中小企業の事業承継において、M&Aによる会社売却を検討する際に見落とされやすい問題の一つが、役員借入金です。
役員借入金とは、会社が経営者や役員個人から借り入れている資金のことです。
中小企業では、創業時の運転資金不足や一時的な資金繰りの悪化に対応するため、社長が個人資金を会社に貸し付けることが珍しくありません。
また、役員報酬を未払いのまま役員借入金として処理したり、会社の経費を社長個人が立て替えたりすることで、役員借入金が積み上がる場合もあります。
こうした役員借入金は、経営者が会社を所有している間は大きな問題にならなくても、第三者へのM&Aでは重要な交渉事項になります。
特に、役員借入金が多額に残っている場合には、株式譲渡価格、買い手の資金調達、経営者の手取り額、税務上の取り扱いなどに影響します。
経済産業省は2026年10月、悪質なM&A仲介事業者を排除するため、強制調査を可能にする法整備の検討を進める方針を明らかにしました。
M&A市場の健全化が進むなか、売り手経営者自身も会社の財務内容を整理し、買い手との交渉に備えることが重要です。
今回は、役員借入金が事業承継の障害となる理由を整理し、返済、債権放棄、資本への振り替えなどの解消方法と、それぞれの税務上の注意点を解説します。
役員借入金が発生する主な理由
中小企業では、会社と経営者個人の資金関係が密接になりやすい傾向があります。
例えば、会社の資金繰りが一時的に悪化した場合、社長が個人の預金から500万円を会社に貸し付けることがあります。
また、会社が設備投資を行う際に、金融機関からの借入金だけでは不足する資金を社長が補う場合もあります。
こうした資金は、会社の貸借対照表では負債として計上されます。
さらに、役員報酬や経費の未払いが役員借入金として処理されることもあります。
例えば、月額100万円の役員報酬のうち50万円を未払いとし、年間600万円を役員借入金として計上するケースです。
ただし、役員報酬については、未払いであっても源泉所得税や社会保険料、法人税法上の損金算入要件などを確認する必要があります。
役員借入金という勘定科目で処理されていても、その発生原因によって税務上の取り扱いが異なる場合があります。
そのため、事業承継を検討する際には、残高だけでなく発生原因を確認することが重要です。
役員借入金が多額に残る会社の特徴
役員借入金が多額に残っている会社では、いくつかの財務上の特徴が見られます。
第一に、過去の資金不足を経営者個人が補ってきた可能性があります。
第二に、会社の利益が十分に蓄積されず、自己資本が薄くなっている場合があります。
第三に、経営者個人と会社の資金関係が複雑になっている可能性があります。
例えば、総資産3億円、負債2億5,000万円、純資産5,000万円の会社を考えます。
負債2億5,000万円のうち、1億円が社長からの借入金だったとします。
この場合、会社の自己資本比率は約16.7%です。
役員借入金は法律上、原則として会社の負債ですが、金融機関による信用評価では、返済条件や実質的な資金拘束の状況によって、一定の評価上の調整が行われる場合があります。
しかし、M&Aでは役員借入金の債権者である社長が退任するため、その借入金をどう処理するかが問題になります。
買い手にとっては、株式を取得した後に旧経営者へ多額の返済を行う必要があるかどうかが重要な判断材料になります。
役員借入金は株式譲渡で自動的に消滅しない
M&Aにおいて最も重要なのは、株式譲渡と役員借入金の返済は別の取引であることです。
例えば、社長が会社の株式を1億円で売却するとします。
会社には社長からの役員借入金5,000万円が残っています。
この場合、株式譲渡によって会社の所有者が変わっても、会社が社長に対して負っている5,000万円の返済義務は原則として残ります。
つまり、社長は株式譲渡代金1億円を受け取るとともに、会社に対する5,000万円の貸付債権を引き続き保有することになります。
ただし、実際に5,000万円を回収できるかどうかは、会社の財務状況や返済条件によって異なります。
買い手が役員借入金を含めた条件で株式譲渡価格を提示している場合もあるため、契約内容を慎重に確認する必要があります。
株式譲渡代金と役員借入金の返済を混同すると、経営者の手取り額について大きな誤解が生じる可能性があります。
役員借入金の返済が最も基本的な解消方法
役員借入金を解消する方法として、最も分かりやすいのが会社から経営者への返済です。
例えば、会社に役員借入金3,000万円があり、十分な現預金を保有している場合には、M&A前に返済することが考えられます。
真正な貸付金の元本返済であれば、通常、経営者個人に所得税は課税されません。
これは、経営者が新たな所得を得るのではなく、貸し付けた元本を回収するためです。
ただし、利息を受け取る場合には、その利息について所得税の課税関係が生じます。
