日本企業では、人的資本経営という言葉が広く使われるようになりました。
従業員を単なる人件費ではなく、企業の成長や競争力を生み出す重要な資本として捉える考え方です。
多くの企業が、人材育成、従業員エンゲージメント、女性管理職の登用、リスキリングなどを経営課題として掲げています。
また、有価証券報告書などを通じて、人的資本に関する情報を開示する取り組みも進んでいます。
しかし、人的資本経営を掲げながら、従来の年功序列や役職定年、多重下請け構造を維持している企業もあります。
従業員の能力を最大限に活用すると説明する一方で、一定年齢に達すると役職から外し、給与を引き下げる制度が残っているのです。
また、IT業界では、実際に高度な技術を提供する人材が、多重下請け構造の中で十分な報酬を得られない場合があります。
日本経済新聞が取り上げた「民民規制」は、人的資本経営の実効性を考えるうえでも重要な問題です。
企業が人的資本への投資を増やしても、従来の人事制度や取引慣行が変わらなければ、その効果は限定的になる可能性があります。
今回は、人的資本経営が形式的な取り組みにとどまる理由を整理し、人事制度の改革と企業価値向上をどのように結びつけるべきかについて考えます。
人的資本経営とは何か
人的資本経営とは、従業員が持つ知識、技能、経験、能力などを企業の重要な経営資源として捉え、その価値を高めることで持続的な成長を目指す考え方です。
従来の企業経営では、人件費は利益を計算するうえで削減対象となる費用として捉えられやすい面がありました。
もちろん、企業が適切に人件費を管理することは重要です。
しかし、人件費を削減することだけを優先すれば、従業員の能力開発や働く意欲が低下し、企業の競争力を損なう可能性があります。
人的資本経営では、人材への投資が将来の収益や企業価値につながるという視点を重視します。
例えば、従業員の専門能力を高めるための教育研修や、新しい技術を習得するためのリスキリングなどが挙げられます。
また、能力を適切に評価する人事制度や、多様な人材が活躍できる職場環境の整備も重要です。
ただし、人的資本経営は、単に研修費用を増やすことではありません。
人材への投資が企業の事業戦略と結びつき、実際の生産性向上や収益成長につながることが重要です。
人的資本情報の開示だけでは企業は変わらない
日本では、2023年3月期から、有価証券報告書を提出する企業に対して、人的資本に関する情報開示が拡充されました。
企業は、人材育成方針や社内環境整備方針などについて、一定の情報を開示することが求められています。
また、女性管理職比率、男性の育児休業取得率、男女間賃金格差などについても、関連法令に基づく公表義務の対象となる企業では、有価証券報告書での開示が必要になります。
こうした情報開示は、投資家が企業の人材戦略を評価するうえで重要です。
しかし、開示項目を充実させること自体が目的になってしまう場合があります。
例えば、研修時間や研修費用を増やしても、従業員の能力が実際に高まっているとは限りません。
また、従業員満足度を調査しても、その結果を人事制度や職場環境の改善に反映しなければ、経営上の効果は限定的です。
重要なのは、情報開示のために数値を集めることではありません。
開示した数値を経営判断に活用し、企業の生産性や収益力を高めることです。
人的資本経営の実効性は、開示資料の充実度だけでは判断できないのです。
役職定年制度と人的資本経営の矛盾
人的資本経営を考えるうえで、役職定年制度は重要な論点です。
日本経済新聞によると、大企業の約4割が役職定年制度を導入しています。
この制度では、一定年齢に達した社員が管理職から外れ、給与が引き下げられる場合があります。
しかし、年齢が55歳や60歳になったからといって、専門能力や判断力が突然低下するわけではありません。
むしろ、長年の経験によって、高度な専門知識や問題解決能力を備えている社員もいます。
こうした人材を年齢だけで一律に評価することは、人的資本を最大限に活用するという考え方と整合しない場合があります。
例えば、長年にわたって製品開発を担当してきた技術者が、役職定年によって重要な業務から外されたとします。
企業は人件費を削減できるかもしれません。
しかし、その技術者が持つ知識や経験を十分に活用できなくなれば、企業全体の生産性が低下する可能性があります。
