日本のIT産業では、長年にわたり、多重下請け構造を前提とした事業モデルが維持されてきました。
大手システム開発会社が企業から案件を受注し、その業務を一次下請け、二次下請け、三次下請けへと再委託する仕組みです。
この構造では、実際にプログラムを開発する技術者が、発注企業から遠い立場に置かれることがあります。
また、技術者の報酬が、専門能力や成果よりも、所属企業や契約階層によって左右される場合があります。
日本経済新聞によると、日本のIT産業には約150万人の技術者が従事し、案件によっては六次下請けまで取引が重なるケースがあります。
こうした多重下請け構造は、長年にわたって日本のシステム開発を支えてきました。
しかし、生成AIの普及によって、その前提が大きく変わろうとしています。
AIがプログラムの作成や修正、テストなどを支援することで、従来ほど多くの技術者を必要としない開発工程が増える可能性があるからです。
これまで日本のIT産業では、技術者の人数と作業時間を基準に報酬を決める「人月商売」が広く利用されてきました。
しかし、AIによって少人数でも高い成果を生み出せるようになれば、投入した人数や時間だけで価格を決める仕組みには限界が生じます。
今回は、生成AIが日本の多重下請け構造に与える影響と、IT企業が人月商売から付加価値経営へ転換するための課題について考えます。
日本のIT産業を支えてきた人月商売
日本のシステム開発では、技術者の人数と作業期間を基準に契約金額を算定する方法が広く利用されています。
例えば、技術者10人が6カ月間作業する案件では、60人月という単位で開発規模を表します。
仮に1人月当たり100万円で契約すれば、契約金額は6,000万円になります。
この方式には、見積もりや予算管理を行いやすいというメリットがあります。
また、開発途中で仕様変更が発生した場合にも、追加工数を算定することで費用を調整しやすくなります。
しかし、人月商売には構造的な問題があります。
技術者の人数や作業時間が売上高の基準になるため、作業時間を削減することが必ずしも受注企業の売上増加につながらないからです。
例えば、AIの活用によって60人月の作業を30人月で完了できるようになった場合を考えます。
従来と同じ単価で工数に応じて請求する契約であれば、売上高は6,000万円から3,000万円に減少します。
一方、発注企業にとっては、同じシステムを短期間かつ低コストで導入できる可能性があります。
このように、人月商売では、発注企業と受注企業の生産性向上に対する利害が一致しない場合があります。
AIの普及は、こうした事業モデルの矛盾を一層明確にすると考えられます。
AIはシステム開発のどの工程を変えるのか
生成AIは、システム開発のさまざまな工程で活用され始めています。
代表的なのが、プログラムコードの作成支援です。
技術者が必要な機能を文章で指示すると、AIがコードの候補を生成することができます。
また、既存プログラムの内容を説明したり、不具合の原因を調査したりする作業にも利用できます。
さらに、テストコードの作成や設計書の下書き、技術文書の整理なども支援できます。
これらの業務では、従来より少ない時間で作業を進められる可能性があります。
ただし、AIが生成したコードには誤りや脆弱性が含まれる場合があります。
そのため、技術者による確認やテスト、セキュリティー評価は引き続き必要です。
また、企業の業務を理解し、どのようなシステムを構築すべきかを判断する工程では、人間の専門知識が重要になります。
AIは、システム開発に必要な人材をすべて不要にするものではありません。
しかし、定型的な作業に必要な工数を減らし、技術者の役割を変化させる可能性があります。
多重下請け構造がAI時代に弱い理由
多重下請け構造では、発注企業と実際に開発する技術者の間に、複数の企業が存在する場合があります。
この仕組みには、開発規模に応じて人材を柔軟に確保できるというメリットがあります。
一方、契約階層が増えるほど、情報伝達や管理に時間がかかる可能性があります。
また、各企業が利益を確保する必要があるため、実際に開発する企業が受け取る金額が小さくなることもあります。
AIの普及によって必要な開発工数が減少すれば、こうした多重下請け構造の合理性が問われることになります。
例えば、従来は20人の技術者が必要だった業務を、AIを活用した5人のチームで実施できるようになった場合を考えます。
