カスタマーハラスメント対策というと、法律への対応や顧客トラブルへの備えというイメージが強いかもしれません。
しかし、カスハラ対策にはもう一つ重要な側面があります。
人材戦略です。
顧客から暴言や威圧的な言動を受けても会社が助けてくれない。
困って上司へ相談しても、
接客業なのだから仕方がない
と言われる。
こうした職場で働き続けたいと思う人は多くないでしょう。
反対に、顧客とのトラブルが起きたとき、
一人で対応しなくてよい
一定の段階で責任者へ交代できる
危険ならサービス提供を中断できる
会社が組織として対応してくれる
という職場であれば、従業員の安心感は大きく変わります。
2026年10月1日から企業にカスハラ対策が義務付けられますが、その意味は単なる法令順守にとどまりません。
人手不足が深刻になるなか、従業員を顧客から守れる会社であること自体が、人材を確保するための重要な経営条件になりつつあります。
カスハラはなぜ離職につながるのか
顧客と接する仕事では、一定のクレームを受けることは避けられません。
商品に問題がある。
説明が分かりにくい。
サービスに不満がある。
こうした顧客からの意見に対応することは、仕事の一部でもあります。
しかし、
人格を否定する暴言を繰り返される
長時間にわたって拘束される
机をたたくなどして威嚇される
個人のSNSまで追いかけられる
といった行為は通常のクレームとは異なります。
これが繰り返されれば、従業員に大きな負担がかかります。
その結果、休職や離職につながる可能性があります。
会社の対応が離職を左右する
従業員がカスハラを受けた場合、顧客の行為そのものだけでなく、その後の会社の対応も重要になります。
たとえば従業員が上司へ相談したとします。
そこで、
お客様なのだから我慢してください
あなたの接客にも原因があるのではないですか
それくらい自分で処理してください
と言われたらどうでしょうか。
従業員は顧客から攻撃されただけでなく、会社からも守ってもらえなかったと感じる可能性があります。
反対に、
すぐに責任者が対応を引き取る
顧客との接触を避ける
必要なら本社が対応する
といった措置が取られれば、会社への信頼は大きく変わります。
カスハラを完全に防ぐことは難しくても、発生後に会社がどう対応するかは企業自身が決められます。
人手不足で一人の離職の影響が大きくなる
カスハラ対策が人材戦略として重要になる背景には、人手不足があります。
小売。
飲食。
宿泊。
物流。
交通。
介護。
コールセンター。
こうした顧客と直接接する業界では、人材確保が大きな経営課題になっています。
従業員一人が退職すれば、新しい人を採用しなければなりません。
採用広告を出す。
面接する。
研修する。
仕事を覚えてもらう。
新しい従業員が戦力になるまでには時間も費用もかかります。
カスハラを放置して従業員が辞めることは、人事上の問題だけでなく企業のコストにも直結します。
経験のある従業員を失う損失は大きい
特に大きいのが、経験を積んだ従業員が離職する場合です。
接客の仕事では、マニュアルだけでは身につかない知識があります。
顧客への説明方法。
トラブルへの対応。
商品知識。
ほかの従業員との連携。
新人への指導。
こうしたノウハウは長い時間をかけて蓄積されます。
カスハラを原因としてベテラン従業員が辞めれば、その人の労働力だけでなく、会社に蓄積されていた経験まで失われることになります。
従業員を守ることは、企業の人的資本を守ることでもあります。
カスハラ対策は従業員エンゲージメントにも関係する
従業員エンゲージメントとは、従業員が会社や仕事に対して持つ信頼や貢献意欲などを考える概念です。
カスハラ対策は、このエンゲージメントにも影響します。
従業員が、
会社は売上だけを見ている
顧客のほうが従業員より大切にされている
と感じれば、会社への信頼は低下します。
反対に、
困ったときには会社が守ってくれる
という経験は、会社への信頼につながります。
相談窓口やマニュアルは単なる制度ではありません。
実際に問題が起きたとき会社が行動することによって、初めて従業員から信頼される仕組みになります。
会社が守る姿勢を見える形にする
カスハラ対策では、会社の姿勢を従業員に分かる形で示すことも重要です。
たとえば、
カスハラに対する基本方針を社内で周知する
相談窓口を明確にする
責任者を決める
対応終了の基準を示す
警察へ通報する基準を決める
といった方法があります。
顧客向けのカスハラ対策ポスターも、従業員へのメッセージになります。
会社が店頭で、
暴力や脅迫などには毅然と対応します
と明示していれば、従業員は会社の方針を確認できます。
企業が従業員を守る姿勢を言葉だけでなく制度として示すことが重要です。
採用活動でもカスハラ対策が評価される可能性がある
今後は、カスハラ対策が採用活動にも影響する可能性があります。
求職者が職場を選ぶ際には、
給与
休日
勤務時間
福利厚生
勤務地
などさまざまな条件を比較します。
そこに、
安心して働ける職場なのか
という要素も加わります。
特に接客業では、顧客とのトラブルが起きたとき会社がどのように対応するのかは重要です。