さらに、他社へ転職すれば、企業が長年蓄積してきた専門能力を失うことになります。
人的資本経営を実現するためには、研修制度だけでなく、年齢による一律の人事管理を見直す必要があります。
多重下請け構造も人的資本の活用を妨げる
人的資本経営の問題は、企業内部の人事制度だけではありません。
企業間の取引構造にも関係しています。
日本のIT産業では、元請け企業から一次下請け、二次下請け、三次下請けへと業務が再委託される多重下請け構造が存在します。
この仕組みでは、実際に高度な技術を提供する人材が、発注企業から遠い立場に置かれることがあります。
また、技術者の報酬が、専門能力や成果よりも、所属企業や契約階層によって左右される場合があります。
例えば、高度なシステム設計を担当する技術者が、下位の受託企業に所属しているため、十分な報酬を得られないケースが考えられます。
一方、元請け企業は、契約管理や顧客対応などを通じて利益を確保します。
もちろん、契約管理や品質保証にも付加価値があります。
問題なのは、実際に生み出された付加価値と報酬の配分が大きく乖離する場合です。
人的資本経営を企業内部だけの問題として考えるのではなく、取引先や外部人材を含めた価値創造の仕組みとして捉える必要があります。
人材への投資が企業価値につながる仕組み
人的資本経営を実践するためには、人材への投資と企業価値の関係を明確にすることが重要です。
例えば、売上高100億円、営業利益5億円の企業があるとします。
この企業が従業員の能力開発や業務改革に年間1億円を追加投資したとします。
その結果、新製品の開発や生産性向上によって、追加投資費用を除く営業利益改善効果が年間3億円生まれた場合、他の条件が変わらなければ営業利益は7億円になります。
人材への投資によって、営業利益が2億円増加する計算です。
もちろん、実際には投資効果が現れるまでに時間がかかる場合があります。
また、教育研修を実施しても、期待した成果が得られない可能性もあります。
そのため、人的資本への投資についても、設備投資と同様に費用対効果を検証する必要があります。
ただし、短期的な利益だけで評価することには注意が必要です。
人材育成の効果は、数年後の新規事業や技術開発、組織力の向上として現れることもあります。
企業には、短期的な収益性と中長期的な成長力の双方を考慮した評価が求められます。
人的資本経営と企業価値評価の関係
投資家が企業を評価する際には、売上高や利益、キャッシュフローなどの財務情報が重要になります。
しかし、企業の将来の成長力を判断するためには、財務情報だけでは十分ではありません。
例えば、高度な専門人材を多数抱えている企業や、従業員の能力開発に積極的な企業は、将来の競争力が高まる可能性があります。
一方、優秀な人材の離職が続いている企業では、将来の収益力が低下するリスクがあります。
人的資本に関する情報は、こうした将来の企業価値を判断する材料になります。
ただし、研修費用が多い企業や従業員満足度が高い企業が、必ずしも高い企業価値を持つわけではありません。
重要なのは、人材戦略が企業の競争優位性や収益成長にどのようにつながっているかということです。
例えば、研究開発型企業であれば、高度な技術者の確保や育成が新製品の開発につながります。
金融機関であれば、専門人材の能力がリスク管理や顧客サービスの質に影響します。
企業は、自社の事業特性に応じて、人的資本と企業価値の関係を説明する必要があります。
人的資本は会計上の資産になるのか
人的資本経営を考える際には、会計上の取り扱いにも注意が必要です。
企業が従業員の教育研修に支出した費用は、一般的には発生した期間の費用として処理されます。
例えば、社員研修に年間5,000万円を支出した場合、通常はその金額が当期の費用に計上されます。
一方、研修によって高まった従業員の能力そのものが、貸借対照表に資産として計上されるわけではありません。
これは、従業員の知識や能力が企業にとって重要でないという意味ではありません。
会計上、資産として認識するためには、一定の要件を満たす必要があるからです。
従業員の能力は企業にとって重要な経営資源ですが、企業がその能力を完全に支配できるわけではありません。
従業員は退職や転職を選択することができるためです。
