健康格差という言葉から、所得や職業による違いを思い浮かべる人は多いでしょう。
経済的な余裕があれば、健康診断を受けたり、運動施設を利用したり、食生活に気を配ったりしやすくなる面があります。
しかし、健康を左右する条件はそれだけではありません。
どこに住んでいるか。
どのような交通手段を使っているか。
近所にスーパーがあるか。
公共交通を利用できるか。
安全に歩ける道路があるか。
こうした生活環境も、毎日の身体活動に影響します。
東京大学の研究グループによる調査では、1日の平均歩数が最も多かった東京都豊島区は7,750歩、最も少なかった宮崎県小林市は4,026歩でした。
約3,700歩という差は、健康格差を考えるうえで新しい視点を示しています。
同じ健康意識でも歩数は変わる
健康のために歩くことが大切だと知っていても、住んでいる地域によって実行のしやすさは異なります。
都市部なら自宅から駅まで歩きます。
駅構内を移動します。
会社まで歩きます。
昼食や買い物でも歩きます。
一方、地方では自宅から勤務先、スーパー、病院まで自動車で移動することが珍しくありません。
本人の健康意識が同じでも、毎日の生活から生まれる歩数は違ってきます。
つまり、健康行動には本人の意思だけでは変えにくい部分があります。
約3700歩の差は生活構造の差
豊島区と小林市の平均歩数の差は約3,700歩です。
単純計算すれば、1年間では約135万歩の違いになります。
重要なのは、都市部の住民が毎日健康のために約3,700歩余分に歩こうと努力しているわけではないことです。
通勤する。
買い物をする。
駅を利用する。
仕事へ行く。
普通に生活した結果として歩数が積み上がっています。
反対に地方では、普通に生活すると歩数が増えにくい場合があります。
歩数格差の背景には、生活構造の違いがあるわけです。
健康は自己責任だけでは説明できない
生活習慣病という言葉からは、健康は本人の生活習慣によって決まるという印象を受けることがあります。
確かに食事、運動、睡眠など本人の行動は重要です。
しかし、行動を取り巻く環境にも目を向ける必要があります。
近所に歩いて行けるスーパーがなければ車を使います。
公共交通がなければ自動車通勤になります。
歩道がなければ安全のために歩くことを避けるでしょう。
高齢者なら、途中に休める場所がなければ外出を控えることもあります。
本人に健康行動を求めるだけでは解決できない問題があります。
所得と地域環境が重なることもある
健康格差をさらに難しくするのは、さまざまな条件が重なる可能性があることです。
公共交通が少ない。
医療機関が遠い。
商店が減っている。
運動施設が少ない。
人口減少が進んでいる。
こうした地域では、日常生活の中で身体を動かす機会そのものが減る可能性があります。
さらに高齢化が進めば、自治体が交通や公共施設を維持する負担も大きくなります。
個人の健康問題と地域社会の持続可能性が結び付いていきます。
健康ポイントだけでは格差は縮まらない
多くの自治体が健康ポイントなどの事業を実施しています。
2025年度に全国157自治体を対象とした調査では、56.7%が歩数連動などのポイント事業を行っていました。
しかし、約6割の自治体が参加者数が伸びないことを課題として挙げています。
健康に関心の高い人は参加しても、運動習慣のない人には届きにくいからです。
地域間の健康格差を縮めるためには、健康施策だけを充実させればよいとは限りません。
歩かなくても生活できる環境そのものに目を向ける必要があります。
交通政策が健康政策になる
公共交通は、その代表例です。
バスや鉄道を利用すると、自宅から駅やバス停まで歩きます。
目的地に着いた後も歩きます。
自動車のように玄関から目的地まで直接移動することが難しいため、自然に身体活動が生まれます。
公共交通の維持は、移動手段を確保する政策であると同時に、住民が外出し、歩く機会を維持する政策でもあります。
特に高齢者にとっては重要です。
交通政策と健康政策を別々に考える時代ではなくなりつつあります。
商店を残すことも健康につながる
地域のスーパーや商店も同じです。
近所に店があれば歩いて買い物へ行けます。
店内を歩きます。
商品を選びます。
知人に会うこともあります。
