社員の働く意欲を高めようとすると、給与を上げる、賞与を増やす、昇進させるといった方法を考えがちです。
もちろん、こうした外から与えられる報酬は重要です。
しかし、人が仕事に主体的に取り組む理由は、それだけではありません。
自分で仕事の進め方を考えたい。自分の能力を発揮したい。周囲の人と良い関係を築きながら働きたい。
こうした人間の内側にある心理的な欲求も、働く意欲に大きく関係します。
この仕組みを考えるうえで重要なのが「自己決定理論」です。
静かな退職を防ぐためにも、社員を外から動かすだけでなく、社員自身が「この仕事に取り組みたい」と思える環境をどのようにつくるかという視点が重要になります。
自己決定理論とは何か
自己決定理論とは、人がどのような条件のもとで自律的に行動し、意欲を持ち続けることができるのかを説明する心理学の理論です。
人は、外から報酬を与えられたり、命令されたりすることによって行動することがあります。
たとえば、
給与をもらうために働く
上司に怒られないために仕事をする
評価を上げるために成果を出す
といった行動です。
これらも働くための重要な動機です。
しかし、外から与えられる理由だけで働いていると、その報酬や監督がなくなったときに行動が続かない場合があります。
一方、自分自身が仕事に意味を感じ、納得して行動している場合には、より主体的な行動につながりやすくなります。
自己決定理論では、そのような自律的な動機づけを支える重要な心理的欲求として、自律性、有能感、関係性が重視されます。
自律性とは何か
一つ目が自律性です。
自律性とは、自分の行動を自分で選択していると感じられることです。
何でも好き勝手にできるという意味ではありません。
会社で働いていれば、当然守らなければならないルールがあります。
期限や目標もあります。
その中でも、
どのような方法で仕事を進めるか
どの順番で取り組むか
どのような工夫をするか
どこまで自分で判断できるか
といった一定の裁量を持つことができます。
上司からすべて細かく指示され、その通りに行動するだけでは、自分で仕事をしている感覚を持ちにくくなります。
反対に、自分の判断や工夫を仕事に反映できれば、「自分がこの仕事を動かしている」という感覚が生まれます。
自律性と放任は違う
社員に自律性を与えるというと、「好きなように仕事をさせればよい」と考えるかもしれません。
しかし、自律性と放任は違います。
目標も示さない。
必要な情報も与えない。
困っていても支援しない。
結果だけを本人の責任にする。
これは自律性ではありません。
自律性を高めるためには、仕事の目的や期待される成果を明確にしたうえで、その達成方法について一定の裁量を与えることが重要です。
管理職には、何でも指示するのでも、完全に任せきるのでもない関わり方が求められます。
有能感とは何か
二つ目が有能感です。
有能感とは、自分には必要な能力があり、その能力を使って仕事を達成できているという感覚です。
人は、自分の能力を発揮できると仕事に前向きになりやすくなります。
以前はできなかった仕事ができるようになった。
難しい問題を自分で解決できた。
身につけた知識が仕事に役立った。
顧客から専門性を評価された。
こうした経験は有能感につながります。
反対に、何をしても失敗する、仕事が難し過ぎて全く対応できないという状態が続けば、自信を失います。
しかし、仕事が簡単過ぎても有能感を十分に得られない場合があります。
能力を発揮する必要がないからです。
本人の能力に合った適切な挑戦が重要になります。
研修だけでは有能感は高まらない
人的資本経営では、社員への研修やリスキリングが重視されています。
しかし、知識を学ばせるだけでは有能感につながらない場合があります。
研修で新しい知識を身につけても、実際の仕事で使う機会がない。
資格を取得しても、それまでと同じ仕事しか任されない。
新しい能力を身につけても、会社から評価されない。
これでは、「自分の能力を発揮できている」という感覚は生まれにくいでしょう。
能力開発と仕事の設計を結びつける必要があります。
学ぶ機会と、その能力を実際に使う機会の両方を用意することが重要です。
関係性とは何か
三つ目が関係性です。
関係性とは、周囲の人とつながり、自分が受け入れられていると感じられることです。
職場では、
困ったときに相談できる
自分の仕事を見てくれる人がいる
成果を一緒に喜んでくれる
自分がチームの一員だと感じられる
といった経験が関係性を支えます。
仕事は一人で完結するものばかりではありません。
同僚、上司、部下、顧客など、さまざまな人との関係の中で行われます。
そのため、職場で孤立していると、仕事そのものに問題がなくても心理的なつながりを失う可能性があります。
リモートワークでは関係性に注意する
リモートワークによって、働く場所の自由度は大きく高まりました。
通勤時間を減らせるなど、多くのメリットがあります。