必要な技術者が減少すれば、複数の下請け企業から人材を集める必要性も低下します。
また、発注企業がAIを活用して一部の開発業務を内製化することも考えられます。
その結果、技術者を供給するだけの企業は、受注機会が減少する可能性があります。
ただし、大規模システムの開発や保守では、専門技術や安定した運用体制が引き続き必要です。
多重下請け構造が一斉になくなるわけではありません。
重要なのは、各企業が契約階層の中でどのような付加価値を提供しているかということです。
AIによる生産性向上は売上減少につながるのか
AIの導入によって開発工数が減少すると、人月単価で売上高を計上する企業では、売上減少につながる可能性があります。
例えば、年間売上高10億円のシステム開発会社があるとします。
そのうち8億円が技術者の稼働時間に応じた契約による売上高だったとします。
AIの活用によって必要工数が25%減少し、単価や受注件数が変わらなければ、この部分の売上高は6億円になります。
他の売上高が変わらなければ、会社全体の売上高は8億円に減少します。
しかし、工数削減によって人件費や外注費も減少する場合があります。
そのため、売上高が減少しても、営業利益が必ずしも減少するとは限りません。
さらに、AIによって短期間で開発できるようになれば、同じ人員でより多くの案件を受注できる可能性があります。
重要なのは、作業時間を販売する事業モデルから、顧客に提供する成果や価値に応じて報酬を得る事業モデルへ転換することです。
AIによる生産性向上を売上減少の要因として捉えるのではなく、新しい収益機会を生み出す手段として活用する必要があります。
成果報酬型のシステム開発は可能なのか
人月商売から脱却する方法の一つが、成果や提供価値を重視した契約です。
例えば、企業の経理業務を効率化するシステムを開発する場合を考えます。
従来は、技術者が何人で何カ月作業するかによって契約金額を決定することが一般的でした。
一方、成果を重視する契約では、業務時間の削減や処理能力の向上などを評価する方法が考えられます。
例えば、システム導入によって年間5,000万円の業務コスト削減が見込まれる場合、その価値を踏まえて契約金額を設定する方法です。
ただし、実際の成果は発注企業の業務改革や従業員の利用状況にも左右されます。
そのため、受注企業だけに成果責任を負わせる契約には問題があります。
また、成果の測定方法や責任範囲を明確にしなければ、契約上の紛争につながる可能性があります。
成果報酬型の契約を導入する場合には、達成目標、評価期間、測定方法、リスク分担などを事前に定めることが重要です。
すべてのシステム開発を成果報酬型にする必要はありません。
しかし、工数だけでなく、顧客が得られる価値を価格に反映する考え方は、今後ますます重要になるでしょう。
AI時代に価値が高まるIT技術者とは
AIの普及によって、IT技術者に求められる能力も変化すると考えられます。
従来は、プログラムを正確かつ迅速に作成する能力が重要でした。
今後もその能力は必要ですが、AIを活用すれば、コード作成の一部を効率化できます。
その結果、企業の業務課題を理解し、適切なシステムを設計する能力の重要性が高まります。
例えば、企業の決算業務を効率化する場合、会計制度や内部統制、業務フローへの理解が必要です。
単にプログラムを作成するだけでは、適切なシステムを構築できません。
また、AIが生成したコードの品質や安全性を評価する能力も重要になります。
さらに、顧客企業の経営課題を理解し、技術を活用した改善策を提案する能力が求められます。
つまり、AI時代のIT技術者には、技術力に加えて、業務知識や課題解決能力が必要になります。
企業は、技術者の人数を増やすことだけでなく、一人ひとりの専門性を高める人材育成へ投資する必要があります。
IT企業のM&Aが進む可能性
AIの普及は、IT業界の企業再編にも影響すると考えられます。
日本のIT業界には、多数の中小システム開発会社が存在しています。
その中には、特定の大手企業から業務を受託し、技術者の稼働時間を収益源とする企業もあります。
AIによって開発工数が減少すれば、こうした企業の事業モデルが見直しを迫られる可能性があります。
一方、高度な専門技術や顧客基盤を持つ企業には、新たな成長機会が生まれます。
