人手不足が深刻なら、企業は既に働いているパート社員の勤務時間を増やせばよい。
そう考えるのは自然です。
新しい人を採用するよりも、仕事を理解している従業員に長く働いてもらう方が効率的だからです。
ところが実際には、それほど簡単ではありません。
年収の壁や社会保険の加入基準を意識して、働く側が勤務時間の増加を希望しないケースがあるためです。
企業には仕事がある。
従業員にも働く能力がある。
それでも勤務時間を増やせない。
このミスマッチが、日本の人手不足を一段と複雑にしています。
働き控えは408万人
伊藤忠総研の推計によると、年収の壁を意識して働く時間を抑えている短時間労働者は、2026年4月から6月に408万人いました。
2022年から37万人減少したものの、依然として大きな規模です。
短時間労働者の約2割が年収の壁を意識しているとみられています。
企業から見れば、既に雇用している従業員の中に追加勤務を依頼しにくい人が相当数いることになります。
人手不足だから勤務時間を増やしてほしいと企業が考えても、本人が壁を超えたくなければシフトを増やすことはできません。
130万円の壁が残っている
2026年10月から、短時間労働者の社会保険加入をめぐる106万円の賃金要件は撤廃されました。
しかし、社会保険上の扶養に関係する130万円の壁は残っています。
扶養内で働き続けたい人にとっては、年収130万円が引き続き重要な基準になります。
勤務時間を増やした結果、扶養から外れれば、新たに社会保険料を負担する場合があります。
壁を少し超えただけでは、収入が増えても手取りが十分に増えないことがあります。
そのため、追加勤務を頼まれても断るという行動につながります。
週20時間も意識される
もう1つ重要なのが週20時間という基準です。
106万円という賃金要件がなくなっても、短時間労働者の社会保険加入に関係する週20時間という労働時間要件は残っています。
例えば週18時間や19時間働いている人にとって、勤務時間を数時間増やすことには大きな意味があります。
単純に給与が増えるだけではありません。
社会保険加入の条件にも関係するからです。
その結果、企業が週2時間だけ追加勤務をお願いしても、本人にとっては制度上の境界線をまたぐ問題になる場合があります。
最低賃金上昇で勤務時間を減らす人もいる
2026年度の最低賃金の全国加重平均は1,177円です。
前年度から56円上昇しました。
企業が時給を上げれば、普通は従業員の収入も増えます。
ところが、年収を一定額以内に抑えたい人は、時給が上がった分だけ勤務時間を減らすことがあります。
記事では、大手スーパーの担当者が、最低賃金の上昇分だけ勤務時間を減らして収入を変えないようにしたい人が多いと説明しています。
企業にとっては、人手不足対策として必要な賃上げが、逆に勤務時間の減少につながる場合があるわけです。
企業が一方的に時間を増やすことはできない
企業が人手不足だからといって、従業員の勤務時間を自由に増やせるわけではありません。
雇用契約や本人の希望があります。
特にパート勤務を選んでいる人には、育児、介護、家事、健康、学習などさまざまな事情があります。
年収の壁だけが短時間勤務の理由ではありません。
したがって、人手不足だから全員の勤務時間を増やせばよいという解決策は現実的ではありません。
重要なのは、もっと働きたい人まで制度上の理由で時間を抑えていないかという点です。
年末だけの問題ではなくなっている
年収の壁による勤務調整というと、年末のシフト削減を思い浮かべる人も多いでしょう。
年間収入が基準を超えそうになり、11月や12月の勤務を減らすケースです。
しかし、最低賃金や時給が上昇すると、以前より早く一定の年収に到達します。
そのため、勤務調整が年間を通じた問題になっていきます。
企業側も、年末だけ人手を確保すればよいわけではありません。
年間のシフト設計そのものを考え直す必要があります。
新しく採用するにも限界がある
既存の従業員が勤務時間を増やせないのであれば、新しい人を採用するという方法があります。
しかし、多くの業界が同時に人手不足になっています。
企業同士で限られた労働力を取り合っている状況です。
しかも新しく採用した人も扶養内勤務を希望する可能性があります。
1人当たりの勤務時間が短ければ、必要な総労働時間を確保するために多くの人数を採用しなければなりません。
採用だけで問題を解決することは次第に難しくなっています。
短時間労働者は増えても総労働時間は減った
この問題は統計にも表れています。
2025年の短時間労働者は1,614万人で、2019年と比べて5%増えました。
一方、1人当たりの総実労働時間は月79.1時間となり、2019年から7%減少しました。
人数と労働時間を掛け合わせた労働供給量は2%減っています。
短時間労働者34.8万人分の労働力に相当する減少です。
企業が人を採用しても、1人当たりの勤務時間が短くなれば、総労働力が増えるとは限りません。
企業側にも社会保険料負担がある
勤務時間を増やして社会保険加入の対象になれば、企業側にも社会保険料負担が発生します。
厚生年金や健康保険の保険料は、本人だけが負担するものではありません。
企業も負担します。
ただし、人手不足のなかで社会保険料負担を避けるためだけに勤務時間を細分化し続ければ、より多くの人を採用し、教育し、管理する必要が生じます。
社会保険料だけでなく、採用や教育などを含めた全体のコストを見る必要があります。
既存人材の活用という視点
人口減少が続く日本では、新しい働き手を無限に増やすことはできません。
そこで重要になるのが、既に働いている人の力を生かすことです。
もちろん、短時間勤務を希望する人に長時間労働を求めるという意味ではありません。
本人がもっと働きたいと考えているにもかかわらず、年収の壁を理由に勤務時間を抑えているのであれば、その制約を小さくするという考え方です。
企業にとっても、新規採用だけに頼らず、経験のある従業員に希望する範囲で長く働いてもらえることには大きなメリットがあります。
結論
人手不足なのに企業がパート社員の勤務時間を簡単に増やせない背景には、働く側の事情と制度上の壁があります。
2026年4月から6月には、年収の壁を意識して働く時間を抑えている短時間労働者が408万人いると推計されています。
106万円の賃金要件が撤廃されても、130万円の壁や週20時間という基準は残っています。
さらに最低賃金が上昇すると、一定の年収以内で働ける時間は短くなります。
企業が人手を必要としている。
本人にも働く余力がある。
それでも制度上の境界線を理由に勤務時間を増やせない。
この状態が続けば、新しい人を採用して不足時間を埋め続けなければなりません。
人口減少社会では、その方法にも限界があります。
人手不足対策では新しい働き手を増やすだけでなく、既に働いている人が希望する時間まで無理なく働ける環境を整えることが重要です。
年収の壁の問題は、家計の手取りだけではなく、日本企業が限られた人材をどう生かすかという問題でもあります。
参考
日本経済新聞 2026年10月1日朝刊 労働臨界「働き控え」なお400万人超 「年収の壁」106万円撤廃