一方で、職場で自然に発生していたコミュニケーションが減る可能性があります。
隣の席の同僚との短い会話。
仕事が終わったときの何気ない声掛け。
上司からのちょっとしたフィードバック。
困っている様子を周囲が察知する機会。
こうした小さな交流が減れば、社員が孤立する可能性があります。
オンライン会議の回数を増やせば解決するとは限りません。
仕事の進捗確認だけではなく、人とのつながりを感じられるコミュニケーションをどのようにつくるかが重要になります。
三つの心理的欲求は相互に関係する
自律性、有能感、関係性は、それぞれ独立しているだけではありません。
互いに影響します。
たとえば、新しい仕事を任された社員がいるとします。
仕事の進め方について裁量があるため、自律性を感じます。
自分の能力を使って仕事を成功させれば、有能感が高まります。
さらに、その成果を上司や同僚が認めてくれれば、関係性も強まります。
すると「次も挑戦してみよう」という主体的な意欲が生まれやすくなります。
反対に、細かく指示され、自分の能力を使えず、周囲とのつながりもなければ、仕事への心理的な関与は弱くなる可能性があります。
静かな退職との関係
静かな退職では、社員が仕事との心理的な距離を広げます。
必要以上の仕事をしない。
新しい提案をしない。
周囲の仕事に関わらない。
求められた範囲だけ仕事をする。
こうした状態の背景には、三つの心理的欲求が十分に満たされていない場合があります。
何をするにも上司の指示が必要で、自分で決められない。
自分の能力を使える仕事がなく、成長も感じられない。
職場で孤立し、誰とも十分につながっていない。
こうした状態が続けば、「この仕事にもっと関わりたい」という気持ちは生まれにくくなります。
静かな退職を防ぐには、単純に社員を励ますのではなく、仕事そのものが心理的欲求を満たせる設計になっているかを見る必要があります。
給与だけでは主体性を買えない
給与は働くうえで極めて重要です。
生活を支えるだけでなく、仕事に対する評価を示す意味もあります。
しかし、給与を上げれば必ず社員が主体的に働くようになるとは限りません。
給与は高い。
しかし仕事の方法を何も決められない。
能力を発揮する機会がない。
職場で孤立している。
こうした状態では、会社を辞める理由は減ったとしても、「もっとこの仕事に関わりたい」という意欲まで高まるとは限りません。
社員を会社にとどめることと、社員が主体的に仕事へ関わることは別の問題です。
管理職ができること
自律性、有能感、関係性は、会社の制度だけでなく日常のマネジメントにも大きく左右されます。
部下に仕事の目的を説明したうえで、方法は本人に考えてもらう。
本人の能力より少し難しい仕事を任せ、必要なときには支援する。
成果について具体的なフィードバックを行う。
仕事が組織や顧客にどのような価値を生んだのかを伝える。
困ったときに相談できる関係をつくる。
こうした日常的な行動が、三つの心理的欲求を支えます。
大規模な人事制度改革を行わなくても、管理職の関わり方によって変えられる部分はあります。
人的資本経営では心理的条件も重要になる
人的資本経営では、人材をコストではなく企業価値を生み出す資本として捉えます。
そのため、研修費や教育投資額などが注目されます。
しかし、人材に多額の投資をしても、その人が能力を発揮したいと思える環境がなければ十分な成果にはつながりません。
自分で考えて行動できる。
能力を発揮できる。
周囲とつながっている。
こうした心理的条件があって初めて、社員が持つ知識や経験を主体的に仕事へ投入しやすくなります。
人的資本経営では、「何を社員に与えるか」だけでなく、「社員がどのような状態で働いているか」も考える必要があります。
結論
自己決定理論とは、人がどのような条件で自律的に行動し、主体的な意欲を持つことができるのかを考える理論です。
その重要な心理的欲求として、自律性、有能感、関係性があります。
自律性とは、自分の行動を自分で選択しているという感覚です。
有能感とは、自分の能力を発揮し、仕事を達成できているという感覚です。
関係性とは、周囲の人とつながり、自分が受け入れられているという感覚です。
これらが満たされれば、社員は外から命令されるだけではなく、自ら仕事に関わろうとする意欲を持ちやすくなります。
反対に、裁量がなく、能力を発揮できず、職場でも孤立していれば、仕事との心理的な距離が広がり、静かな退職につながる可能性があります。
企業が社員に「もっと主体性を持ってほしい」と考えるのであれば、主体性を本人の性格だけに求めるべきではありません。
社員が自分で考え、能力を発揮し、人とのつながりを感じられる仕事と職場をつくる必要があります。
人を動かすことから、人が自ら動きたくなる条件を整えることへ。
それが静かな退職を防ぎ、ワークエンゲイジメントを高めるうえでも重要な視点になるでしょう。
参考
日本経済新聞 2026年8月19日朝刊 「静かな退職」どう防ぐか(下) 心理的な背景 見極め対応を