例えば、ITサービス企業のSHIFTは、企業買収などを通じて事業領域の拡大や人材の確保を進めてきました。
今後は、単に技術者数を増やすためのM&Aだけでなく、AIや高度な専門技術を獲得するための企業買収が重要になると考えられます。
ただし、M&Aによって企業規模を拡大するだけでは、生産性向上は実現しません。
買収後に業務プロセスや人材配置を見直し、技術や顧客基盤を有効活用する必要があります。
AI時代の企業再編では、企業規模よりも、どのような付加価値を生み出せるかが重要になります。
AI投資の効果を財務面から評価する
IT企業がAIを導入する際には、投資効果を財務面から評価する必要があります。
例えば、年間売上高20億円、営業利益2億円のシステム開発会社があるとします。
この企業がAI関連のシステム導入や人材育成に年間5,000万円を投資したとします。
その結果、開発工程の効率化によって年間8,000万円のコスト削減が実現した場合、他の条件が変わらなければ、営業利益は2億3,000万円になります。
一方、AI投資によって新しいサービスを開発し、追加の利益を獲得できれば、さらに収益性が改善する可能性があります。
ただし、AI導入には情報漏洩や品質管理、著作権、セキュリティーなどのリスクもあります。
また、従業員がAIを適切に活用できなければ、期待した効果を得られない場合があります。
そのため、投資判断では、導入費用だけでなく、教育費用や管理費用、リスク対応費用も含めて評価することが重要です。
AI投資の目的は、単に最新技術を導入することではありません。
企業の付加価値を高め、持続的な収益成長につなげることです。
多重下請けから脱却するための経営改革
AI時代にIT企業が成長するためには、従来の事業モデルを見直す必要があります。
第一に、技術者の稼働時間だけに依存しない収益構造を構築することです。
顧客企業の業務改善や経営課題の解決など、提供価値に応じたサービスを拡充する必要があります。
第二に、AIを活用した開発工程の効率化を進めることです。
コード作成やテストなどの定型業務を効率化し、技術者が高度な設計や顧客対応に集中できる環境を整えます。
第三に、顧客企業との直接取引を増やすことです。
顧客の経営課題を直接理解することで、より付加価値の高い提案が可能になります。
第四に、技術者の専門能力を高めることです。
AIだけでなく、業務知識やセキュリティー、システム設計などの能力を強化する必要があります。
第五に、外注構造を見直すことです。
単に取引階層を減らすのではなく、各企業が提供する付加価値を検証し、合理的な役割分担を構築します。
第六に、売上高だけでなく、利益率や従業員1人当たりの付加価値を重視することです。
人員を増やすことで成長する経営から、生産性を高めることで成長する経営への転換が求められます。
結論
生成AIの普及は、日本のIT産業が長年維持してきた多重下請け構造と人月商売に、大きな変化をもたらす可能性があります。
従来は、技術者の人数と作業時間が売上高を左右する重要な要素でした。
しかし、AIによって少人数でも高い成果を生み出せるようになれば、投入工数だけを基準に価格を決める事業モデルには限界が生じます。
特に、多重下請け構造の中で技術者を供給することだけを収益源としている企業は、事業モデルの見直しを迫られる可能性があります。
一方、AIを活用して顧客企業の経営課題を解決し、高い付加価値を提供できる企業には、新しい成長機会が生まれます。
重要なのは、AIによって技術者が不要になるということではありません。
技術者に求められる役割が、単純な作業から高度な設計や課題解決へと変化することです。
また、企業経営においても、技術者の人数や売上高の拡大だけでなく、利益率や付加価値の向上を重視する必要があります。
AI時代の競争力は、どれだけ多くの人材を確保しているかではなく、限られた人材と技術を活用して、どれだけ大きな価値を生み出せるかによって決まると考えられます。
日本のIT産業が生産性を高めるためには、多重下請け構造の合理性を検証し、人月商売から付加価値経営へ転換することが重要です。
生成AIは、その改革を加速させる大きな契機になるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月26日朝刊「多重下請けや役職定年…日本の生産性そぐ『民民規制』 世界では異形」