人手不足が深刻になると、企業は賃金を引き上げて人材を確保しようとします。
時給を上げれば求人への応募が増え、既に働いている人の収入も増えます。
通常であれば、賃上げは人手不足対策として有効です。
ところが、パートなどの短時間労働者では必ずしもそうならないケースがあります。
時給が上がった分だけ勤務時間を減らし、年収を一定額以内に抑える人がいるためです。
企業が賃上げをしても、確保できる総労働時間が増えない。
場合によっては減ってしまう。
年収の壁は、企業の賃上げ効果を弱める要因にもなっています。
賃上げには2つの目的がある
企業が時給を引き上げる目的は、単に従業員の給与を増やすことだけではありません。
人材を採用しやすくする。
離職を防ぐ。
従業員の意欲を高める。
必要な労働時間を確保する。
こうした目的があります。
人手不足が深刻な小売りや外食などでは、周辺企業より低い時給では応募者を集めることが難しくなります。
そのため、賃上げは採用競争を勝ち抜くためにも重要です。
最低賃金は1,177円へ
2026年度の最低賃金の全国加重平均は1,177円となり、前年度から56円上昇します。
最低賃金の上昇は、低賃金で働く人の所得を引き上げます。
物価が上昇するなかでは、家計を支えるという意味でも重要です。
一方で、年収の壁を意識している人にとっては、時給上昇がそのまま年収増加につながるとは限りません。
年収を一定額以内に抑えるため、勤務時間を短くするという選択があるからです。
時給が上がれば働ける時間は短くなる
年収130万円以内で働くケースを単純計算してみます。
時給1,000円なら年間1,300時間働くと130万円になります。
時給1,100円なら約1,182時間です。
時給1,177円なら約1,104時間です。
時給1,300円なら1,000時間です。
年収の上限を固定すると、時給が上昇するほど働ける時間は少なくなります。
企業から見ると、賃上げによって1時間当たりの人件費は増える一方、1人から確保できる年間労働時間が減る可能性があります。
賃上げしても年収が変わらない
例えば時給1,100円で年間約1,182時間働いていた人がいたとします。
年収は約130万円です。
企業が時給を1,300円に引き上げたとします。
勤務時間をそのままにすれば年収は約154万円になります。
しかし、本人が130万円以内を希望すれば、年間勤務時間を1,000時間程度まで減らすことになります。
時給は約18%上昇しました。
ところが本人の年収はほぼ変わりません。
企業が確保できる労働時間は年間約182時間減ります。
これが賃上げと働き控えが同時に起こる仕組みです。
企業は不足した時間を埋めなければならない
従業員が勤務時間を減らしても、店舗や事業所の仕事量が同じだけ減るわけではありません。
スーパーであればレジや品出しが必要です。
飲食店であれば接客や調理があります。
給食であれば決められた時間までに食事を提供しなければなりません。
勤務時間が減った分は、別の従業員が働くか、新しい人を採用して補う必要があります。
賃上げによって人件費が上昇したうえに、新規採用の費用まで必要になる可能性があります。
408万人の働き控えが示す影響
伊藤忠総研の推計では、2026年4月から6月に年収の壁を意識して働く時間を抑えている短時間労働者は408万人いました。
2022年と比べると37万人減っています。
それでも短時間労働者のおよそ2割に相当する規模です。
数百万人が年収を意識して勤務時間を調整しているのであれば、賃上げによる労働供給への影響も無視できません。
企業単位では数人の勤務調整でも、日本全体では大きな労働時間になります。
106万円撤廃だけでは解決しない
2026年10月から社会保険加入をめぐる106万円の賃金要件は撤廃されました。
これによって106万円という金額を意識した働き控えは縮小していくと考えられます。
しかし、130万円の壁は残っています。
さらに週20時間という社会保険加入に関係する労働時間要件もあります。
そのため、106万円の壁がなくなったからといって、賃上げによる働き控えがすべて解消するわけではありません。
意識される基準が別の壁へ移る可能性があります。
賃上げが勤務時間削減につながる逆説
本来、賃上げは労働供給を増やす方向にも働きます。
時給が高くなれば働く魅力が高まり、勤務時間を増やしたいと考える人もいるからです。
しかし、一定の年収を超えることで社会保険料負担などが変化する場合には事情が異なります。
時給が上がる。
年収の壁に早く到達する。
勤務時間を減らす。
企業の人手不足が続く。
さらに時給を引き上げる。
再び勤務時間を調整する。
こうした循環が起これば、賃上げだけで人手不足を解消することは難しくなります。
労働時間は既に減っている
統計を見ると、短時間労働者の1人当たり労働時間は減少しています。
2025年の総実労働時間は月79.1時間で、2019年と比べて7%減りました。
最低賃金の大幅な引き上げが進んだ2023年以降は、3年連続で減少しています。
短時間労働者の人数は2019年から5%増えて1,614万人となりました。
それでも人数と労働時間を掛け合わせた労働供給量は2%減少しています。
人数を増やしても、1人当たりの勤務時間が短くなれば、人手不足は簡単には解消しません。
賃上げと制度改革を切り離せない
賃上げそのものを否定する話ではありません。
物価上昇が続くなかで、賃金の引き上げは家計にとって重要です。
企業にとっても、人材を確保するためには競争力のある賃金が必要です。
問題は、賃上げによって年収が増えようとしたときに、制度上の壁が勤務時間を減らす動機を生み出していることです。
賃金政策の効果を高めるためには、税や社会保険制度との関係も同時に考える必要があります。
手取りが滑らかに増える仕組み
働く時間を増やし、給与が増えれば、手取りも増える。
この関係が分かりやすければ、年収の壁を理由とした働き控えは起こりにくくなります。
一方、ある基準を超えたところで負担が大きく変化すると、その直前で働く時間を止めようとする動機が生まれます。
重要なのは、働けば働くほど損をすると感じさせない仕組みにすることです。
賃上げの成果を家計の所得増加と企業の労働力確保の双方につなげるには、手取りができるだけ滑らかに増える制度設計が重要になります。
結論
企業にとって賃上げは、人材を採用し、離職を防ぎ、人手不足を解消するための重要な手段です。
しかし、年収の壁を意識する人は、時給が上がるほど勤務時間を減らす場合があります。
その結果、企業は賃金を引き上げても必要な労働時間を十分に確保できない可能性があります。
2026年度の最低賃金の全国加重平均は1,177円となりました。
賃金が上昇するほど、年収130万円など一定額以内で働ける時間は短くなります。
106万円の賃金要件が撤廃されても、130万円の壁や週20時間という基準は残っています。
これから重要になるのは、賃上げと制度改革を別々に考えないことです。
企業が賃金を上げる。
働く人の年収と手取りが増える。
そして必要に応じて勤務時間も増やせる。
この流れをつくることができれば、賃上げは家計支援だけでなく、人手不足対策としてもより大きな効果を発揮することになります。
参考
日本経済新聞 2026年10月1日朝刊 労働臨界「働き控え」なお400万人超 「年収の壁」106万円撤廃