日本のIT産業は、デジタル化や人工知能の普及によって成長が期待される分野でありながら、労働生産性の低迷という深刻な問題を抱えています。
その背景にあるのが、長年にわたって定着してきた多重下請け構造です。
企業や官公庁がシステム開発を大手IT企業に発注し、その仕事が2次下請け、3次下請け、さらに4次下請けへと再委託される仕組みです。
場合によっては6次下請けまで存在するといいます。
問題は、実際に高度な技術を提供している技術者が、必ずしも十分な報酬を受け取れていないことです。
日本経済新聞によると、4次下請けの技術者が設計などの重要な業務を担当し、上位階層の技術者よりも高い付加価値を生み出しているケースもあります。
それにもかかわらず、賃金水準は取引階層が下がるほど低くなる傾向があります。
なぜ、このような構造が長年維持されてきたのでしょうか。
今回は、多重下請け構造の成り立ちと問題点を整理し、日本のIT産業が生産性を高めるために必要な改革を考えます。
多重下請け構造はなぜ生まれたのか
日本のIT産業における多重下請け構造の起源は、1970年代のコンピューター開発にさかのぼります。
当時、企業が大型コンピューターを導入する際には、多数の技術者を必要としました。
しかし、システム開発の需要には波があり、すべての技術者を自社で常時雇用することは容易ではありませんでした。
そこで、必要な技術者を外部企業から確保する仕組みが発展しました。
さらに1990年代以降、バブル崩壊によって企業が経費削減を進める中、情報システム部門の業務を外部委託する動きが広がりました。
大手システムインテグレーターが発注企業から仕事を受け、複数の協力会社へ業務を分配するモデルが定着したのです。
この仕組みには、一定の合理性がありました。
発注企業は自社で多数の技術者を雇用する必要がなくなり、元請け企業は案件ごとに必要な人員を調達できます。
下請け企業にとっても、大手企業から継続的に仕事を受注できるメリットがありました。
しかし、当初は合理的だった仕組みが、30年以上にわたって維持される中で、さまざまな弊害を生み出すようになりました。
技術者の能力よりも取引階層が報酬を決める
多重下請け構造の最大の問題は、技術者が生み出す付加価値と報酬が一致しにくいことです。
例えば、発注企業がシステム開発に1億円を支払ったとします。
元請け企業が管理費や利益を確保したうえで2次下請けに委託し、さらに3次下請け、4次下請けへと仕事が流れていきます。
仮に各階層で委託金額の15%が差し引かれるとすると、4回の委託を経た段階で、当初の1億円は約5,220万円になります。
これは単純化した計算例であり、実際の取引では各企業が管理、品質保証、工程調整などの役割を担っています。
したがって、差し引かれる金額のすべてが無駄というわけではありません。
しかし、実際に開発を担当する企業へ届く資金が小さくなれば、技術者の賃金や教育投資に充てられる原資も限られます。
さらに問題なのは、下位階層の企業が高い技術力を持っていても、取引上の立場が弱いために価格交渉力を持ちにくいことです。
本来、報酬は提供する技術の難易度や成果によって決まるべきです。
ところが、多重下請け構造では、どの企業に所属しているかという要素が報酬を左右しやすくなります。
この仕組みが、技術者の成長意欲や企業の技術開発投資を妨げる可能性があります。
日本のIT産業は労働集約型モデルから抜け出せない
日本のIT産業では、技術者の人数と稼働時間を基準に売上高を計算する人月単価モデルが広く使われています。
例えば、技術者1人の月額単価を100万円とし、10人が12カ月働けば、売上高は1億2,000万円になります。
このモデルでは、売上高を増やすために技術者の人数や稼働時間を増やす必要があります。
もちろん、専門性の高い技術者は高い単価を設定できますが、事業全体としては人員数に収益が依存しやすくなります。
一方、米国の大手IT企業では、自社開発したソフトウエアやクラウドサービスを多数の顧客へ提供する事業モデルが発展しました。
例えば、同じソフトウエアを1万社に提供する場合、顧客数が増えても開発費用が同じ割合で増加するわけではありません。
そのため、事業規模の拡大によって高い利益率を実現しやすくなります。
日本企業でも同様の事業モデルは存在しますが、受託開発への依存が大きいことが、産業全体の生産性を高めにくくしている要因の一つと考えられます。
今後は、単純に技術者を増やす経営から、技術者1人当たりの付加価値を高める経営への転換が必要です。
日本と米国で広がる労働生産性の格差
日本経済新聞が紹介したデータによると、日本のデジタル産業の労働生産性指数は2010年代半ばから低下傾向が続き、2000年の水準を下回っています。
一方、米国では同指数が2000年比で約4倍になっています。
この格差は、単に日本の技術者の能力が低いことを意味するものではありません。
むしろ、技術者の能力を企業の収益や産業全体の付加価値に結びつける仕組みに違いがあると考えるべきです。
日本には優秀な技術者が数多く存在します。
しかし、多重下請け構造の中で個別の開発業務に従事しているだけでは、自らの技術を製品化したり、新しいサービスを生み出したりする機会が限られます。
また、顧客企業の業務内容を深く理解している技術者が下請け企業に所属している場合、開発現場の知見が経営判断に十分反映されないこともあります。
こうした情報の分断は、システム開発の効率だけでなく、企業のデジタル変革にも影響します。
日本のIT産業が競争力を取り戻すためには、技術者の能力をより直接的に企業価値へ結びつける仕組みが必要です。
多重下請け構造は中小企業の賃上げも妨げる
