2026年10月から、企業にカスタマーハラスメントへの対策が義務付けられました。
従業員を理不尽な要求や暴言から守ることは、企業にとって重要な経営課題です。一方で、顧客から寄せられる正当な苦情までカスタマーハラスメントとして排除してしまえば、企業と顧客の信頼関係が損なわれるおそれがあります。
日本経済新聞が報じた調剤薬局をめぐる訴訟は、この問題の難しさを浮き彫りにしました。
70代の男性が薬局で割引クーポンについて説明を求めたところ、薬剤師との間でトラブルになりました。その後、男性は薬局側の対応に苦情を申し立てましたが、会社側からカスタマーハラスメントに該当すると指摘され、処方箋の受け付けを拒否される事態となりました。
男性は名誉感情を侵害されたとして50万円の慰謝料を求めて提訴しましたが、裁判所は請求を認めませんでした。
この事件は、企業が従業員を守る権利と、顧客が適切な説明や対応を求める権利をどのように調整すべきかという、現代社会の重要な課題を示しています。
調剤薬局で何が起きたのか
事件が発生したのは2023年9月です。
東日本に住む70代の男性が、閉店時間に近い午後6時ごろ、調剤薬局で薬を受け取りました。
薬の袋に割引クーポンが入っていたため、男性は薬剤師に説明を求めました。
しかし、薬剤師はクーポンの説明は事務員が担当するとして、その場で十分な説明をしませんでした。
約5分間のやり取りの末、男性は薬局の利用をやめるよう促されたといいます。
男性は翌日、薬局側に電話で苦情を申し立てました。
その後、薬剤師と運営会社から謝罪や改善を約束する書面が届きました。
通常であれば、ここで問題が収束しても不思議ではありません。
しかし、男性は謝罪だけでは不十分だと考えました。
問題の原因を究明し、再発防止策や従業員への指導内容を明らかにする顚末書を求めたのです。
これに対して会社側は、男性の言動をカスタマーハラスメントと認識していると通知しました。
さらに、今後は処方箋を受け付けず、来訪した場合には民事上または刑事上の責任を問う可能性があると伝えました。
男性は、この対応によって名誉感情を侵害されたとして訴訟を起こしました。
裁判所はなぜ男性の請求を認めなかったのか
2025年11月の簡易裁判所判決は、薬剤師の対応について、穏当さを欠く面があったことを認めました。
しかし、接客態度が不適切だったことと、法律上の不法行為が成立することは別問題です。
裁判所は、薬剤師と事務員の役割分担には一定の合理性があると判断しました。
また、薬剤師が過去には男性の問い合わせに丁寧に対応していた事情も考慮しました。
その結果、薬剤師の言動は、社会通念上許される限度を超えるほど著しく侮辱的なものではないと判断されました。
会社側が送付した書面についても、男性の人格を直接否定するような表現ではなく、会社としての認識や対応方針を示したものと評価されました。
男性は控訴しましたが、地方裁判所も一審判決を支持し、最終的に敗訴が確定しました。
ここで重要なのは、裁判所が薬剤師の接客態度を全面的に適切だったと認めたわけではないことです。
また、男性の行為が威力業務妨害罪に該当すると認定したわけでもありません。
裁判所が判断した中心的な争点は、薬剤師の言動や会社側の書面が、慰謝料請求を認めるほどの名誉感情侵害に当たるかという点でした。
この区別を理解することが重要です。
正当なクレームとカスタマーハラスメントの違い
顧客が企業の対応に不満を持ち、説明や改善を求めること自体は、原則として正当な行為です。
商品やサービスに問題があれば、企業は苦情を受け止め、必要な対応を検討しなければなりません。
しかし、苦情の内容が正当であっても、その伝え方や要求方法によってはカスタマーハラスメントに該当する場合があります。
判断する際には、主に次の3つの観点が重要になります。
第一に、要求内容に合理性があるかという点です。
商品の不具合に対する説明や、従業員の不適切な対応について改善を求めることには合理性があります。
一方で、問題の程度に比べて過大な金銭補償を要求したり、従業員の解雇を執拗に求めたりする場合には、合理性が問題になります。
第二に、要求を実現するための手段が相当かという点です。
暴言、脅迫、威圧、長時間の拘束、執拗な連絡などは、要求内容とは別に問題となります。
第三に、企業や従業員に与える影響です。
従業員の就業環境を害するような行為については、企業が適切な防止措置を講じる必要があります。
ただし、顧客が不満を強く表明したという理由だけで、直ちにカスタマーハラスメントと判断することは適切ではありません。
