親が亡くなった後、多額の借入金が見つかった場合、相続人はどのように対応すればよいのでしょうか。
相続では、預貯金や不動産などのプラスの財産だけでなく、借入金や未払金などのマイナスの財産も引き継ぐことになります。
そのため、相続財産よりも借入金が多い場合には、相続放棄を検討する必要があります。
しかし、相続放棄には注意すべき点があります。
それは、相続放棄をするつもりであっても、相続財産を処分したことによって、法律上は単純承認したものとみなされる場合があるということです。
さらに、相続放棄には原則として3カ月という期限が設けられています。
この期限を過ぎると、相続放棄が認められなくなる可能性があります。
今回は、民法第915条、第920条、第921条、第938条、第939条を中心に、相続放棄の実務上の注意点を詳しく解説します。
相続には3つの選択肢がある
相続が発生した場合、相続人には大きく分けて3つの選択肢があります。
第一は、単純承認です。
単純承認とは、被相続人のプラスの財産もマイナスの財産も、原則としてすべて引き継ぐことです。
例えば、預貯金が2,000万円、借入金が3,000万円あった場合、単純承認すると、相続人は借入金についても責任を負うことになります。
第二は、限定承認です。
限定承認とは、相続によって取得した財産の限度で、被相続人の債務などを弁済する制度です。
相続財産の範囲内で債務を清算できる一方、相続人全員による共同申述が原則として必要になるなど、手続は複雑です。
また、限定承認では、所得税法第59条に基づくみなし譲渡課税が問題になる場合もあります。
第三は、相続放棄です。
相続放棄をすると、被相続人のプラスの財産もマイナスの財産も、原則として引き継ぎません。
借入金が多額である場合には、有力な選択肢となります。
ただし、相続放棄には期限と手続上の制約があります。
相続放棄の期限は死亡日から3カ月ではない
民法第915条第1項では、相続人は自己のために相続の開始があったことを知った時から3カ月以内に、単純承認、限定承認または相続放棄をしなければならないと定めています。
この3カ月を熟慮期間といいます。
重要なのは、必ずしも被相続人の死亡日から3カ月ではないという点です。
例えば、父親が1月1日に死亡したとします。
長男が父親の死亡と、自分が相続人になったことを同日に知った場合には、原則としてその時点を基準に熟慮期間を考えます。
一方、長年音信不通だった子どもが、父親の死亡と自分が相続人になったことを後日知った場合には、その事情を踏まえて起算点を判断します。
また、先順位の相続人が相続放棄したことによって、初めて自分が相続人になる場合もあります。
この場合にも、自分について相続が開始したことを知った時点が重要になります。
相続放棄の期限を判断する際には、死亡日だけでなく、相続開始を知った事情を確認する必要があります。
3カ月以内に財産調査が終わらない場合
相続財産の調査には時間がかかることがあります。
例えば、被相続人が会社を経営していた場合、金融機関からの借入金だけでなく、連帯保証債務が存在する可能性があります。
また、取引先との訴訟や損害賠償請求など、金額が確定していない債務が見つかることもあります。
こうした事情があると、3カ月以内に相続財産の全体像を把握できない場合があります。
その場合には、家庭裁判所に熟慮期間の伸長を申し立てることができます。
民法第915条第1項ただし書では、利害関係人または検察官の請求によって、家庭裁判所が期間を伸長できると定めています。
相続人自身も利害関係人として申立てを行うことができます。
重要なのは、原則として熟慮期間内に申立てを行うことです。
財産調査が終わらないからといって、何もしないまま3カ月を経過させることは危険です。
法定単純承認とは何か
相続放棄で最も注意したいのが、民法第921条に定める法定単純承認です。
法定単純承認とは、相続人が明確に単純承認の意思表示をしていなくても、一定の行為をした場合に、法律上、単純承認したものとみなされる制度です。
民法第921条では、主に3つの場合が定められています。
第一は、相続財産の全部または一部を処分した場合です。
第二は、熟慮期間内に限定承認または相続放棄をしなかった場合です。
第三は、限定承認や相続放棄をした後でも、相続財産を隠したり、ひそかに消費したり、悪意で財産目録に記載しなかった場合です。
ただし、第三の場合には、相続放棄によって相続人となった者が相続を承認した後など、法律上の例外があります。
このうち、実務上特に問題になりやすいのが、相続財産の処分です。
預貯金を引き出すと相続放棄できなくなるのか
例えば、父親が死亡した後、長男が父親名義の預貯金から100万円を引き出したとします。
その100万円を自分の生活費に使った場合には、相続財産の処分に該当する可能性が高くなります。
相続財産を自分の財産として利用したと評価されるためです。
一方、預貯金を引き出したという事実だけで、常に単純承認になるとは限りません。
