日本企業では、人手不足が深刻化するなか、従業員の賃上げが重要な経営課題になっています。
大企業を中心に高い賃上げ率が実現する一方、中小企業では人件費の増加を販売価格に十分転嫁できず、賃上げの原資を確保できないケースがあります。
その背景には、日本企業に長年定着してきた下請け取引の構造があります。
大企業を頂点として、一次下請け、二次下請け、三次下請けと取引が重なる多重下請け構造です。
日本経済新聞が取り上げた「民民規制」の問題は、こうした企業間取引にも当てはまります。
取引先との長期的な関係を重視するあまり、原材料費や人件費が上昇しても、価格改定を求めにくい慣行が残っているからです。
本来、企業が従業員の給与を引き上げるためには、生産性を高めるとともに、その成果を適切な販売価格として回収する必要があります。
しかし、下請け企業が価格交渉で不利な立場に置かれていれば、生産性を高めても利益が十分に残らない可能性があります。
今回は、下請け企業が賃上げしにくい構造を整理し、価格転嫁と生産性向上を両立させるための企業経営のあり方について考えます。
日本企業の多重下請け構造はなぜ生まれたのか
日本の製造業では、長年にわたり、大企業を中心とした系列取引が発展してきました。
完成品メーカーが製品の企画や販売を担当し、部品の製造や加工を協力会社に委託する仕組みです。
この構造には、専門分業によって生産効率を高めるというメリットがありました。
企業は自社ですべての工程を抱える必要がなく、外部企業の専門技術を活用できます。
また、需要が増減した場合にも、外部への発注量を調整することで対応できます。
一方、受注する中小企業にとっては、安定した取引先を確保できるという利点がありました。
しかし、特定の大企業への依存度が高くなると、取引条件の交渉で不利になる場合があります。
発注元からの仕事がなくなれば経営に大きな影響が生じるため、価格引き上げを求めにくくなるからです。
さらに、一次下請けから二次下請け、三次下請けへと取引が重なる場合、最終的に製品やサービスを提供する企業ほど利益率が低くなることがあります。
こうした構造が、下請け企業の賃上げを難しくする要因の一つになっています。
人件費が増えても価格を上げられない理由
中小企業が賃上げを実施する場合、従業員に支払う給与だけでなく、社会保険料の事業主負担なども増加します。
例えば、従業員100人の企業が、1人当たり年間20万円の賃上げを実施するとします。
給与の増加額は年間2,000万円です。
さらに、社会保険料などの事業主負担も増えるため、企業全体の人件費負担はそれ以上になります。
この増加分を吸収するためには、生産性向上によるコスト削減や、販売価格への転嫁が必要です。
しかし、発注元が価格改定に応じなければ、利益を削って賃上げすることになります。
利益率が低い中小企業では、こうした負担を長期間続けることは困難です。
また、取引先との関係悪化を懸念して、価格交渉そのものを控える企業もあります。
長年同じ価格で取引してきた場合、価格改定を申し出ることに心理的な抵抗が生じることもあります。
しかし、人件費や原材料費が上昇しているにもかかわらず、販売価格を据え置くことが常態化すれば、企業の収益力は低下します。
結果として、従業員の賃金を引き上げる余力も失われてしまいます。
価格転嫁できない企業の利益はどうなるのか
具体的な数字で考えてみます。
年間売上高10億円の部品メーカーがあるとします。
売上原価が8億円、販売費及び一般管理費が1億5,000万円であれば、営業利益は5,000万円です。
営業利益率は5%になります。
この企業で、原材料費が年間2,000万円、人件費が年間2,000万円増加したとします。
販売価格を変更できなければ、営業利益は1,000万円まで減少します。
営業利益率は1%です。
これでは、設備投資や研究開発に必要な資金を十分に確保できなくなる可能性があります。
一方、増加した4,000万円のコストをすべて販売価格に転嫁できれば、他の条件が変わらない場合、営業利益は5,000万円を維持できます。
ただし、価格引き上げによって受注数量が減少する可能性もあるため、実際には需要や競争環境を踏まえた判断が必要です。
重要なのは、価格転嫁が単に企業の利益を守るための行為ではないということです。
賃上げや設備投資、研究開発を継続するための重要な経営活動でもあります。
大企業の利益と下請け企業の利益は対立するのか
発注元の大企業にとって、仕入価格の引き下げは利益改善につながります。