苦情の内容、言動の態様、回数、継続時間、企業側の対応などを総合的に判断する必要があります。
2026年10月から企業に求められる対応
2026年10月施行の改正労働施策総合推進法により、企業にはカスタマーハラスメントを防止するための雇用管理上の措置が義務付けられました。
重要なのは、企業に対して、すべての顧客の要求を拒否する権限が新たに与えられたわけではないということです。
企業に求められるのは、従業員が安心して働ける環境を整備し、問題が発生した場合に適切に対応できる体制を構築することです。
具体的には、カスタマーハラスメントを許容しないという方針の明確化、相談窓口の整備、対応手順の策定、従業員への周知や研修などが重要になります。
また、相談した従業員が不利益な取り扱いを受けないようにすることも必要です。
一方で、顧客の正当な苦情を適切に処理する仕組みも欠かせません。
企業がカスタマーハラスメント対策を進めるほど、苦情対応の公平性と透明性が重要になると考えられます。
顧客の要求はどこまで認められるのか
今回の事件では、男性が謝罪だけでは納得せず、原因究明や再発防止策を記載した顚末書を求めたことが、紛争の長期化につながりました。
企業に問題があった場合、顧客が原因の説明や改善を求めることには一定の合理性があります。
しかし、企業が顧客の求める形式で詳細な顚末書を作成したり、従業員への処分内容を開示したりする一般的な法的義務があるわけではありません。
特に従業員への懲戒処分や人事評価は、企業内部の労務管理に関わる事項です。
顧客が従業員の処分を当然に要求できるものではありません。
また、顧客が原因究明を求める場合でも、企業側の調査が完了した後に、同じ要求を繰り返し続けることが常に正当化されるわけではありません。
重要なのは、企業が合理的な説明を尽くしているか、顧客の要求が問題の内容に照らして相当な範囲に収まっているかという点です。
今回の事件は、顧客が説明を求める権利と、企業が対応範囲を合理的に限定する必要性の双方を考える契機になります。
出入り禁止は企業の自由なのか
今回の事件では、薬局側が男性の処方箋の受け付けを拒否したことも大きな問題となりました。
一般的な小売店や飲食店では、迷惑行為を繰り返す顧客に対し、合理的な理由に基づいて利用を断ることが考えられます。
しかし、調剤薬局の場合は事情が異なります。
薬局は医療提供施設としての役割を担っており、処方箋に基づく調剤については、薬剤師法上、正当な理由なく拒否してはならないという規定があります。
したがって、単に顧客との関係が悪化したという理由だけで、無条件に処方箋の受け付けを拒否できるとは限りません。
一方で、暴力や脅迫などによって従業員の安全が脅かされる場合には、安全確保のための対応が必要になります。
そのため、薬局側には、顧客の行為の内容や危険性、調剤を継続することの困難性などを踏まえた慎重な判断が求められます。
なお、今回の訴訟で中心的に判断されたのは名誉感情侵害の有無であり、薬局による処方箋受け付け拒否の適法性全般が確定的に判断されたわけではありません。
この点を混同してはいけません。
元幹部職員の経験と顧客対応のすれ違い
今回の事件には、もう一つ注目すべき特徴があります。
男性は長年にわたり県庁に勤務し、幹部職員として定年退職した人物でした。
行政組織では、問題が発生した際に原因を究明し、再発防止策を検討し、必要に応じて報告書を作成することが重視されます。
男性が顚末書を求めた背景には、こうした職業経験があったと考えられます。
一方で、調剤薬局の現場では、限られた人員で患者への対応や調剤業務を進める必要があります。
顧客からの要求に際限なく対応することは、他の患者へのサービスや従業員の負担にも影響します。
つまり、男性にとって当然だった問題解決の手順が、薬局側にとっては過大な要求と受け止められた可能性があります。
これは、どちらか一方の価値観だけで解決できる問題ではありません。
社会的地位や過去の職業経験が、現在の取引関係における特別な権利を生み出すわけではありません。
同時に、企業側も顧客の年齢や経歴にかかわらず、敬意を持って対応する必要があります。
顧客と従業員は、互いに尊重されるべき対等な存在です。
企業がカスタマーハラスメントを誤認するリスク
企業にとって注意すべきなのは、カスタマーハラスメントという言葉が、正当な苦情を排除するための手段になってしまうことです。