引き出した目的、金銭の使途、保管状況などによって判断が異なります。
例えば、相続財産の保全のために必要な管理を行った場合には、保存行為として扱われる可能性があります。
民法第921条第1号では、保存行為などについて、法定単純承認の対象から除外する規定が設けられています。
したがって、預貯金の引出しについては、金額だけでなく、具体的な行為の内容を確認する必要があります。
葬儀費用を相続財産から支払った場合
相続が発生すると、葬儀費用の支払いが必要になります。
そこで問題になるのが、被相続人の預貯金から葬儀費用を支払った場合です。
今回の講義資料では、相続財産からの葬儀費用の支払いについて、社会通念上不相当でないものは、原則として処分に該当しない例として整理されています。
ただし、すべての支出が無条件に認められるわけではありません。
例えば、通常の葬儀費用と比べて著しく高額な支出を行った場合には、問題が生じる可能性があります。
また、仏壇や墓石の購入についても、金額や必要性などによって判断が異なります。
相続放棄を検討している場合には、相続財産からの支払いを安易に行わないことが重要です。
支出の必要性や金額について、事前に専門家へ確認することが望まれます。
形見分けにも注意が必要
被相続人が亡くなった後、家族や親族に形見分けをすることがあります。
例えば、衣類や日用品などを親族に渡す場合です。
一般的な経済的価値がほとんどない物品については、通常、相続財産の処分とは評価されにくいと考えられます。
しかし、高価な腕時計、貴金属、美術品などを形見分けとして渡した場合には、事情が異なります。
これらは経済的価値のある相続財産です。
そのため、贈与や処分と評価され、法定単純承認に該当する可能性があります。
本人としては単なる形見分けのつもりでも、法律上は財産処分と判断されることがあるのです。
相続放棄を検討している段階では、価値のある財産の譲渡や処分を控えることが安全です。
不動産の売却や建物の取壊しは危険
相続財産に不動産がある場合には、特に注意が必要です。
例えば、父親が所有していた土地を長男が売却した場合です。
この行為は、相続財産の処分に該当します。
また、被相続人が所有していた建物を取り壊した場合にも、処分と評価される可能性があります。
たとえ老朽化した建物であっても、相続放棄を検討している段階で独断で取り壊すことは危険です。
ただし、倒壊の危険がある建物について、必要最小限の安全確保措置を講じる場合などは、保存行為として評価される余地があります。
重要なのは、財産の価値や権利関係を変更する行為と、財産を保全するための行為を区別することです。
不動産の売却、贈与、取壊しなどは、相続放棄の判断が終わるまで慎重に対応する必要があります。
会社経営者の相続では議決権行使にも注意
被相続人が会社経営者であった場合には、さらに複雑な問題が生じます。
例えば、父親が非上場会社の株式を所有していたとします。
父親の死亡後、長男がその株式について株主として議決権を行使した場合です。
今回の講義資料では、相続財産である株式についての議決権行使が、法定単純承認に該当し得る行為として挙げられています。
会社の経営を維持するために必要だと考えて行動したとしても、相続財産に対する権利行使と評価される可能性があります。
ただし、議決権行使の具体的な態様や事情によって法的評価は異なり得ます。
特に中小企業の事業承継では、相続放棄の検討と会社経営の継続が同時に問題になることがあります。
このような場合には、会社法と相続法の双方を踏まえた慎重な対応が必要です。
被相続人の借入金を返済した場合
相続放棄を検討している場合、被相続人の借入金を返済してよいのでしょうか。
ここでは、返済に使った資金が重要になります。
例えば、長男が自分自身の預貯金から父親の借入金を返済した場合です。
この場合、被相続人の相続財産を処分したわけではありません。
したがって、自己資金による返済だけを理由に、直ちに法定単純承認になるとは限りません。
一方、被相続人の預貯金から借入金を返済した場合には、相続財産の使用が問題になります。
今回の講義資料では、相続財産中の現金による被相続人の相続債務の弁済は、保存行為として処分に該当しない例に整理されています。
ただし、債務の内容や支払方法などによって評価が異なる可能性があります。
相続放棄を予定している場合には、返済の必要性や資金の出所を確認したうえで対応することが重要です。
死亡保険金の受取りはどうなるのか
生命保険金についても、相続放棄との関係を整理する必要があります。
例えば、父親が契約していた生命保険について、長男が死亡保険金の受取人に指定されていた場合です。
この場合、死亡保険金請求権は、原則として長男自身の固有の権利として取得するものです。
そのため、死亡保険金を受け取ったことだけで、通常、相続財産を処分したことにはなりません。
また、相続放棄をした場合でも、受取人固有の死亡保険金を受け取ることは原則として可能です。
ただし、税務上は別の問題があります。