例えば、年間100億円の部品を購入している企業が、仕入価格を2%引き下げれば、単純計算で年間2億円のコスト削減になります。
しかし、その値下げによって下請け企業の利益が大幅に減少すれば、長期的には発注元にも不利益が生じる可能性があります。
下請け企業が設備更新を先送りしたり、熟練技術者が離職したりすれば、品質や納期に影響するからです。
さらに、取引先が廃業すれば、代替調達先の確保に多額の費用や時間が必要になる場合があります。
つまり、発注元が短期的な利益だけを追求すると、サプライチェーン全体の競争力を損なう可能性があります。
重要なのは、発注元と受注企業の双方が持続的に成長できる取引関係を構築することです。
適切な価格転嫁は、下請け企業だけを保護する仕組みではありません。
発注元にとっても、安定した調達体制と品質を維持するための投資と考えることができます。
取引適正化に向けた法律の見直し
日本では、下請け取引の適正化を進めるため、法制度の見直しが行われています。
2026年1月には、従来の下請代金支払遅延等防止法が改正され、法律の名称も中小受託取引適正化法となりました。
一般に「取適法」と呼ばれています。
この改正では、従来の資本金基準に加えて従業員数による基準が導入されるなど、対象取引の見直しが行われました。
また、受注企業から価格協議の求めがあったにもかかわらず、必要な協議を行わず、一方的に代金を決定する行為への規制も強化されました。
ただし、法律が適用されるかどうかは、取引内容や当事者の規模などによって判断されます。
すべての企業間取引に同じ規制が適用されるわけではありません。
重要なのは、法令に違反しなければよいという発想にとどまらないことです。
発注元が取引先の人件費や原材料費の変動を理解し、合理的な価格協議を行うことが、持続可能な取引関係につながります。
企業には、購買部門だけでなく、経営者や財務部門も含めた取引方針の見直しが求められます。
労務費の価格転嫁はなぜ難しいのか
原材料費の上昇については、市場価格や仕入価格の変化を示しやすいという特徴があります。
例えば、鋼材や原油などの価格が上昇した場合、客観的なデータを用いて価格交渉を行うことができます。
一方、労務費の上昇は、取引先に説明しにくい場合があります。
従業員の賃金水準や人員配置、生産性は企業ごとに異なるからです。
また、発注元から、賃上げ分は自社の生産性向上で吸収すべきだと求められることも考えられます。
しかし、社会全体で賃金が上昇する局面では、個別企業の努力だけで人件費増加を吸収することには限界があります。
公正取引委員会は、労務費の適切な転嫁に向けた価格交渉の指針を公表しています。
発注者と受注者が定期的に協議し、公表資料などの客観的な情報を活用することが重要です。
例えば、最低賃金の改定状況や春季労使交渉の賃上げ動向などを参考に、必要な価格改定を検討する方法が考えられます。
企業は、労務費の上昇を単なる内部コストとして扱うのではなく、取引価格を見直す合理的な要因として捉える必要があります。
多重下請け構造が賃上げを難しくする
多重下請け構造では、元請け企業から一次下請け、二次下請け、三次下請けへと発注が行われます。
各段階で管理費や利益が必要になるため、最終的に実務を担当する企業が受け取る金額が小さくなる場合があります。
例えば、元請け企業が1億円で受注した業務について、各段階で15%を差し引いて次の企業へ発注する場合を考えます。
4段階の再委託を経ると、最終的な受注金額は約5,220万円になります。
もちろん、各段階で実際に管理業務や品質保証などの付加価値を提供している場合には、その対価が必要です。
問題なのは、十分な付加価値を提供していない中間業者が存在し、実際に業務を担当する企業の利益が圧迫される場合です。
こうした構造では、最終的な受注企業が人件費を引き上げる余力を確保しにくくなります。
特にIT業界では、多重下請け構造によって技術者の能力と報酬が一致しないという問題が指摘されています。
今後は、取引階層の合理性を検証し、実際に付加価値を生み出す企業や人材へ適切な報酬が配分される仕組みが重要になります。
価格転嫁だけでは賃上げは続かない
価格転嫁は賃上げの原資を確保するために重要ですが、それだけで持続的な賃金上昇が実現するわけではありません。
企業自身が生産性を高めることも必要です。
例えば、製造業では設備の自動化や生産工程の改善によって、従業員1人当たりの生産量を増やすことが考えられます。
サービス業では、デジタル化やAIの活用によって、定型業務に必要な時間を削減できます。