また、会社側では借入金の元本返済は原則として損金になりません。
貸借対照表上では、現預金と役員借入金が同額減少することになります。
例えば、現預金5,000万円、役員借入金3,000万円の会社が全額返済すると、現預金は2,000万円になります。
しかし、M&A前に役員借入金を返済すればよいとは限りません。
会社の運転資金が不足すれば、事業継続に支障が生じる可能性があるためです。
返済する際には、資金繰りへの影響を十分に確認する必要があります。
債権放棄による役員借入金の解消
会社に十分な返済能力がない場合には、経営者が貸付債権を放棄する方法が考えられます。
これを債権放棄といいます。
例えば、会社に社長からの借入金5,000万円が残っているものの、会社には返済する資金がない場合です。
社長が5,000万円の債権を放棄すれば、会社の返済義務は消滅します。
会計上は、原則として債務免除益が計上されます。
ここで注意したいのが法人税です。
債務免除益は、原則として法人税の課税所得の計算に反映されます。
例えば、5,000万円の債務免除益が生じ、他に損益や税務上の調整がない場合には、課税所得が5,000万円増加する可能性があります。
仮に法人税等の実効税率を30%とすると、単純計算では1,500万円の税負担が生じます。
会社の資金繰りが厳しいために債権放棄を行ったにもかかわらず、多額の税金が発生する可能性があるのです。
ただし、繰越欠損金の利用や一定の再生手続きに伴う特例などによって、税負担が異なる場合があります。
債権放棄を検討する際には、会社の課税所得や欠損金の状況を事前に確認する必要があります。
債権放棄では他の株主への贈与税にも注意する
役員借入金の債権放棄では、法人税だけでなく贈与税の問題が生じる場合があります。
例えば、社長が会社の株式を60%、子どもが40%保有しているとします。
社長が会社に対する5,000万円の貸付債権を放棄した場合、会社の純資産が増加し、株式価値が上昇する可能性があります。
その結果、子どもが保有する株式の価値も上昇する場合があります。
一定の要件のもとでは、このような株式価値の増加について、他の株主が経済的利益を受けたものとして贈与税が問題になることがあります。
ただし、債権放棄額の40%がそのまま贈与税の課税対象になるわけではありません。
実際には、会社の財務状況、株式評価額、債務超過の有無などを踏まえた検討が必要です。
特に、親族が株主となっている中小企業では、債権放棄による株式価値の変動に注意する必要があります。
役員借入金の解消は、会社の法人税だけでなく、株主個人の相続税や贈与税にも影響する可能性があるのです。
役員借入金を資本金に振り替える方法
役員借入金を解消する方法として、デット・エクイティ・スワップがあります。
一般にDESと呼ばれ、会社に対する貸付債権を現物出資するなどして、負債を資本に振り替える方法です。
例えば、社長が会社に対して5,000万円の貸付債権を持っている場合を考えます。
この債権を現物出資し、会社が新たに株式を発行することで、役員借入金を減少させる方法があります。
会社にとっては、借入金が減少し、資本が増加するため、財務内容の改善につながる可能性があります。
しかし、DESには重要な税務上の注意点があります。
税務上、現物出資される債権の評価額が額面金額を下回る場合には、その差額について債務消滅益が生じる可能性があります。
例えば、額面5,000万円の債権について、税務上の評価額が2,000万円と判断される場合には、差額3,000万円の課税関係が問題になることがあります。
また、新株発行によって株主構成や議決権割合が変化する可能性もあります。
さらに、資本金等の増加によって、法人税や地方税の取り扱いが変わる場合があります。
DESは財務改善に有効な方法となり得ますが、税務、会計、会社法の各面から慎重に検討する必要があります。
役員借入金を残したままM&Aを行う場合
役員借入金は、必ずしもM&A前に全額解消しなければならないわけではありません。
買い手と合意できれば、役員借入金を残したまま株式譲渡を行うことも可能です。
例えば、株式譲渡価格8,000万円、役員借入金4,000万円の会社を想定します。
買い手が株式を8,000万円で取得し、会社が旧経営者に対して4,000万円の借入金を返済する計画を立てる場合があります。
この場合、経営者が受け取る総額は最大で1億2,000万円となります。
ただし、役員借入金の返済が将来にわたる分割払いとなる場合には、回収不能リスクがあります。
また、買い手が会社の資金繰りを悪化させれば、返済が困難になる可能性があります。
したがって、役員借入金を残す場合には、返済期限、返済方法、期限の利益喪失条項、担保や保証の有無などを確認する必要があります。
買い手の信用力が十分でない場合には、株式譲渡時に役員借入金を一括返済する方法も検討すべきでしょう。
ただし、返済原資や買収後の運転資金を確保できることが前提になります。