このため、人的資本の経済的価値と、財務諸表に計上される資産の金額は一致しません。
投資家や経営者は、財務諸表に表示されない人的資本の価値も考慮する必要があります。
ただし、人的資本の価値を評価する際には、客観性や比較可能性を確保することが重要です。
人的資本経営を形だけにしない評価指標
人的資本経営の実効性を高めるためには、適切な評価指標を設定する必要があります。
第一に、従業員1人当たりの付加価値額です。
単に売上高を増やすだけでなく、従業員がどれだけの付加価値を生み出しているかを確認します。
第二に、専門人材の育成状況です。
研修時間だけでなく、新しい資格や技能の取得、実際の業務への活用状況などを評価します。
第三に、重要人材の離職率です。
特に、高度な専門能力を持つ人材が継続的に流出している場合には、人事制度や職場環境に問題がないかを検証する必要があります。
第四に、年齢に関係なく能力を発揮できる環境です。
役職定年や定年後再雇用の制度が、社員の専門能力の活用を妨げていないかを確認します。
第五に、人材投資と業績の関係です。
教育研修や人事制度改革が、生産性向上や新規事業の成長にどのようにつながっているかを分析します。
ただし、すべての企業が同じ指標を採用する必要はありません。
企業の事業内容や成長戦略に応じて、重要な指標を選択することが求められます。
人的資本経営を実現するための制度改革
人的資本経営を実効性のあるものにするためには、従来の人事制度を見直す必要があります。
第一に、年齢や勤続年数だけで処遇を決定する仕組みを見直すことです。
社員の職務、責任、専門能力、成果に応じた評価制度を整える必要があります。
第二に、管理職以外のキャリアを充実させることです。
高度な専門能力を持つ社員が、管理職にならなくても適切な報酬を得られる仕組みが重要です。
第三に、50代60代の能力開発を継続することです。
人生100年時代には、シニア社員も新しい技術や知識を習得し続ける必要があります。
第四に、従業員の意見を経営に反映することです。
エンゲージメント調査などの結果を、人事制度や職場環境の改善につなげることが重要です。
第五に、人材戦略を経営戦略と一体化することです。
どの事業を成長させるために、どのような人材が必要なのかを明確にする必要があります。
第六に、人材への投資効果を継続的に検証することです。
研修や採用にかけた費用だけでなく、その結果として生まれた付加価値を評価します。
こうした改革を進めることで、人的資本経営を単なる情報開示から、企業価値を高める経営活動へ転換できます。
結論
人的資本経営は、日本企業が持続的な成長を実現するための重要な考え方です。
しかし、研修制度を充実させたり、人的資本に関する情報を開示したりするだけでは、企業の生産性が高まるとは限りません。
重要なのは、従業員が持つ知識や経験、専門能力を実際の企業活動で最大限に活用することです。
そのためには、年功序列や役職定年、定年後再雇用に伴う一律の給与引き下げなど、従来の人事慣行を見直す必要があります。
また、多重下請け構造の中で高度な技術を持つ人材が十分に評価されない問題についても、企業間の取引構造を含めた改革が求められます。
人的資本経営の目的は、従業員を大切にしていると説明することではありません。
従業員の能力を高め、その能力が企業の競争力や収益力につながる仕組みを構築することです。
企業が人材への投資を増やしても、年齢や所属組織によって能力の発揮が制限されていれば、その効果は限定的になります。
今後の企業経営では、人材への投資と人事制度改革を一体として進めることが重要です。
そして、その成果を生産性、収益性、企業価値の向上という形で検証する必要があります。
人的資本経営を形だけの取り組みで終わらせないためには、長年維持してきた民民規制を見直し、一人ひとりの能力が正当に評価される企業経営へ転換することが必要ではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月26日朝刊「多重下請けや役職定年…日本の生産性そぐ『民民規制』 世界では異形」
内閣官房 2022年8月30日「人的資本可視化指針」
金融庁 2023年1月31日「企業内容等の開示に関する内閣府令等の改正」