また、取引先ごとの採算を分析し、利益率の低い取引を見直すことも重要です。
売上高が増えていても、利益が十分に残らない取引を続けていれば、賃上げの原資は確保できません。
さらに、自社の技術やサービスを差別化し、価格競争に巻き込まれにくい事業を育てることも必要です。
企業が独自の価値を提供できれば、取引先に対して価格の合理性を説明しやすくなります。
価格転嫁と生産性向上は、どちらか一方を選択するものではありません。
両方を同時に進めることが、持続的な賃上げにつながります。
中小企業が取り組むべき価格交渉の具体策
中小企業が価格転嫁を進めるためには、日常的な経営管理の改善が必要です。
第一に、製品やサービスごとの原価を正確に把握することです。
材料費、労務費、外注費、間接費などを整理し、取引ごとの採算を明確にします。
第二に、人件費の上昇を数値で示すことです。
例えば、賃上げによって年間2,000万円の人件費が増加する場合、製品単価にどの程度の影響があるかを計算します。
第三に、定期的な価格協議の機会を設けることです。
コストが大幅に上昇してから交渉するのではなく、一定期間ごとに価格を見直す仕組みを整えることが重要です。
第四に、特定の取引先への依存度を下げることです。
複数の販売先を確保することで、価格交渉力を高められる可能性があります。
第五に、付加価値の高い製品やサービスへ事業を転換することです。
単純な価格競争から脱却し、技術力や品質、納期対応などの強みを生かす必要があります。
第六に、経営者が価格交渉を重要な経営課題として位置づけることです。
営業担当者だけに任せるのではなく、財務状況や事業戦略を踏まえて交渉方針を決定することが求められます。
価格転嫁が日本経済全体に与える影響
価格転嫁の問題は、個別企業の収益だけでなく、日本経済全体にも関係しています。
中小企業は日本の企業数の大部分を占め、多くの雇用を支えています。
そのため、中小企業で賃上げが進まなければ、日本全体の賃金上昇も限定的になる可能性があります。
また、賃金が上昇しなければ、家計の購買力が十分に高まらず、個人消費の拡大にもつながりにくくなります。
一方、適切な価格転嫁によって企業収益が改善し、賃上げや設備投資が進めば、経済全体の成長につながる可能性があります。
ただし、価格転嫁による販売価格の上昇は、購入する企業や消費者の負担にもなります。
そのため、価格転嫁だけに依存するのではなく、生産性向上によって付加価値を増やすことが重要です。
企業が生み出す付加価値を拡大し、その成果を従業員や取引先へ適切に分配することが、持続的な経済成長につながります。
価格転嫁の適正化は、企業間の利益配分を見直すだけでなく、日本経済の成長構造を変える重要な課題といえます。
結論
下請け企業が賃上げできない背景には、原材料費や人件費の上昇を販売価格に十分転嫁できないという構造的な問題があります。
特に、多重下請け構造や特定の取引先への依存、長年の価格据え置き慣行などが、企業の収益力を圧迫する要因になっています。
こうした取引慣行は、企業間で形成されてきた民民規制の一つと考えることができます。
もちろん、発注元にとってもコスト管理は重要です。
しかし、短期的な仕入価格の引き下げを優先しすぎれば、取引先の設備投資や人材育成が停滞し、サプライチェーン全体の競争力を損なう可能性があります。
これからの企業経営では、発注元と受注企業が適切な価格協議を行い、双方が持続的に成長できる取引関係を構築することが重要です。
また、中小企業自身も、原価管理の高度化、生産性向上、取引先の分散、製品やサービスの高付加価値化に取り組む必要があります。
賃上げを実現するためには、企業が利益を確保することが欠かせません。
その利益は、単なる価格引き上げではなく、付加価値の向上と適正な取引条件によって生み出されるべきです。
日本企業が持続的な賃金上昇を実現するためには、多重下請け構造や価格転嫁を阻む取引慣行を見直し、企業規模にかかわらず適切な利益を確保できる経済構造へ転換することが必要ではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月26日朝刊「多重下請けや役職定年…日本の生産性そぐ『民民規制』 世界では異形」
公正取引委員会 2023年11月29日「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」
公正取引委員会 2026年1月施行「中小受託取引適正化法」
中小企業庁 2025年版中小企業白書