多重下請け構造の影響は、技術者個人の給与だけではありません。
下請け企業の経営基盤にも大きく関係します。
例えば、元請け企業から受注する価格が長期間据え置かれている場合、人件費や社会保険料が上昇しても、その負担を販売価格に転嫁できないことがあります。
利益率が低い企業では、賃上げを実施したくても原資を確保できません。
さらに、技術者の教育や新しいソフトウエアへの投資を後回しにする可能性があります。
その結果、技術力が向上せず、低単価の受託業務に依存するという悪循環が生じます。
この問題は、IT業界だけに限りません。
建設業、物流業、製造業などでも、多層的な取引構造や発注企業との交渉力格差が課題になっています。
中小企業の賃上げを実現するためには、最低賃金の引き上げだけでなく、適正な取引価格を確保できる環境を整えることが重要です。
特に、専門性の高い業務を担当する企業が、その技術に見合った報酬を受け取れる仕組みが必要になります。
多重下請け構造は企業の財務指標にも影響する
多重下請け構造の改革は、企業の財務分析という観点からも重要です。
例えば、売上高100億円、営業利益5億円のIT企業があるとします。
営業利益率は5%です。
この企業が高度な専門技術を身につけ、直接顧客と契約する割合を増やすことで、売上高を維持しながら営業利益を8億円に改善できたとします。
営業利益率は8%に上昇します。
営業利益が3億円増加すれば、賃上げ、研究開発、人材育成などに充てられる資金も増えます。
もちろん、直接契約を増やすためには営業体制の整備や品質保証、契約管理などの費用が必要です。
したがって、下請けから脱却すれば必ず利益率が上がるわけではありません。
それでも、単価の低い受託業務から高付加価値業務へ移行することは、収益構造を改善する有力な選択肢になります。
財務分析では、売上高の増加だけでなく、売上総利益率、営業利益率、従業員1人当たりの付加価値額などを確認することが重要です。
企業規模を拡大するだけでなく、収益の質を高める経営が求められます。
AIの普及が多重下請け構造を変える可能性
生成AIの普及は、多重下請け構造を見直す大きな契機になる可能性があります。
従来、プログラミング、テスト、仕様書作成などには多数の技術者が必要でした。
しかし、AIを活用すれば、こうした作業の一部を自動化したり、短時間で処理したりすることが可能になります。
例えば、従来10人で担当していた業務を、AIの活用によって7人で実施できるようになったとします。
同じ成果を少ない人数で提供できれば、労働生産性は向上します。
一方、技術者の稼働時間に応じて料金を請求する企業では、必要な人員が減ることで売上高が減少する可能性があります。
ここに、人月単価モデルの構造的な問題があります。
AIによって生産性が向上しても、その成果を企業の利益に結びつけられなければ、技術革新の恩恵を十分に受けられません。
今後は、作業時間ではなく、システムの品質、開発期間の短縮、顧客企業の業務改善など、提供した成果に応じて報酬を得る契約形態が重要になると考えられます。
AI時代には、技術者の人数を確保する能力よりも、少人数で高い付加価値を生み出す能力が競争力を左右するようになるでしょう。
多重下請けから脱却するために必要な経営改革
多重下請け構造から脱却するためには、単純に下請け企業の数を減らせばよいわけではありません。
重要なのは、各企業が担う役割と付加価値を明確にすることです。
元請け企業には、顧客企業の経営課題を理解し、システム全体を設計する能力が求められます。
下請け企業には、特定分野の高度な技術を磨き、他社では代替できない専門性を確立することが重要になります。
また、企業間の取引関係を固定化するのではなく、技術力や成果に応じて取引先を選択できる環境も必要です。
IT企業のSHIFTは、同業企業の買収などを通じて技術者を集約し、高度な専門人材の育成を進めています。
こうした企業再編は、技術者の能力を高めるとともに、取引階層の見直しにつながる可能性があります。
さらに、発注企業自身も、システム開発を単なる外注費として捉えるのではなく、競争力を高めるための投資として位置づける必要があります。
発注企業と開発企業が対等な立場で協力し、長期的な価値創造を目指すことが重要です。
結論
日本のIT産業に定着した多重下請け構造は、かつては人材確保や業務分担の面で合理的な仕組みでした。
しかし、デジタル化やAIの普及によって、従来の労働集約型モデルは転換期を迎えています。
技術者の能力よりも取引階層によって報酬が左右される仕組みでは、優秀な人材の成長意欲を維持することが難しくなります。
また、下請け企業が十分な利益を確保できなければ、賃上げや研究開発投資も進みません。
重要なのは、多重下請けという取引形態そのものを一律に否定することではありません。
各企業が担う役割を明確にし、実際に生み出した付加価値に見合う報酬を得られる仕組みに変えることです。
日本のIT産業が目指すべきなのは、技術者の人数や稼働時間によって成長する産業から、技術力と創造力によって成長する産業への転換です。
そのためには、企業間の取引慣行を見直すとともに、専門人材の育成、直接取引の拡大、AIの活用、高付加価値サービスの開発を進める必要があります。
日本経済の生産性を高めるためには、法律による規制改革だけでなく、企業自身が長年維持してきた民民規制を見直すことが欠かせません。
多重下請け構造の改革は、日本のIT産業が国際競争力を取り戻すための重要な第一歩になるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月26日朝刊「多重下請けや役職定年…日本の生産性そぐ『民民規制』 世界では異形」