日本では訪日外国人観光客(インバウンド)の話題が注目される一方で、日本人自身は旅行に出かける機会が減り続けています。パスポート保有率の低下や国内旅行参加希望率の減少は、一時的な景気や円安だけでは説明できない長期的な変化です。
旅行は単なる娯楽ではなく、人との交流や新しい経験を通じて個人や地域社会に活力をもたらす活動でもあります。本記事では、日本人の観光離れがなぜ進んでいるのか、その背景にある「ソーシャルツーリズム」という考え方とともに解説します。
日本人の旅行離れは長期的な傾向
近年、日本人の海外旅行者数はコロナ禍以前の水準に戻っていません。さらに国内旅行についても、旅行への参加意欲そのものが低下しています。
円安や物価高の影響は確かにありますが、それだけでは説明できません。同じような経済環境にある韓国や台湾では海外旅行需要が伸びています。
また、日本では1970〜1980年代のように円安で海外旅行が高額だった時代でも、多くの若者が海外を目指していました。
つまり、日本人の旅行離れは経済要因だけではなく、社会全体の価値観や働き方の変化が影響していると考えられます。
ソーシャルツーリズムとは何か
ソーシャルツーリズムとは、経済的な事情や社会的な条件によって旅行の機会を得にくい人にも観光を楽しめる環境を整備するという考え方です。
第二次世界大戦後、欧州では観光を個人の趣味ではなく、社会全体の利益につながる活動として位置付けるようになりました。
具体的には次のような取り組みが進められました。
- 低所得者への旅行支援
- 家族旅行への補助制度
- 高齢者向け旅行プログラム
- 若者向け宿泊施設の整備
- オフシーズン旅行の促進
観光の機会を広げることで、人々の健康や社会参加、地域交流を促進しようという考え方です。
バカンス制度だけでは観光は広がらない
欧州では有給休暇制度の整備が進みましたが、それだけでは旅行は広がりませんでした。
働く人の中には「休むこと」に抵抗感を持つ人も少なくありませんでした。
この経験から分かったことは、休暇制度だけでは十分ではないということです。
旅行の楽しみ方や価値を社会全体で共有し、安心して旅行できる環境づくりまで含めて支援する必要があるという考え方が生まれました。
日本にも存在したソーシャルツーリズム
実は日本でも1950年代にソーシャルツーリズムが研究されていました。
その代表例が、
- 国民宿舎
- 休暇村
- 青年の家
などの整備です。
誰でも手頃な価格で旅行を楽しめる環境づくりが進められ、多くの国民が旅行を経験するきっかけとなりました。
その後、民間の宿泊施設や旅行サービスが発展したことで、公的な取り組みは徐々に縮小していきました。
観光は人を再創造する活動
日本の観光行政に大きな影響を与えた井上万寿蔵は、観光を次のように定義しました。
「人が日常生活圏を離れ、再び戻る予定で、レクリエーションを求めて移動すること」
ここで重要なのが「レクリエーション」という言葉です。
レクリエーションの語源である「re-creation」は、「再創造」を意味します。
旅行は単なる休養ではなく、
- 新しい価値観との出会い
- 地域文化への理解
- 人との交流
- 創造性の向上
- 心身のリフレッシュ
を通じて、自分自身を新たに作り直す機会になるという考え方です。
観光は社会にも大きな効果をもたらす
観光による恩恵は旅行者だけにとどまりません。
例えば、
- 地域経済の活性化
- 地方への人の流れ
- 文化・伝統の継承
- 地域間交流の拡大
- 国際理解の促進
など、多面的な効果があります。
欧州ではこうした社会的価値を重視し、観光を福祉政策や地域政策と連携させる動きも進んでいます。
日本に求められる休み方改革
旅行離れを改善するには、旅行費用の補助だけでは不十分です。
重要なのは「休み方」そのものを見直すことです。
現在の日本では、お盆や年末年始など特定期間に休暇が集中します。
これでは旅行料金が高騰し、混雑も避けられません。
より柔軟に長期休暇を取得できる仕組みが整えば、
- 旅行時期の分散
- 地域経済の安定
- 家族旅行の増加
- 働く人のリフレッシュ
など、多くの効果が期待できます。
観光は未来への投資でもある
人口減少が進む日本では、インバウンドだけに依存した観光政策には限界があります。
国内の旅行需要を育てることは、地域経済だけでなく、人々の幸福や社会全体の活力にもつながります。
旅行は「ぜいたく品」ではなく、人と地域、人と文化、人と世界を結び直す社会的なインフラともいえるでしょう。
これからの日本には、観光を個人の趣味としてだけではなく、社会全体の価値として捉え直す視点が求められています。
結論
日本人の旅行離れは、単なる節約志向や円安だけでは説明できない長期的な社会現象です。その背景には、休暇の取り方や働き方、観光に対する価値観の変化があります。
欧州で発展してきたソーシャルツーリズムは、旅行を社会全体の利益につながる活動として位置付け、誰もが旅行を楽しめる環境づくりを目指す考え方です。
今後は長期休暇の取得促進や旅行機会の拡充など「休み方改革」を進めることで、日本人が再び旅行を通じて学び、交流し、地域を支える社会を実現できる可能性があります。
参考
日本経済新聞 朝刊 2026年8月7日 経済教室「旅行しなくなった日本人 観光の社会的価値 再考を」 山口誠・独協大学教授