代金の未払いや養育費の不払い、契約をめぐるトラブルなど、私たちの身近にはさまざまな民事紛争があります。
しかし、実際に問題が発生しても、弁護士への相談費用や裁判にかかる時間を考え、解決を諦めてしまう人は少なくありません。
こうした状況を変える可能性を持つのが、オンライン紛争解決手続きと呼ばれるODRです。
スマートフォンを使って紛争解決の手続きを進めることができれば、これまで司法サービスを利用しにくかった人にも新しい選択肢が生まれます。
2026年には離婚後の共同親権や法定養育費に関する新制度も始まり、家族をめぐる紛争への活用にも期待が高まっています。
今回は、ODRの仕組みと普及の背景、企業や個人にもたらす変化、そして今後の課題について考えます。
日本の司法制度が抱える構造的な問題
日本には、民事上のトラブルを解決するための裁判制度が整備されています。
それにもかかわらず、現実には裁判を利用せず、問題を諦めてしまう人が少なくありません。
こうした状況を象徴する言葉が、2割司法です。
法律上は権利が認められていても、その権利を実現するための費用や手間が大きければ、実際に救済を受けられる人は限られます。
例えば、個人事業主が取引先から5万円の代金を支払ってもらえないケースを考えてみましょう。
契約書や請求書があり、支払いを求める正当な理由があったとしても、裁判を起こすには書類の準備や手続きが必要です。
弁護士に依頼すれば、回収予定額を上回る費用が発生する可能性もあります。
少額訴訟や支払督促など比較的簡易な裁判手続きもありますが、それでも一定の時間と労力が必要です。
結果として、請求する権利があるにもかかわらず、回収を断念してしまうことがあります。
これは企業だけの問題ではありません。
賃貸住宅の敷金返還、商品の代金返金、サービス契約の解約、養育費の不払いなど、個人の生活にも同様の問題があります。
法律上の権利と実際に権利を実現できることの間には、大きな隔たりがあるのです。
ODRとは何か
ODRは、Online Dispute Resolutionの略称です。
日本語ではオンライン紛争解決手続きと呼ばれます。
裁判によらずに紛争を解決するADRという仕組みを、インターネット上で利用できるようにしたものが代表的です。
ADRは裁判外紛争解決手続きのことで、当事者同士の話し合いを中立的な第三者が支援し、調停やあっせんなどによって解決を目指します。
従来のADRでは、相談窓口への訪問や書類の郵送、対面での話し合いが必要になることもありました。
ODRでは、こうした手続きの全部または一部をオンライン化します。
スマートフォンやパソコンから申し立てを行い、相手方との連絡や資料提出、調停人を交えた協議などを進められます。
その最大の利点は、時間と場所の制約を小さくできることです。
仕事を休んで相談窓口に出向く必要が減り、遠隔地に住む当事者同士でも話し合いがしやすくなります。
ただし、ODRを利用すれば必ず解決できるわけではありません。
相手方が手続きに応じない場合や、当事者間で合意が成立しない場合には、裁判など別の手段が必要になることもあります。
ODRは裁判制度を完全に置き換えるものではなく、紛争解決の選択肢を増やす仕組みと理解することが重要です。
未払い料金の回収で実績が生まれている
ODRの実用化が進んでいる分野の一つが、企業の未収金回収です。
大阪市のAtoJが提供するOneNegotiationというサービスは、その代表例です。
企業が未払い料金についてオンライン調停を申し立てると、支払いを求められた利用者のスマートフォンに通知が届きます。
利用者は、その場で支払うことや、オンラインでの弁護士調停を希望することなどを選択できます。
双方の主張に相違があれば、弁護士が調停人として関与し、話し合いによる解決を目指します。
2024年9月に始まった同サービスは、約250の企業や個人が利用する規模に成長しています。
報道によれば、累計申し立ては5万件超、金額にして28億円に達し、約2万件、約3億円分が解決したとされています。
注目したいのは、件数だけでなく、従来は回収を諦めていた債権にも対応できる可能性が生まれていることです。
企業にとっては、未収金の回収額を増やすだけでなく、督促業務にかかる人件費や精神的負担を軽減する効果も期待できます。
顧客との関係を維持できる可能性
ODRには、もう一つ重要な効果があります。
それは、紛争を解決しながら相手方との関係を維持できる可能性があることです。
スポーツジムを運営するワールドプラスでは、月額6,570円の会費を支払わない会員への対応が課題になっていました。
直営60店舗で月100件前後の未払いが発生し、担当者が個別に連絡して回収を進めていました。
しかし、直接の督促は感情的な対立を生みやすく、支払いがあっても退会につながることが多かったといいます。
