人手不足が深刻化する中、中小企業にとって従業員の確保と定着は重要な経営課題となっています。
賃上げや福利厚生の充実が求められる一方、物価上昇や人件費の増加によって、企業の負担能力には限界があります。
こうした状況で注目されているのが、給与の一部を企業年金の掛け金に振り替える「選択制企業年金」です。
選択制企業年金は、企業が多額の追加資金を負担することなく、従業員の老後資金形成を支援できる仕組みとして普及しています。
さらに、給与の一部が企業年金の掛け金に振り替えられることで、企業と従業員の社会保険料が軽減される場合があります。
しかし、社会保険料の削減を主な目的として制度を導入することには問題があります。
厚生労働省は、選択制の確定給付企業年金について、将来の厚生年金や社会保険給付が減少する可能性を従業員に説明するよう、事業主に求める方針です。
中小企業が選択制企業年金を導入する際には、福利厚生の充実と社会保険料の削減を明確に区別して考える必要があります。
中小企業で企業年金の導入が進む背景
大企業では、退職一時金や企業年金などの退職給付制度が整備されているケースが多くあります。
一方、中小企業では、退職給付制度を十分に整備できていない企業も少なくありません。
企業年金を導入するには、掛け金の負担だけでなく、制度の管理や事務手続きなどの費用が発生します。
特に確定給付企業年金では、将来の給付に必要な資金を確保する責任が企業にあります。
そのため、資金力に余裕のない中小企業にとって、企業年金の導入は簡単ではありません。
しかし、従業員の高齢化や人材確保の競争が進む中、退職後の生活を支援する制度の重要性は高まっています。
給与だけでなく、退職金や企業年金を含めた処遇全体が、従業員の企業選択に影響するためです。
こうした課題に対応する仕組みの一つとして、選択制企業年金が注目されています。
選択制企業年金が導入しやすい理由
選択制企業年金では、従業員が給与の一部を企業年金の掛け金に振り替えることを選択します。
例えば、毎月の給与が30万円の従業員が、2万円を企業年金の掛け金に振り替える場合を考えます。
制度上、給与として受け取る金額は28万円となり、別途2万円が企業年金に積み立てられます。
企業が従来の給与とは別に2万円を追加負担する場合と異なり、既存の給与原資を活用できることが特徴です。
そのため、企業は追加的な人件費を抑えながら、従業員に老後資金形成の機会を提供できます。
ただし、制度の導入費用や運営費用が不要になるわけではありません。
また、給与の一部を企業年金の掛け金に振り替える場合には、労働条件の変更や従業員の同意などについて適切な対応が必要です。
企業年金を導入しやすいという理由だけで、給与制度を自由に変更できるわけではありません。
企業側の社会保険料削減効果
選択制企業年金が企業経営者の関心を集める理由の一つが、社会保険料の負担軽減です。
健康保険料や厚生年金保険料は、原則として企業と従業員が分担して負担します。
そのため、標準報酬月額が下がると、企業側の社会保険料負担も軽減される場合があります。
例えば、従業員1人について、厚生年金の標準報酬月額が3万円下がった場合を考えます。
厚生年金保険料率は18.3%で、企業負担割合は原則として9.15%です。
企業側の厚生年金保険料の軽減額は、月額2,745円となります。
年間では3万2,940円です。
仮に従業員50人全員について同じ軽減効果が生じた場合、年間の軽減額は164万7,000円となります。
さらに健康保険料などの軽減が生じる場合には、企業全体の負担軽減額は大きくなる可能性があります。
ただし、これは標準報酬月額が実際に3万円低下することを前提とした試算です。
実際の効果は、従業員の給与水準や標準報酬月額の等級、加入する健康保険制度などによって異なります。
社会保険料削減を主目的にする問題
企業にとって社会保険料の負担軽減は、経営上のメリットとなります。
しかし、企業年金の導入目的が社会保険料の削減に偏ることには注意が必要です。
企業年金は、本来、公的年金に上乗せして従業員の老後所得を充実させる制度です。
一方、給与の一部を企業年金の掛け金に振り替えることで標準報酬月額が下がる場合、将来の老齢厚生年金が減少する可能性があります。
また、傷病手当金や出産手当金、障害厚生年金、遺族厚生年金などにも影響する場合があります。
企業側は現在の社会保険料負担を軽減できても、従業員側は将来の所得保障が弱まる可能性があるのです。
2024年の社会保障審議会の部会では、選択制企業年金について、労働条件の不利益変更に関する問題や、公的年金に上乗せする私的年金の趣旨との関係が指摘されました。
社会保険料の削減効果だけを強調して制度を導入すると、従業員の利益との間に問題が生じる可能性があります。
福利厚生としての本来の役割
企業年金の本来の役割は、従業員が退職後も安定した生活を送れるよう支援することです。
公的年金だけでは十分な生活費を確保できない場合、企業年金や退職金が重要な役割を果たします。
特に中小企業では、従業員が自分で老後資金を準備する機会を十分に持てない場合もあります。
企業年金制度が整備されることで、従業員が計画的に老後資金を積み立てるきっかけになります。
また、企業年金の導入を通じて、従業員が給与明細や社会保険制度、税金の仕組みを理解する機会が増えることも期待できます。
福利厚生として重要なのは、従業員が制度の内容を理解し、自分の生活設計に合った選択をできることです。
単に企業年金の加入者数を増やすことが、福利厚生の充実を意味するわけではありません。
従業員の定着と採用競争力への影響