カスハラ対策の基本方針や相談体制、研修制度などを採用情報として示す企業が増える可能性があります。
認定制度が企業選びの材料になる可能性もある
カスハラ対策に取り組む企業を認定する動きも始まっています。
日本コンタクトセンター協会では、責任者の選任や基本方針の策定などに取り組む企業の認定制度を設けています。
こうした認定制度が広がれば、求職者にとって、
従業員保護に取り組んでいる企業かどうか
を判断する一つの材料になる可能性があります。
これまで企業は、
顧客満足度
を競ってきました。
今後は、
従業員安心度
ともいえる要素が企業評価の対象になるかもしれません。
顧客満足と従業員保護は対立するのか
カスハラ対策を強化すると、
顧客サービスが悪くなるのではないか
と心配する企業もあるかもしれません。
しかし、顧客満足と従業員保護を単純な対立関係として考える必要はありません。
疲弊した従業員が高品質なサービスを提供し続けることは難しいからです。
安心して働ける。
困ったときに上司へ相談できる。
悪質な顧客への対応を会社が引き取ってくれる。
こうした環境があれば、従業員は通常の顧客に対してより落ち着いて対応できます。
従業員を守ることは、結果として多くの顧客へのサービス品質を守ることにもつながります。
一人の悪質な顧客と多くの顧客を分けて考える
企業は顧客を失うことを恐れるため、悪質な顧客にも対応を続けてしまう場合があります。
しかし、一人の顧客への対応に何時間も費やせば、その時間はほかの顧客へのサービスに使えません。
店舗で顧客が長時間大声を出していれば、周囲の顧客も不快に感じる可能性があります。
従業員が疲弊すれば、通常の接客にも影響します。
つまり、
悪質な顧客との関係を維持すること
が、
すべての顧客を大切にすること
とは限りません。
場合によってはカスハラへの対応を打ち切ることが、ほかの顧客や従業員を守ることになります。
管理職の役割も変わる
カスハラ対策を人材戦略として考える場合、管理職の役割は非常に重要です。
現場から相談を受けたときに、
自分で何とかしてください
ではなく、
ここからは私が対応します
と引き取れる管理職が必要になります。
そのため管理職には、
カスハラの判断基準
顧客への警告方法
対応終了の判断
従業員へのフォロー
警察や弁護士への相談
などについての研修が必要です。
従業員を守れる管理職を育てること自体が、人材マネジメントの課題になります。
カスハラの記録は人事データにもなる
企業がカスハラの発生状況を記録すると、人材戦略にも活用できます。
どの店舗で発生が多いのか。
どの業務で従業員の負担が大きいのか。
長時間対応はどの程度あるのか。
カスハラを経験した従業員の離職率は高いのか。
こうした情報を分析すれば、人員配置や研修、業務設計を見直す材料になります。
カスハラ対策を個別のトラブル処理で終わらせず、職場環境改善のデータとして利用することが重要です。
法令対応から経営戦略へ変わる
2026年10月からカスハラ対策が義務化されれば、多くの企業が最低限の体制を整えることになります。
すると、その次に違いが出るのは、
どこまで実効性のある対策を行っているのか
という点です。
相談窓口だけ設置する会社。
実際に管理職が顧客対応を引き取る会社。
従業員の実名表示まで見直す会社。
AIなどを利用してカスハラを早期発見する会社。
業界の認定制度を取得する会社。
同じ法律に対応していても、従業員が感じる安心感には差が生まれます。
その差が採用や定着に影響する可能性があります。
従業員を守る企業が選ばれる
これまで企業のカスハラ対策は、
トラブルをどう処理するか
という守りの施策として考えられがちでした。
しかし、人手不足が進めば意味が変わります。
従業員を守れる会社は、人材を採用しやすくなる。
従業員が辞めにくくなる。
経験のある人材を残せる。
安心して働けることでサービス品質も維持できる。
このようにカスハラ対策は、人材確保と企業競争力に結びつく可能性があります。
結論
カスハラ対策は、2026年10月から企業に求められる法令対応です。
しかし、それだけで考えると本質を見落とします。
カスハラを放置すれば、従業員の心理的負担が増え、休職や離職につながる可能性があります。
特に人手不足の業界では、一人の従業員を失うことによる影響は小さくありません。
だからこそ企業には、
相談できる
責任者へ引き継げる
危険なら対応を中断できる
会社が組織として顧客対応を引き取る
という仕組みが必要になります。
そして、その仕組みが実際に機能していることが従業員からの信頼につながります。
これまで企業は、顧客から選ばれるためにサービスを磨いてきました。
これからは同時に、
働く人から選ばれる会社
であることも求められます。
カスハラ対策は、迷惑な顧客への対応方法だけを考えるものではありません。
従業員を守り、人材を残し、企業のサービスを持続させるための人材戦略でもあるのです。
参考
日本経済新聞 2026年8月17日 朝刊 カスハラ対策に企業奔走
日本経済新聞 2026年8月17日 朝刊 官民で広がるサポート