一方、近所の店舗が閉店して郊外の大型店まで車で行かなければならなくなると、買い物に伴う歩行は減る可能性があります。
地域商業の維持は経済政策として語られますが、高齢者の外出や身体活動という意味では健康政策でもあります。
街の機能は複数の役割を持っています。
デジタル化にも健康という視点が必要になる
これからは行政手続き、買い物、銀行取引、仕事など、さまざまな活動が自宅でできるようになります。
これは大きな利便性をもたらします。
一方、以前なら外出しなければできなかった用事が自宅で完結します。
便利になればなるほど、歩かなくても生活できる社会になります。
デジタル化を止める必要はありません。
重要なのは、効率化によって失われる身体活動や社会参加を別の方法でどう確保するかです。
便利さと健康を両立させる視点が必要になります。
企業も健康格差を縮められる
地域だけでなく、職場環境も身体活動に影響します。
スニーカー通勤を認める。
昼休みに外出しやすくする。
階段を利用しやすくする。
長時間座り続けない働き方を取り入れる。
地方企業なら、自動車通勤を前提として歩く機会をつくることも考えられます。
福井県では、スニーカービズを実施した日は平均歩数が1,273歩増えました。
企業が働き方を少し変えるだけでも、従業員の身体活動を後押しできる可能性があります。
健康格差への対応は行政だけの仕事ではありません。
高齢社会では住む場所の重要性が増す
若いときには、自動車を運転して遠くまで移動できます。
多少不便な地域でも大きな問題を感じないかもしれません。
しかし年齢を重ねると状況は変わります。
車を運転できなくなる。
長距離を歩くことが難しくなる。
坂道が負担になる。
遠くのスーパーへ行けなくなる。
そのとき、徒歩圏内に何があるかが生活の質を大きく左右します。
老後の住まいを考える際には、住宅の広さや価格だけではなく、歩いて生活できる環境かどうかも重要な判断材料になります。
健康寿命は街の力でも変わる
健康寿命を延ばすために、住民全員がスポーツクラブへ通う必要はありません。
買い物へ行く。
友人に会う。
通勤する。
地域活動に参加する。
図書館へ行く。
病院へ行く。
普通の生活をするだけで身体を動かす街をつくることができます。
健康づくりを特別な行動から日常生活へ戻すという発想です。
本人が健康を強く意識しなくても、生活していれば自然に歩いている。
その環境こそ、地域全体の健康を底上げする可能性があります。
健康政策の対象を人から街へ広げる
これまでの健康政策では、人の行動を変えることが中心でした。
運動しましょう。
健康診断を受けましょう。
食生活を改善しましょう。
もちろん、これらは今後も重要です。
しかし、それだけでは健康格差を縮めることは難しいでしょう。
これからは、人を変えるだけではなく環境を変えるという視点が必要です。
歩きやすい道路をつくる。
公共交通を維持する。
生活に必要な施設を利用しやすい場所に配置する。
働く人が身体を動かしやすい職場をつくる。
高齢者が休みながら歩ける街をつくる。
健康政策の範囲を街全体へ広げていく必要があります。
結論
健康格差は、所得や本人の生活習慣だけによって生まれるものではありません。
住んでいる地域の交通、道路、店舗、職場、公共施設など、生活環境も毎日の身体活動を左右します。
都市と地方で最大約3,700歩という平均歩数の差は、そのことを象徴しています。
健康のために歩く人を増やすだけでは十分ではありません。
健康に関心がある人もない人も、普通に暮らしていれば自然に身体を動かしている。
そんな社会をつくることが重要です。
健康寿命を延ばす政策とは、医療や介護だけではありません。
交通政策も、都市計画も、商業政策も、企業の働き方も健康につながっています。
どこに住んでも、年齢を重ねても、無理なく外出し、歩き、人とつながることができる。
これからの健康格差対策で問われるのは、個人がどれだけ努力するかだけではなく、地域がどれだけ健康に暮らせる環境を提供できるかではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月6日朝刊 歩かぬ地方、都市との差1日30分 「スニーカービズ」通勤で歩数稼げ