中小企業にとって、人材の採用と定着は経営の持続可能性に直結します。
給与水準だけで大企業と競争することが難しい場合でも、福利厚生の充実によって企業の魅力を高められる可能性があります。
退職金や企業年金は、長期的に勤務する従業員にとって重要な処遇の一部です。
特に、将来の生活設計を重視する従業員にとって、企業年金制度の有無は勤務先を選ぶ際の判断材料となります。
ただし、選択制企業年金では、従業員自身が給与の一部を掛け金に振り替える仕組みが採用される場合があります。
そのため、企業が追加的に掛け金を負担する制度と同じ福利厚生効果があるとは限りません。
採用活動などで制度を紹介する際には、企業が実際に負担する部分と、従業員の給与から振り替える部分を明確に区別する必要があります。
制度の実態を正確に伝えることが、従業員との信頼関係につながります。
確定給付企業年金の財政リスク
選択制の確定給付企業年金を導入する場合、企業は制度の財政運営についても理解する必要があります。
確定給付企業年金では、制度の規約に基づいて将来の給付を行います。
企業は、必要な掛け金を拠出し、給付に必要な積立金を確保する責任を負います。
運用環境や加入者の状況などによっては、積立不足が発生する可能性があります。
その場合、制度の仕組みに応じて追加的な掛け金負担などが必要になることがあります。
したがって、選択制企業年金は企業の追加負担が常に発生しない制度ではありません。
また、制度の管理運営費用や外部委託費用なども考慮する必要があります。
企業が制度を導入する際には、社会保険料の軽減額だけでなく、長期的な制度運営コストを確認することが重要です。
給与制度の変更と労務管理上の注意点
選択制企業年金の導入では、給与制度の変更が必要になる場合があります。
例えば、従来の基本給の一部を企業年金の掛け金に振り替える仕組みでは、労働条件の変更が問題となります。
労働契約法では、労働条件の変更について一定のルールが定められています。
従業員に不利益となる変更については、本人の合意や就業規則変更の合理性などが重要になります。
また、企業年金への加入を選択しない従業員の処遇についても明確にする必要があります。
従業員が十分な説明を受けず、事実上加入を強制されるような運用は適切ではありません。
企業には、制度の内容やリスクを説明し、従業員が自分の意思で判断できる環境を整えることが求められます。
導入前に確認すべき経営上のポイント
中小企業が選択制企業年金を導入する場合には、複数の観点から検討する必要があります。
まず、制度の導入目的を明確にすることです。
従業員の老後所得の充実を目的とするのか、福利厚生全体の見直しの一環とするのかによって、適切な制度設計は異なります。
次に、企業が負担する掛け金や運営費用、将来の財政負担を確認する必要があります。
さらに、給与制度や社会保険、退職金制度との関係を整理することが重要です。
従業員への説明についても、制度のメリットだけでなく、将来の厚生年金や社会保険給付への影響を示す必要があります。
導入後も、加入状況や従業員の理解度、制度運営上の問題を継続的に確認することが望まれます。
企業年金制度は、一度導入すれば終わりというものではありません。
長期的に適切な運営を続けることが重要です。
税理士・FPの視点から考える企業年金の経営判断
税理士・FPの視点から重要なのは、企業年金の導入効果を企業と従業員の双方から評価することです。
企業側では、社会保険料の軽減、福利厚生の充実、人材確保、制度運営費用などを検討する必要があります。
一方、従業員側では、現在の手取り給与、税負担、将来の企業年金給付、公的年金への影響などを確認する必要があります。
企業の費用が減少しても、従業員の生涯所得保障が大きく低下するのであれば、制度の評価には慎重さが求められます。
また、企業年金の導入によって従業員の老後資金形成が進んだとしても、現在の生活費や教育費などに支障が生じる場合には、必ずしも適切な選択とはいえません。
企業年金は、企業の財務管理と従業員のライフプランの両方に関係する制度です。
そのため、税務、社会保険、労務、退職給付を横断して検討することが望まれます。
結論
選択制企業年金は、中小企業が比較的少ない追加負担で従業員の老後資金形成を支援できる仕組みとして注目されています。
給与の一部を企業年金の掛け金に振り替えることで、企業と従業員の社会保険料が軽減される場合があります。
しかし、社会保険料の削減を主目的として制度を導入することには注意が必要です。
標準報酬月額が下がる場合には、将来の老齢厚生年金や社会保険給付が減少する可能性があります。
また、確定給付企業年金には制度の財政運営や給付責任があり、企業側の負担が常に軽くなるとは限りません。
中小企業が企業年金を導入する際には、従業員の老後所得の安定という本来の目的を明確にする必要があります。
その上で、企業の負担能力、従業員の利益、労務管理上の問題、制度運営の持続可能性を総合的に判断することが重要です。
企業年金の価値は、社会保険料をどれだけ削減できるかではなく、従業員の将来の生活をどれだけ安定させられるかによって評価されるべきです。
人生100年時代の企業経営では、目先の費用削減だけでなく、従業員の生涯所得と生活保障を支える視点が求められます。
参考
日本経済新聞 2026年11月2日 朝刊
「給与削る確定給付年金、厚労省『社員に説明』要請へ 公的年金減る恐れ」
厚生労働省「確定給付企業年金制度」
厚生労働省「社会保障審議会企業年金・個人年金部会」
日本年金機構「厚生年金保険の保険料」
厚生労働省「労働契約法のあらまし」