役員借入金が株式譲渡価格に与える影響
役員借入金は、会社の株式価値にも影響します。
例えば、会社の資産時価が3億円、金融機関借入金が1億円、役員借入金が5,000万円、その他の負債が5,000万円だったとします。
この場合、単純化した時価純資産は1億円です。
役員借入金5,000万円は負債として控除されているため、株式価値の計算にも反映されています。
ここで社長が役員借入金5,000万円を放棄すれば、他の条件が同じであれば、会計上の純資産は増加します。
しかし、債務免除益に対する税負担が発生する場合には、その分だけ純資産の増加額が小さくなる可能性があります。
また、買い手が株式価値を評価する際には、役員借入金の返済条件や会社の収益力も考慮します。
したがって、役員借入金を解消すれば必ず経営者の手取り額が増えるとは限りません。
株式譲渡価格と役員借入金の回収額を合算し、税金や諸費用を差し引いた手取り額で比較することが重要です。
役員借入金の相続税評価にも注意する
役員借入金は、M&Aだけでなく相続対策においても重要な問題になります。
会社にとって役員借入金は負債ですが、経営者個人にとっては貸付金という財産です。
したがって、経営者が死亡した場合には、原則として相続財産に含まれます。
例えば、社長が会社に対して1億円の貸付債権を持っている場合、その債権は相続税の課税対象となる可能性があります。
会社の業績が悪化し、返済能力が乏しい場合でも、単に返済が難しいという理由だけで自由に評価額を減額できるわけではありません。
相続税評価では、債権の回収可能性について一定の基準に従って判断する必要があります。
特に、会社が債務超過である場合や、長期間返済されていない貸付金がある場合には、個別の事実関係を確認することが重要です。
経営者が高齢になってから役員借入金の問題に気づいても、短期間で解消することは容易ではありません。
事業承継と相続対策を一体として検討する必要があります。
M&A前に役員借入金を整理する実務手順
役員借入金を整理する際には、まず残高と発生原因を確認することが重要です。
具体的には、次の事項を確認します。
- 役員借入金の残高と発生時期
- 実際の資金移動を示す預金通帳や会計帳簿
- 金銭消費貸借契約書の有無
- 利息や返済期限の取り決め
- 未払役員報酬や立替経費との区分
- 会社の返済能力と資金繰り
- 債権放棄による法人税への影響
- DESによる課税関係と株主構成への影響
- M&A後の返済条件と回収可能性
- 経営者個人の相続税対策との関係
これらを確認したうえで、返済、債権放棄、DES、M&A後の返済などの方法を比較します。
また、複数の方法を組み合わせることも考えられます。
例えば、会社の資金繰りに支障のない範囲で一部を返済し、残額について買い手と協議する方法です。
ただし、税負担や会社の財務状況によって最適な方法は異なります。
そのため、M&A仲介業者だけでなく、税理士や公認会計士などの専門家による確認が重要になります。
結論
役員借入金は、中小企業の経営を支える重要な資金調達手段です。
しかし、長年にわたり積み上がった役員借入金は、事業承継やM&Aの際に大きな障害となる場合があります。
特に、株式譲渡によって経営者が交代しても、役員借入金が自動的に消滅するわけではないことを理解する必要があります。
役員借入金の解消方法には、会社からの返済、債権放棄、DES、M&A後の返済などがあります。
それぞれの方法にはメリットと注意点があり、税務上の取り扱いも異なります。
真正な貸付金の元本返済は通常、経営者個人の所得税の課税対象になりませんが、債権放棄では会社に債務免除益が生じ、法人税の負担が発生する可能性があります。
また、DESでは債務消滅益や株主構成の変化などが問題になる場合があります。
さらに、役員借入金は経営者個人の相続財産にもなるため、相続税対策の観点からも重要です。
したがって、役員借入金の問題は、M&Aの直前になって検討するのではなく、事業承継の準備段階から整理することが望まれます。
経営者自身が会社と個人の資金関係を正確に把握し、税務上の影響と会社の資金繰りを確認しながら解消方法を検討する必要があります。
事業承継の目的は、単に会社の株式を売却することではありません。
会社の財務内容を健全な状態に整え、次の経営者が安心して事業を継続できる環境をつくることも重要です。
役員借入金の整理は、経営者個人の財産を守ると同時に、会社の価値を高め、円滑な事業承継を実現するための重要な財務対策であると考えます。
参考
日本経済新聞 2026年10月10日 中小の事業承継、悪質なM&A仲介排除へ 強制調査など法整備検討
中小企業庁 2024年8月 中小M&Aガイドライン第3版
国税庁 法人税基本通達 債務免除益に関する取り扱い
国税庁 相続税財産評価基本通達 貸付金債権等の評価
中小企業庁 2025年版中小企業白書