取引先、歴史などを活用すれば、比較的小規模な支援でも持続的な成果につながる可能性があります。
結論
東京都荒川区の日暮里繊維街で進むファッション特化型の起業支援は、地域産業政策の新しい方向性を示しています。
その特徴は、創業件数の増加だけを目的とせず、地域産業との親和性を重視し、創業後の経営支援と地域定着までを一体的に進めていることです。
5年間で13事業者を輩出し、9事業者が区内で事業を継続している実績は、こうした取り組みの可能性を示しています。
もっとも、地域産業の再生を実現するには、創業企業の継続的な成長や既存企業との取引拡大など、長期的な成果を確認する必要があります。
今後、人口減少や経営者の高齢化がさらに進む日本では、地域産業を維持するための政策も変わらなければなりません。
創業支援の成功を測る基準は、何社が起業したかだけではなく、何社が地域に根付き、どのような価値を生み出したかにあります。
日暮里繊維街の取り組みは、地域の強みを生かした産業再生を考えるうえで、重要な事例になると考えられます。
参考
日本経済新聞 2026年10月16日 繊維の街・日暮里発、ファッション特化の起業支援 手厚い伴走で定着