被相続人が保険料を負担していた死亡保険金は、相続税法上のみなし相続財産となる場合があります。
さらに、相続放棄をした人が取得した死亡保険金については、生命保険金の非課税枠を適用できない点にも注意が必要です。
民法上の相続財産に該当するかどうかと、相続税の課税対象になるかどうかは、別々に判断する必要があります。
相続放棄は家庭裁判所への申述が必要
相続放棄について、家族間で財産を受け取らないと約束すればよいと考えている人もいます。
しかし、それだけでは民法上の相続放棄にはなりません。
民法第938条では、相続放棄をするためには家庭裁判所に申述しなければならないと定めています。
例えば、遺産分割協議書に長男は相続財産を取得しないと記載した場合です。
これは、遺産分割によって財産を取得しないという合意であり、民法上の相続放棄とは異なります。
そのため、長男が財産を取得しなかったとしても、被相続人の債務について、債権者から請求を受ける可能性があります。
借入金を引き継がないために相続放棄を選択するのであれば、家庭裁判所への適切な申述が必要です。
相続放棄をすると相続人の順位が変わる
相続放棄には、他の親族への影響もあります。
民法第939条では、相続放棄をした者は、その相続に関して初めから相続人とならなかったものとみなすと定めています。
例えば、父親が死亡し、配偶者と子ども2人が相続人になったとします。
子ども2人が相続放棄をした場合、子どもたちは初めから相続人ではなかったものとして扱われます。
その結果、父親の直系尊属が生存していれば、直系尊属が相続人になる可能性があります。
直系尊属がいなければ、兄弟姉妹が相続人になる場合もあります。
ここで重要なのは、相続放棄によって代襲相続が発生するわけではないという点です。
子どもが相続放棄をしても、その子どもの子どもである孫が当然に代襲相続人になるわけではありません。
相続放棄と代襲相続を混同しないことが重要です。
相続税の基礎控除額では放棄がなかったものとする
相続放棄では、民法と相続税法の取扱いが異なる点にも注意が必要です。
民法では、相続放棄をした人は初めから相続人ではなかったものとみなされます。
しかし、相続税法第15条第2項では、基礎控除額の計算に用いる法定相続人の数について、相続放棄がなかったものとして計算することが定められています。
例えば、父親が死亡し、配偶者と子ども2人がいたとします。
子ども2人が相続放棄をした場合でも、相続税の基礎控除額を計算する際の法定相続人の数は、原則として3人です。
したがって、基礎控除額は4,800万円になります。
相続放棄によって実際の相続人が変わったからといって、相続税の基礎控除額まで同じように変わるわけではありません。
これは、相続税申告で間違えやすい重要な論点です。
相続放棄をする前に確認したい実務上のポイント
相続放棄を検討する場合には、まず被相続人の財産と債務を調査することが重要です。
預貯金、不動産、有価証券などのプラスの財産だけでなく、借入金、未払金、連帯保証債務なども確認します。
次に、自分が相続人になったことを知った時期を確認します。
熟慮期間の起算点を誤ると、相続放棄の期限を過ぎる可能性があります。
また、相続財産を処分していないかどうかも確認します。
預貯金の引出し、不動産の売却、株式の議決権行使、価値のある形見分けなどは、慎重に判断する必要があります。
さらに、相続放棄によって次順位の親族が相続人になる可能性も確認します。
相続放棄は本人だけの問題ではなく、家族全体の相続関係に影響することがあります。
結論
相続放棄は、多額の借入金などから相続人を守るための重要な制度です。
しかし、相続放棄をするつもりであっても、相続財産を処分したことによって、法律上は単純承認したものとみなされる場合があります。
特に注意したいのは、預貯金の引出し、不動産の売却、価値のある形見分け、会社株式に関する権利行使などです。
また、相続放棄には原則として3カ月の熟慮期間があります。
財産調査が終わらない場合には、期間伸長の申立てを検討する必要があります。
さらに、相続放棄は家庭裁判所への申述が必要であり、遺産分割協議で財産を取得しないこととは異なります。
相続税法上も、基礎控除額の計算では相続放棄がなかったものとして法定相続人の数を計算するなど、民法とは異なる取扱いがあります。
相続放棄で最も重要なのは、相続財産の全体像を把握する前に、安易に財産を処分しないことです。
相続が発生した直後の行動が、その後の法律関係を大きく左右することがあります。
相続放棄を検討する場合には、民法と相続税法の双方を理解し、期限と財産管理に十分注意することが求められます。
参考
東京地方税理士会 2026年7月28日 講義資料 条文から紐解く民法・相続税法の論点検証 木下勇人氏
民法第915条、第919条、第920条、第921条、第938条、第939条
相続税法第3条、第15条、第16条、第18条
相続税法基本通達18の1
国税庁 相続税の申告と相続放棄に関する取扱い