例えば、商品に明らかな不具合があり、顧客が説明を求めているにもかかわらず、企業が対応を避けるためにカスタマーハラスメントと決めつけることは適切ではありません。
こうした対応は、顧客の不信感を強め、紛争を拡大させる可能性があります。
また、企業が顧客の言動を威力業務妨害などの犯罪に該当すると断定する場合には、特に慎重な判断が必要です。
法律上の犯罪が成立するかどうかは、具体的な行為や状況によって判断されます。
企業が不快に感じたというだけで、犯罪が成立するわけではありません。
従業員を守ることと、顧客を不当に非難しないことは両立させなければなりません。
そのためには、現場担当者だけで判断せず、管理職や法務部門などが事実関係を確認する仕組みが重要です。
企業の実務ではどのように対応すべきか
例えば、調剤薬局で顧客から接客態度について苦情が寄せられた場合を考えてみます。
最初に行うべきことは、事実関係の確認です。
顧客が何を求めたのか、従業員がどのように回答したのか、やり取りがどの程度続いたのかを整理します。
次に、企業側の対応に改善すべき点があれば、その内容を説明し、必要に応じて謝罪します。
その際、顧客が求める対応のすべてに応じる必要はありません。
例えば、従業員への指導内容や人事処分については、社内管理事項であるため詳細を開示できないと説明することも考えられます。
それでも顧客から同じ要求が繰り返される場合には、会社としての回答が完了していることを明確に伝えます。
さらに、威圧的な言動や業務への著しい支障が発生した場合には、複数の担当者で対応し、必要に応じて法的措置を検討します。
ここで重要なのは、対応の各段階を記録として残すことです。
苦情の内容、回答日時、担当者、会社としての判断理由などを記録しておけば、後に紛争が発生した場合にも客観的な説明が可能になります。
カスタマーハラスメント対策は、単に顧客を拒絶する仕組みではありません。
適切な苦情対応を行ったうえで、従業員の安全と業務の正常な運営を守るための仕組みなのです。
高齢社会で求められる顧客と企業の新しい関係
日本では高齢化が進み、医療機関、薬局、介護施設、金融機関などで高齢者と従業員が接する機会が増えています。
高齢者の中には、長年にわたって組織の管理職や経営者として活躍してきた人も少なくありません。
その経験は社会にとって貴重な財産です。
しかし、過去の地位や経験を根拠に、現在のサービス提供者に特別な対応を要求することは適切ではありません。
一方で、企業側が高齢者を一律に対応困難な顧客とみなすことも避けるべきです。
高齢者の中には、説明を理解するために時間が必要な人や、デジタルサービスに不慣れな人もいます。
そうした事情に配慮することと、理不尽な要求を受け入れることは別問題です。
今後は、顧客が企業に一方的な奉仕を求める関係から、顧客と従業員が互いの立場を尊重する関係へと変化していく必要があります。
結論
今回の調剤薬局をめぐる訴訟は、カスタマーハラスメントと正当なクレームの境界線を考えるうえで重要な事例です。
裁判所は、薬剤師の対応に穏当さを欠く面があったことを認めながらも、名誉感情侵害による損害賠償責任までは認めませんでした。
この判断から分かるのは、接客態度の問題と法律上の責任は必ずしも一致しないということです。
また、顧客の要求に一定の合理性があっても、企業がそのすべてに応じなければならないわけではありません。
一方で、企業がカスタマーハラスメントという言葉を使えば、あらゆる苦情を排除できるわけでもありません。
2026年10月からの対策義務化によって、企業には従業員を守るための具体的な仕組みが求められるようになりました。
しかし、その本質は顧客との対立を深めることではなく、双方が尊重される健全な関係を構築することにあります。
これからの企業経営に必要なのは、顧客の要求を無条件に受け入れる姿勢でも、苦情を安易にカスタマーハラスメントと決めつける姿勢でもありません。
正当な苦情には誠実に対応し、不当な要求には毅然と対応することです。
その判断を個々の従業員だけに委ねず、企業として客観的な基準と対応体制を整備することが、顧客の信頼と従業員の尊厳を守ることにつながるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月11日 調剤薬局の「塩対応」にクレーム カスハラ扱いされ出禁、名誉侵害訴訟
厚生労働省 カスタマーハラスメント対策に関する法令及び指針
労働施策総合推進法 2026年10月施行の改正規定
薬剤師法 第21条 調剤の求めに応ずる義務