ODRを導入した結果、回収率は約5割となり、会員を継続する人も増えたと報じられています。
この事例から分かるのは、債権回収が単なる金銭管理ではないということです。
督促の方法によっては、顧客との信頼関係が損なわれ、将来の売上まで失う可能性があります。
一方、第三者が関与する仕組みを活用すれば、当事者間の感情的な対立を和らげられる場合があります。
企業の経理部門と法務部門にとって、ODRは回収効率と顧客維持を両立させる新しい選択肢になり得ます。
養育費問題にも広がる活用
ODRの普及が期待されるもう一つの分野が、離婚や養育費などの家事紛争です。
日本では、離婚後に養育費を受け取れていないひとり親家庭が多いことが社会問題になっています。
養育費の支払い義務があっても、取り決めが不十分だったり、相手方との話し合いが難しかったりするためです。
2026年4月には改正民法が施行され、離婚後の共同親権を選択できる制度が始まりました。
また、離婚時に養育費の取り決めをしていない場合でも、一定の要件のもとで子供1人につき月額2万円の法定養育費を請求できる仕組みが導入されました。
ただし、法定養育費は恒久的な養育費の金額を一律に決める制度ではありません。
適切な養育費については、子供の生活状況や父母の収入などを踏まえた協議が重要になります。
こうした場面で、オンラインによる協議や調停を利用できれば、当事者の負担を減らせる可能性があります。
チャイルドサポートは、LINEなどを活用して離婚の合意形成や合意書作成を支援するODRサービスを提供しています。
2026年10月からは法定養育費の請求に特化したサービスも始めています。
ただし、養育費の合意が成立することと、実際に継続して支払われることは別の問題です。
必要に応じて公正証書の作成や裁判所の手続きなども検討し、支払いを確保する仕組みを整える必要があります。
法務省も普及を後押し
国もODRの普及を重要な政策課題と位置付けています。
法務省は2022年3月にODRの推進に関する基本方針を策定しました。
その中で、スマートフォンなどが1台あれば、いつでもどこでも紛争解決のための効果的な支援を受けられる社会の実現を目標に掲げています。
2026年度は、その中期目標の最終年度に当たります。
重要なのは、単に手続きをデジタル化することではありません。
専門家に相談する機会を得られなかった人や、少額のために裁判を諦めていた人にも、実効性のある救済手段を提供することです。
もっとも、普及には課題もあります。
高齢者などデジタル機器の操作に不慣れな人への支援、本人確認、個人情報の保護、調停人の中立性などです。
さらに、当事者間の交渉力に大きな差がある場合には、形式的な合意だけでなく、その内容が公正かどうかを確認する必要があります。
便利さと法的な安全性を両立させることが、ODRの信頼性を左右します。
人生100年時代の紛争解決
人生100年時代には、働き方や家族関係、財産管理の形が多様化します。
高齢者の財産管理、住宅の賃貸借、個人事業主の報酬未払い、介護サービスの契約など、身近な法律問題も増えることが考えられます。
こうした問題をすべて裁判で解決することは現実的ではありません。
一方、少額だからといって権利の実現を諦める社会も望ましくありません。
ODRが普及すれば、紛争の規模や当事者の経済力にかかわらず、解決に向けた第一歩を踏み出しやすくなります。
企業にとっては債権管理の効率化につながり、個人にとっては権利を守るための手段が増えることになります。
司法サービスを特別なものから日常生活の中で利用できるものへと変えることが、ODRの本質的な価値ではないでしょうか。
結論
オンライン紛争解決手続きであるODRは、日本の司法制度が抱えてきた費用、時間、場所という3つの壁を低くする可能性を持っています。
未払い料金の回収では、すでに実用化が進み、企業の業務効率化と顧客関係の維持に成果が生まれています。
養育費や離婚などの家事紛争でも、新しい制度を実際の権利実現につなげる手段として期待されています。
ただし、オンライン化だけで紛争が解決するわけではありません。
中立性や公正性を確保し、必要な場合には裁判制度につなげる仕組みが不可欠です。
今後重要になるのは、ODRを特別なサービスではなく、誰もが必要なときに利用できる社会基盤として育てていくことです。
スマートフォン一つで正当な権利を守れる社会が実現すれば、これまで泣き寝入りしていた多くの人に、新しい解決の道が開かれるでしょう。
参考
日本経済新聞 2026年10月 スマホで民事トラブル解決 代金未払いや養育費の泣き寝入り改善期待
法務省 2022年3月 ODRの推進に関する基本方針
法務省 民法等の一部を改正する法律に関する資料
法務省 裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律に関する資料